<私>は「アルベルチーヌのいない自由の身になりたい、という渇望にさえとり憑かれた」。なぜなら「私が夢見ることになる未知の女」と自由に遊び戯れることが、今後一切不可能になるからである。ゆえにアルベルチーヌとの結婚は是が非でも避けなければならない。とともに常にアルベルチーヌを<監視>しておくこと。そしてアルベルチーヌがいつどこで何をしたか、すべて漏れなく<私>に報告されること。そのような「警視総監、炯眼(けいがん)の外交官、警察庁長官」としての役割はアンドレに託されている。
するとたちまち<私>は「アルベルチーヌからは、もはやなにも学ぶものがなかった」ばかりか「その美しさも、日ごとに減じてゆくような気がした」。今や<私>の厳重な監視下に置かれたアルベルチーヌには、それまで<ある>と信じて疑っていなかった魅力など何一つなくなるからだ。にもかかわらずアルベルチーヌが<私>に苦痛を与えることを完全に阻止することはできない。「アルベルチーヌがほかの者たちにかき立てる欲望のせいで、それを知った私がふたたび苦しみはじめ、そのライバルたちと覇(は)を競おうとするときだけ、私の目にアルベルチーヌは高嶺(たかね)の花と映った」からである。単純に言えば嫉妬がぶり返すわけだが、この<嫉妬の反復>を通してのみ、「私の厄介な愛着は存続していた」と感じることができるようになる。
「それにひきかえアルベルチーヌからは、もはやなにも学ぶものがなかった。その美しさも、日ごとに減じてゆくような気がした。ひとえにアルベルチーヌがほかの者たちにかき立てる欲望のせいで、それを知った私がふたたび苦しみはじめ、そのライバルたちと覇(は)を競おうとするときだけ、私の目にアルベルチーヌは高嶺(たかね)の花と映った。アルベルチーヌ本人は、私の苦しみの原因にはなりえても、いささかも私に歓びを与えることはなかった。ただ苦痛によってのみ、私の厄介な愛着は存続していたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.60」岩波文庫 二〇一六年)
嫉妬によって襲いかかる苦痛とその反復。苦痛を通してのみ認識できる愛の存続。かつてスワンがそうだったように。
(1)「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)
(2)「スワンは郵便局から家に戻ったが、この一通だけは出さずに持ち帰った。ロウソクに火をつけ、封筒を近づけた。開けてみる勇気はなかったのである。最初はなにも読めなかったが、なかの固いカード状用箋を封筒の薄い紙に押しつけると、最後の数語が透けて読めた。きわめて冷淡な結びのことばである。今のようにフォルシュヴィル宛ての手紙を自分が見るのではなく、かりに自分宛ての手紙をやつが読んだら、はるかに愛情あふれる言葉がやつの目に入ったことだろう!スワンは、大きすぎる封筒のなかで揺れる用箋を動かないように押さえ、それからなかの用箋を親指でずらして、書いてある行を順ぐりに封筒の二重になっていない部分にもってきた。そこなら透けて読めたのである。それでも、はっきりとは判読できなかった。もっともきちんと読めなくても差しつかえなかった。書いてあるのは重要でない些末なことで、ふたりの恋愛関係をうかがわせることは一切ないのがわかったからである。オデットの叔父のことが書いてあるようだ。行のはじめに『あたしは、そうしてよかったのです』と書いてあるのが読めたが、どうしたのがよかったのかスワンは理解できなかった。が、突然、当初は判読できなかった一語があらわれ、文全体の意味が明らかになった。『あたしは、そうしてよかったのです、ドアを開けた相手は叔父でしたから』というのだ。開けた、だって。すると今日の午後、俺が呼び鈴を鳴らしたとき、フォルシュヴィルが来ていたのだ。あわてたオデットがやつを帰らせたために、あんな物音がしたのだ。そこでスワンは、手紙を端から端まで読んだ。オデットは最後に、あのように失礼な対応になったことをフォルシュヴィルに詫びたうえで、タバコを忘れてお帰りになった、と書いている。スワンが最初にオデットの家に寄ったときに書いて寄こしたのと同じ文面である。だが俺には『この中にあなたのお心もお忘れでしたら、お返ししませんでしたのに』と書きそえていた。フォルシュヴィルには、そんなことはいっさい書いていない。ふたりの関係は暗示する文言はなにひとつ出てこない。それにどうやらこの内容からすると、オデットはやつに手紙を書いて訪ねてきたのは叔父だと信じこませようとしているのだから、そもそもフォルシュヴィルは俺以上に騙されていることになる。要するにオデットが重視していたのは俺のほうで、その俺のために相手を追い払ったのだ。それにしてもオデットとフォルシュヴィルのあいだに何もないのなら、なぜすぐにドアを開けなかったのだろう。なぜ『あたしは、そうしてもよかったのです、ドアを開けたのは叔父でしたから』などと書いたのだろう。そのときオデットになんらやましいところがなかったのなら、ドアを開けなくてもよかったのにと、どうしてフォルシュヴィルが考えるだろうか。オデットがなんの危惧もいだかず託してくれたこの封筒を前にしたとき、スワンは申し訳ないと恐縮したが、それでも幸せな気分だった。自分のデリカシーに全幅の信頼を置いてくれたと感じられたからである。ところがその手紙の透明な窓を通して、けっして窺えないと思っていた事件の秘密とともに、未知の人の生身に小さく明るい切り口が開いたかのようにオデットの生活の一部があらわになったのだ。おまけにスワンの嫉妬も、この事態を歓迎した。嫉妬には、たとえスワン本人を犠牲にしてでも、おのが養分になるものを貪欲にむさぼり食らう利己的な独立した生命があると言わんばかりである。いまや嫉妬が糧(かて)を得たからには、かならずスワンは毎日、オデットが五時ごろだれの訪問を受けたかが心配になり、その時刻にフォルシュヴィルがどこにいたかを知ろうとするにちがいない。というのもスワンの愛情は、オデットの日課に無知であると同時に、怠惰な頭脳ゆえに無知を想像力で補うことができないという当初に規定された同じ性格をあいかわらず保持していたからである。スワンが最初に嫉妬を感じた対象は、オデットのすべての生活ではなく、間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけだった。その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.220~223」岩波文庫 二〇一一年)
延々と引き延ばされる限りない苦痛。<私>もまたその操作から新しい快楽を引き出すことを覚えていた。例えば資本主義は延々と決済を引き延ばしていくように出来ているし、その限りで、手形信用を資本主義自身の根拠に据えて利子を出現させることができるようなものである。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)
アルベルチーヌの自由な行動がもたらす嫉妬=苦痛は<私>が仕組んだ全面的な<監視>体制によって「消え失せ、それとともに、残忍な気晴らしみたいに注意を凝らして苦痛を鎮める必要もなくなる」。するとまた「私にとってアルベルチーヌは無であり、アルベルチーヌにとって私は無であると感じられ」てくるほかない。まるで何らの刺激も生じない。とはいえそもそも<私>が採用した方法はそんな虚しい事態を何度も繰り返し反復させるような方法でしかないからである。虚しさが昂じてくると逆に「私が全快する以前にアルベルチーヌがなにか私たちの仲を裂くようなぞっとすることをやってのけたと聞かされたいものだと考えさえした」。
「苦痛が消え失せ、それとともに、残忍な気晴らしみたいに注意を凝らして苦痛を鎮める必要もなくなると、私にとってアルベルチーヌは無であり、アルベルチーヌにとって私は無であると感じられた。私はそんな状態がつづくのが辛く、ときには私が全快する以前にアルベルチーヌがなにか私たちの仲を裂くようなぞっとすることをやってのけたと聞かされたいものだと考えさえした」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.60」岩波文庫 二〇一六年)
<私>は欲望する。「アルベルチーヌがなにか私たちの仲を裂くようなぞっとすることをやってのけ」て欲しいと。そうでなければ新しくアルベルチーヌを愛することはできない。実際、アルベルチーヌに対する<監視>が解かれることはない。となると、いつも「天気は上々で、アルベルチーヌが夕方までに帰ってくるのは確実なので、たとえ本人がそのような過ちを犯す可能性が脳裏に浮かんでも、私はそうした考えを自由な行為によって頭脳の一隅に閉じこめることができ、するとその考えは、架空の人物の悪徳が私の現実の人生にとってそうであるように、もはやなんの重要性も持たなくなる」。
「私の心は、傷がふさがるともはや恋人の心に張りつくことをやめ、私自身も、想像のなかで恋人を移動させて私から遠ざけても、もはや苦しむことはなくなった。私がいなければ、たしかにアルベルチーヌはだれかほかの男を夫にし、自由になって私をぞっとさせるような恋の冒険をするかもしれない。しかし天気は上々で、アルベルチーヌが夕方までに帰ってくるのは確実なので、たとえ本人がそのような過ちを犯す可能性が脳裏に浮かんでも、私はそうした考えを自由な行為によって頭脳の一隅に閉じこめることができ、するとその考えは、架空の人物の悪徳が私の現実の人生にとってそうであるように、もはやなんの重要性も持たなくなる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.61~62」岩波文庫 二〇一六年)
それでもなお<私>はアルベルチーヌと新しい恋愛関係に入ることができる。この恋愛はさらに次々と新しく更新される。何が起こっているのか。
「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)
二人の恋愛関係はただ単に「絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚され」ているに過ぎず、現実的のところ「無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立って」いるため、新たに更新される恋愛関係は、<私>にとってそれまでとはまったく異なる<未知の女>との関係として味わうことができるからである。とともに嫉妬はいつも<間歇的>に生じるがゆえに、その都度、<私>はそれまでの恋愛関係を破壊すると同時にすぐさま新しい恋愛関係を出現させることができる。切断と再接続とを繰り返すわけだ。一方で<私>はアルベルチーヌを完璧な監視下に置きつつ、もう一方でアルベルチーヌを全力で<私>だけの想像の世界の中へ閉じ込め遊ばせる。するともう「アルベルチーヌがほかの男と結婚するのを妨げたり、アルベルチーヌの女性への嗜好の邪魔をしたりするのにすべてを犠牲にするのは、アルベルチーヌを知らない人たちの目にそう映るように、私自身の目にも狂気の沙汰としか見えなかった」。
「私が自分の思考の蝶番(ちょうつがい)を柔軟に動かして、まるで筋肉の動きと精神の率先的行動とを連動させたかのように、わが頭では肉体的とも精神的とも感じられる力を振りしぼって、それまで私が閉じこめられ習慣と化していた憂慮の状態を脱し、自由な空気のなかを動きまわれるようになると、アルベルチーヌがほかの男と結婚するのを妨げたり、アルベルチーヌの女性への嗜好の邪魔をしたりするのにすべてを犠牲にするのは、アルベルチーヌを知らない人たちの目にそう映るように、私自身の目にも狂気の沙汰としか見えなかった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.62」岩波文庫 二〇一六年)
なるほど与えられた条件のもとではそういうことになる。馬鹿げたことに見える。「狂気の沙汰としか見えな」くなる。けれども「狂気の沙汰」を演じているのは本当は誰なのか。<私>ではないと一体どこの誰に言うことができるだろうか。
