白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストによる二つの<暴露>の現代性/言語についての<暴露>と絵画の関係

2022年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
ヴェルデュラン夫妻主催の晩餐会であるにもかかわらず、ヴェルデュラン夫人のサロンの様子はほとんど<どたばた>として描かれている一方、ブリショが開陳する様々な人名・地名語源説は、単なる<どたばた>では済まされないかのようにサロンの<どたばた>の合間も縫って何度も繰り返し描かれているのか。プルーストのテーマの一つ<暴露>は二つの系列に分かれる。第一に出版当時から言われてきたように社交界の内部暴露。第二に言語が社交界のみならず世界中で演じている言語とその作用についての<暴露>。

社交界内部はいつも呆れ返った<どたばた>ばかり繰り返しているという事情の報告に、読者は早々と飽きてくるに違いない。すると読者は第二の、言語に関する<暴露>に注目せざるを得ない。そもそも言語は一体何をやらかしていくのかという極めて記号論的な作用。それが社交界ではまるで何らの根拠もなしに時々刻々と増殖していく事情に関し、プルーストはブリショの役割を設定した上であえて繰り返し読ませている。これまでにもブリショは色々と語っているが、ここでは差し当たり二箇所。

(1)「『ウーセーという名ですが、これはウー(ヒイラギ)の植わる場所ですな。練達の外交官ドルメソンの名に認められるのはオルム(ニレの木)、つまりウェルギリウスによく出る《ウルムス》で、それがウルムの町の名にもなりました。その同僚のひとりラ・ブーレー氏の名にはブーロー(シラカバ)が認められ、ドーネー氏の名にはオーネー(ハンノキ)が認められるという次第。ビュシエール氏の場合はビュイ(ツゲの木)ですし、アルバレ氏の場合はオービエ(ヤナギ)ですし(私はこれをセレストに教えてやらなくてはと思った)、ショレ氏の場合はシュー(キャベツ)ですな』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.184~186」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「『おそらくそうはならないでしょう、こんなことを言って申しわけないのですが、木は一本しかお持ちになれません、というのもサン=マルタン=デュ=シェーヌは言うまでもなく《サンクトゥス・マルティヌス・ユクスタ・クエルクム》ですが、それにひきかえ《イフ》というのは、《アヴェ》や《エヴァ》と同じく単なる語根で、湿ったという意味で、これはアヴァロンやロデーヴやイヴェットなどの地名にも、われわれの台所の《エヴィエ》(流し)にも残っております。要するに<水>ということで、これがブルトン語では、《ステル》とか《ステルマリア》とか、《ステルラエル》とか、《ステルブーエスト》とか、《ステ=ラン=ドルーシェン》とかに出てきます』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.189」岩波文庫 二〇一五年)

ブリショのいう人名・地名語源説がどこまで正しいかは問題ではない。或る有力な貴族が代々暮らしていたのでその人名が地名になった場合もあるし、逆に特定の土地に長年暮らしているうちにその地名が当地を出身とする人々の人名になった場合もある。さらに両者が両者ともに混同し合ってきた歴史もあるだろう。或る言語は別の言語といとも容易に接続されたり切断されたり再接続されたりを繰り返してきたという点が重要なのだ。プルーストがこのような現象に見ているのは、一つの言語は一つの意味しか持たないという考え方がいかに倒錯した偏見かという遠近法的倒錯についてである。ニーチェはいう。

「言語はもろもろの大きな先入見を含んでおり、また維持している、たとえば、《一つの》語でもって表わされるものは当然また《一つの》出来事であるという先入見がそうである。意欲、欲求、衝動ーーーこれらは複雑なものなのだ!」(ニーチェ「生成の無垢・下・三三・P.28」ちくま学芸文庫 一九九四年)

さらにブリショの人名・地名語源説は中断されたり再開されたりするわけだが、次の箇所でようやくエルスチールの名が出てくる。

「『《ダル》のほうは』とブリショはなおもつづける、『《タル》の一形態で、つまり谷でして、ダルヌタル、ローゼンダルに認められるほか、ルーヴィエのそばにはベックダルまであります。ダルベックの地名の由来となった川は、なかなかきれいなものですよ。断崖(ファレーズ)から眺めますと(ドイツ語のフェルスで、ここからそう遠くない高台には美しいファレーズの町があります)、その川は教会の尖塔と隣り合っています、教会は実際にはずいぶん離れたところにあるのですが、川にその尖塔が映っているように見えるのです』。『きっとそれは』と私は言った、『エルスチールが大いに好んだ効果ですね。画家の家でそんな下書きを何枚も見ました』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.202~203」岩波文庫 二〇一五年)

エルスチールのモデルの一人とされている画家モネ。「川にその尖塔が映っているように見える」絵画は幾つかあるわけだが、例えば「ヴェトゥイユの教会」などは比較的プルーストの文章に近いかもしれない。もし人間が教会建築と水面に映る「その尖塔」との違いをあらかじめ知らず、建築物が水面に映る時の映り方をまるで知らなかったとしたら、両者のどちらが本物でどちらがそうでないか判別不可能に陥るほかない。だがモネは自分の目に見えるがままを描いた。そして当時はすでに建築物は水面ではこう映って見えるということが自明化していたため、またその限りで始めて、モネは印象派の代表者たり得たといえる。その意味で絵画もまた言語のように或る部分と別の部分とを接続したり切断したりを繰り返すことで、それまでは他の誰にも見えていなかったまったく新しい<事実>を人々の目の前で可視化する機能を担ったのである。

なお、昨日取り上げたジジェク。ジジェクの目に現時点の世界がどう見えているか。その構造は単純明快。

「今日わたしたちには三つの主たる立場(リベラル中道派ヘゲモニー、右派ポピュリズム、新左翼)があるのではなく、二つの対立項ーーー右派ポリュリズム対リベラル中道派体制ーーーがあり、そしてこの二つ(既存の資本主義の二つの面)がともに左派からの異議申し立てを受けているのである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・2・P.36」青土社 二〇二二年)

ドゥルーズ=ガタリのように無限の横断性を獲得したリゾーム世界と見ることもできるし実際そうだ。とともにジジェクは、ヘーゲル的二元論を参照しつつ「この二つ(既存の資本主義の二つの面)がともに左派からの異議申し立てを受けている」と述べる。この、もはや限りなく打ち続き反復されるほかなくなってきた「左派からの異議申し立て」。そのグローバル規模のうねりのことを差してジジェクは新時代の<左翼>を定義していると思われる。

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