白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・モレル、シャルリュス、文体変容による思想的<断層並びに時差ぼけ>

2022年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
<モレルの多様性>あるいは<多様性としてのモレル>。第一に少なくとも二つの階級(元-従僕の息子/現-軍楽隊所属ヴァイオリン奏者)を自在に移動できる点について前回述べた。第二にモレルはそもそも多様である。<私>はモレルと接するにあたって抵抗感がない。なぜないのか。「人間の多様性をそれとして楽しむ傾向があった」からだ。どんな人間であれ人間という場合、そこにはすでに「多様性」としての人間性が前提されている。そしてこの前提は、プルーストとしては当り前、常識以前だった。さらにこうある。「モレルが人間の本性についてさんざん間違った認識をした」。なぜなら「人間の本性」というものは「さんざん間違った認識を」可能にするほど「多様性」に満ちているからである。プルーストはそう読むよう読者に強いる。そう読むように強いる文体をいつも用いる。逆説的なことにプルーストの難解さや錯綜性は、読者の目の前で用いられている文体自体が持つ理路整然性にある。

「しかし私は、いくぶん祖母の性格を受け継いでいたからであろう、相手からなにかを期待したり恨んだりせず、人間の多様性をそれとして楽しむ傾向があったので、モレルの卑劣な面は気にせず、陽気な面がおもてに出るとそれを喜び、モレルが人間の本性についてさんざん間違った認識をしたあげく、私が優しくするのは欲得ずくではなく、私が寛大に振る舞うのは人を見る目がないからではなくてモレル自身が善意と呼んでいるものに基づくのだと気づいたときには(モレルは想い出したようにそうなったあと、不思議なことにすぐさま元の分別なき非社交的状態へ舞い戻った)、モレルも私に心底から友情をいだいてくれたのだと考えて嬉しくなることさえあった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.140」岩波文庫 二〇一五年)

ではなぜそこまで文体にこだわる必要があるのか。ニーチェはいう。

「《思想を改善する》。ーーー文体を改善することーーーこれは思想を改善するということであって、およそそれ以上のものではない!ーーーこれをすぐに承認しない者には、またいかにしてもそれを納得させることができない」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・一三一・P.368」ちくま学芸文庫 一九九四年)

フーコー「言葉と物」で語られていること。十七〜十八、十九世紀にかけてヨーロッパで同時多発的に生じた世界の<見え方>の変容。それは紛れもなく「文体の変容」とともに生じているだけでなく「文体の変容」とともにでなければ決して生じなかったことが思い出されるに違いない。日本では明治維新から二十年ほど経って成立した欽定憲法の主旨に沿って教育現場で押し進められた「言文一致運動」。ヨーロッパで二百年かかった事業をわずか二十〜三十年の間で強引に強行したため、夏目漱石や二葉亭四迷のような一流の文学者でさえ特定の文体に特化した余りにも酷い全国統一(ナショナリズム化)への矛盾だらけの暴走に、いずれ訪れるに違いない日本破滅の予兆を見ないわけにはいかなかった。

また「多様性」という点で、アルベルチーヌの風貌が無限に変容するにつれて<私>自身も「変動」するし「さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」と述べている。

「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)

人間は生きている以上「人生の新たな地帯、べつの地点に」次々と移動していく。地理的移動ではなく<或る価値体系>から<別の価値体系>への移動について、少なくとも「小説家」はその「変動指標をも示すべきであろう」とプルーストはいうのである。

一方、モレルに同行してきたシャルリュス。ただ単なる同性愛者であるというだけでなく、そもそも「マネージャーとして一流の才能を備えてい」た。次の箇所を見てみよう。古くからの知り合い(ゲルマント夫人)なら知っているように作曲家にもなれるし画家にもなれる。

「私はシャルリュス氏にそんな才能があるとはもとより知らなかったし、氏は自分がほんとうに優れている点については謙虚であったが、じつのところマネージャーとして一流の才能を備えていて(ただしゲルマント夫人は、たがいに若かったころ今とはまるで異なるシャルリュス氏を知っていて、氏にソナタを作曲してもらったり扇に絵を描いてもらったりしたと語っていた)、モレルの技巧を多様な芸術的方面に役立てるすべを心得て、その芸を何倍にもしてやった。バレエ・リュスのある器用なだけのダンサーが、ディアギレフ氏から仕込まれ、訓練を受け、あらゆる方面に技量を伸ばしてもらったことを想像すべきである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.141」岩波文庫 二〇一五年)

なるほど「マネージャーとして一流の才能を備えてい」たことは確かだろう。しかし次の会話を振り返ってみよう。

「『おわかりですか』と氏はことばをついだ、『あの手合いがまず手をつけたのは、ル・ノートルの庭園の破壊です。プッサンの画をひき裂くにも等しい犯罪行為じゃありませんか。これだけでも、あのイスラエル一族は監獄にぶちこまれて然るべきでしょう』。シャルリュス氏は、しばし口をつぐむと、にやりとしてつけ加えた、『じつのところ、連中が牢屋入りとなるべき原因はほかにいくらでもあるんです!いずれにしてもあの建物の前にイギリス式庭園をつくったりすればどんな結果になるかは皆さんにもおわかりでしょう』。『でもあのお屋敷はプチ・トリアノンと同じ様式ですよ』とヴィルパリジ夫人は言った、『マリー・アントワネットだってそこにイギリス式庭園をつくらせましたわ』。『それがガブリエル設計のファサードの美観をそこねているのです』とシャルリュス氏は答えた、『もちろん今じゃル・アモーを壊そうとすれば野蛮な行為とみなされるでしょう。しかしこんにちの風潮がどうであれ、こんなイスラエル夫人の気まぐれが<王妃>の想い出の庭園と同じ威光をまとうとは思えません』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.273~275」岩波文庫 二〇一二年)

ここで重要なのはシャルリュスがただ単なる「マネージャー」としての才覚にのみ恵まれていたということではない。「もちろん今じゃル・アモーを壊そうとすれば野蛮な行為とみなされるでしょう」という言葉にはプルースト「失われた時を求めて」というタイトル通り、数十年から数百年におよぶ<時間>の観念がきちんと計算に入っている。現代の造園技術を用いればいきなり庭石にそれなりの苔(こけ)をくっ付けたり古錆びた庭石を加工したりもできる。だが当時は数十年後、その庭園がどうなっているかということが計算に入っていなければ造園したにしても成功か失敗かなど誰にもわからない。にもかかわらず「もちろん今じゃル・アモーを壊そうとすれば野蛮な行為とみなされるでしょう」と言えるのはシャルリュスが「今」の時点での「ル・アモー」の価値を見抜いている証拠にほかならず、したがってシャルリュスはただ単なる「マネージャー」どころか長期的戦略を打ち立てうるプランナーあるいはプロデューサー、それもパリのフォーブール・サン=ジェルマンに邸宅を構える大貴族たちの交流のあり方を企画したり調整したりを繰り返していたとプルーストが書いている通りの大立者だった証しでもある。

そのような点に限ればシャルリュスは間違えない人物。しかしその他大勢は百年の時差ぼけを生じるし実際に生じたことはプルーストがルノワールの絵画を実例に出していることを何度も繰り返し振り返ってみるだけでなく、思考のアップ・デートの重要性を予言してもいる。

「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)

というようなところでようやくカンブルメール夫妻が到着。場面はがらりと転回する。

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