白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて91

2022年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

飼い猫に起こされました。朝五時です。月が出ています。

 

「名称:“月”」(2022.11.16)

 

少し一度うとうと。明るくなってきたようです。西近江路をてくてく。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.16)

 

振り向くと銀杏と月が重なっています。

 

「名称:“イチョウ”」(2022.11.16)

 

もう秋も終盤に入ったかなという肌寒さ。てくてく家まで戻ってきました。

 

「名称:“欅”」(2022.11.16)

 

「名称:“町屋”」(2022.11.16)

 

二〇二二年十一月十六日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・「第一のアルベルチーヌ」から「第二の現在のアルベルチーヌ」へ<私>の気づき

2022年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌの変化。「第一のアルベルチーヌ」が「第二の現在のアルベルチーヌ」へ変身した、と<私>は突然気づく。同時に「この変化の責めを負うのは私以外にはありえない」と思う。しかし「責めを負う」とはどういうことだろう。口先だけで<責任がある>と認めて後は何もしないというのなら誰にでもできる。それこそ今の日本の政治家でさえ可能だ。そうではなく何らかの形で<賠償>しなければ済まされないという債務者の立場へもう立ち至っているがゆえ、<私>はその責任の重大さに我ながら恐れおののくしかないのである。

 

アルベルチーヌは<私>に愛されていると気づいていた。バルベックで知り合った頃は「屈託なく、つぎには進んで、私に打ち明けていたはずのありとあらゆること」。ところが「私に愛されていると知ったとたん、いや『愛』という名称は想いうかべなかったかもしれないが、私が知りたいと欲しながら知ることで苦しみ、それでもなおも知ろうと躍起になる、そんな異端審問官のような感情を察知したとたん、もはや漏らさなくなった」。

 

「想い起こせば、私はまず第一のアルベルチーヌを知ったのであるが、それがいきなり第二の現在のアルベルチーヌへと変貌したのだ。そしてこの変化の責めを負うのは私以外にはありえない。アルベルチーヌは、私たちが仲のいい友だちであった当初は屈託なく、つぎには進んで、私に打ち明けていたはずのありとあらゆることを、私に愛されていると知ったとたん、いや『愛』という名称は想いうかべなかったかもしれないが、私が知りたいと欲しながら知ることで苦しみ、それでもなおも知ろうと躍起になる、そんな異端審問官のような感情を察知したとたん、もはや漏らさなくなった。その日からアルベルチーヌは私になにもかも隠すようになったのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.124」岩波文庫 二〇一六年)

 

苦痛としての嫉妬。ありふれたことだ。「それでもなおも知ろうと躍起になる」。するとそれは<苦痛への意志>としてより一層<力>を増す。もはや<私>は「異端審問官のような感情」で充満する。そしていつどこでかという境界線は明確でないながらも、<私>と「異端審問官」とはいとも容易に置き換えることができる条件が整ってしまう。米英日中など世界的IT企業の社員たちが夢中になって作り上げた諸機械が利便性の追求のためだけでなく社員たち自身を機械と置き換えて合理化させるよう立ち働くのと一つも変わらない。アルベルチーヌから見ればもはや<私>=「異端審問官」という等式が立派に出来上がっている。婚約中であろうとなかろうと、どうして、なんの権限で、「異端審問官」の監視下で暮らしていかなくてはならないのか、不可解で仕方がないだろう。それでもなおアルベルチーヌはなるべく<私>を嫉妬の苦痛から遠ざけようと振る舞う。<私>がともすれば嫉妬を催しそうな場面に出くわすやそんな場面が成立しないようあらかじめ先手を打って気遣う。アルベルチーヌの言動は一種の鎮痛剤へと加速する。しかし今度はその身振りが「アルベルチーヌは私になにもかも隠すようになったのだ」と思わせずにはおかない。以前はそうではなかった。

 

「以前のアルベルチーヌなら、私が若い娘の話でもしようものなら、目を輝かせて強い関心をあらわにしたものだ、『その娘(こ)ををぜひ誘わなくちゃ、知り合いになれたらきっと楽しいわ』。『でも、きみの言う行儀の悪い部類だよ』。『だったらなおさら愉快じゃない』。その当時なら、私はすべてを知ることができたかもしれない。あの小さなカジノでアルベルチーヌが自分の乳房をアンドレの乳房から離したときでさえ、それは私がそばにいたからではなく、コタールがいたからだと思われる。きっとアルベルチーヌは、コタールなら自分に悪い評判を立てるだろうと考えたのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.125」岩波文庫 二〇一六年)

 

第二のアルベルチーヌの出現は、差し当たり兆候として現れている。二度目のバルベック滞在とラ・ラスプリエールを舞台として過ごした一夏。地方のローカル鉄道は各駅停車。その車内での言葉、登場人物たちそれぞれの最寄駅での思いがけぬ出会い。或る身振りが勘違いを呼び寄せ呼び集めつつ別の身振りへどんどん置き換えられていく。巨大娼館があったり小規模カジノがあったりして、快楽とともに苦痛が、笑いとともに憎悪が、唐突に出現したり消滅したりを繰り返していた。

 

「とはいえ当時、アルベルチーヌの表情はすでにこわばりはじめ、もはやその口から信頼のことばは漏れず、その仕草は控え目になっていた。やがてアルベルチーヌは、私を動揺させかねないものをことごとく身辺から遠ざけた。自分の生活のうちで私の知らないさまざまな部分については、私の無知につけこんで、その部分がいかに罪のない性格のものであるかを際立たせようとした。いまやこの転換は完了して、私がひとりきりでないときにアルベルチーヌがまっすぐ自分の部屋へ向かうのは、ただ私の邪魔をしないためばかりではなく、自分が他の人には関心がないことを私に見せつけるためでもあるのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.125~126」岩波文庫 二〇一六年)

 

もはやアルベルチーヌはほとんど無関心を決め込むほかない。そうでなければ<私>の嫉妬、荒れ狂う暴力と一つも違わない嫉妬は水も漏らさぬ<幽閉・監視・監禁>へ向かってますます加速するのが目に見えている。しかし無関心な身振りというものは往々にしてさらに度を増した陰湿な疑念を噴出させてしまう。だからといって、では他にどんな態度を取ればいいというのか。しかしもっと不可解な問いがある。<私>はなぜアルベルチーヌだけでなくアンドレやジゼル、シャルリュス、モレル、ゲルマント夫人、ヴェルデュラン夫人など、あらゆる登場人物の身振りのすべてに<共振>し感応するのか。

 

ところでさきほど「米英日中など世界的IT企業の社員たちが夢中になって作り上げた諸機械が利便性の追求のためだけでなく社員たち自身を機械と置き換えて合理化させるよう立ち働く」と述べた。EUは意識的に外した。なぜ外したか。丸山真男はいう。

 

「ヨーロッパの哲学や思想がしばしば歴史的構造性を解体され、あるいは思想史的前提からきりはなされて《部品》としてドシドシ取り入れられる結果、高度な抽象を経た理論があんがい私達の旧い習俗に根ざした生活感情にアピールしたり、ヨーロッパでは強靭な伝統にたいする必死の抵抗の表現にすぎないものがここではむしろ『常識』的な発想と合致したり、あるいは最新の舶来品が手持ちの思想的ストックにうまくはまりこむといった事態がしばしばおこる。ドイツ観念論の倫理学説を『人以て舶来の新説とすれども、是れ《古来》朱子学派の唱道する所に係るなり』(『日本朱子学派之哲学』)と理解して『東西文化の融合』を高唱した井上哲次郎的折衷主義の『伝統』をここで追う必要はあるまい。そういった規模雄大なものでなくとも、マラルメの象徴詩が芭蕉の精神に『通じ』たり、プラグマティズムが《本来》江戸町人の哲学だったりする考え方の例はいくらもある。

 

そういったもの相互に類似性が全くないというのでもなければ、共通性を見出して行くこと自体を無意味といっているのではむろんない。人間が考えることは昔からそんなに変わったものはないといえばそれまでのことである。むしろちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異るものと措定してこれに対面するという心構えの希薄さ、その意味での《もの》分かりのよさから生まれる安易な接合の『伝統』が、かえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである。

 

最初は好奇心を示しても、すぐ『あゝあれか』ということになってしまう。過敏症と不感症が逆説的に結合するのである。たとえば西欧やアメリカの知的世界で、今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけとかほとんど何百年以来のテーマが繰りかえし『問わ』れ、真正面から論議されている状況は、戦後数年で、『民主主義』が『もう分かってるよ』という雰囲気であしらわれる日本と、驚くべき対照をなしている」(丸山真男「日本の思想・P.14~16」岩波新書 一九六一年)

 

今のEUはかつての欧米と似ている。新しい諸機械を労働力商品と置き換えればそれでよいと、ただ単純に言わないし言えない状況は今なお、そしてかつてとは比較にならない重大問題として早くも議論されている。「民主主義」とは何かと。しかし日本のマスコミは日本人と日本で働く労働者の無知につけ込んで世界の動向をほとんど伝えようとしない。アメリカとイギリスはもう欧米という言葉で一括りにするわけにはいかない事態へ自分で自分自身を送り込んでしまった。だから「米英抜き」でEUというしかないのだが。「今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけとかほとんど何百年以来のテーマが繰りかえし『問わ』れ、真正面から論議されている状況」について、グローバルネットワークを点検・見聞しておくだけでそこそこよくわかるに違いない。自由な労働者として職場移動を繰り返してもセーフティネットが起動すすことができるのは、「民主主義」という強固な地盤が、実に強固に、最先端技術<とともに>培われてきているからに他ならない。