白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて93

2022年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

午後のおやつに柿を食べました。もう一度散歩できそうな気持ちが湧いてきました。そこで今なお全容解明されていない歴史ミステリの一つ、「幻の」と呼ばれ、七世紀後半に営まれたとされる「滋賀郡衙」(しがぐんが)跡史跡をてくてく巡ってみたいと思います。

 

さてJR比叡山坂本駅から西へ日吉大社参道をのぼっていくと左に石占井(いしらい)神社が見えます。「滋賀郡衙」(しがぐんが)関連遺構と考えられる礎石が見つかっている場所です。

 

「名称:“石占井(いしらい)神社石積み”」(2022.11.17)

 

さらに名称から関連が伺われる場所が二箇所。倉園(くらその)・郡園(こおりその)の二つです。

 

「名称:“倉園(くらその)神社石碑”」(2022.11.17)

 

境内の道標に「右 北國海道」とあります。

 

「名称:“倉園(くらその)神社境内道標”」(2022.11.17)

 

「名称:“郡園(こおりその)神社額”」(2022.11.17)

 

「名称:“郡園(こおりその)神社本殿”」(2022.11.17)

 

北国街道沿いの交差点にある福太夫(ふくだゆう)神社。

 

「名称:“福太夫(ふくだゆう)神社額”」(2022.11.17)

 

その境内の道標に「右 下坂本」とあります。下阪本へ向かう道が北国街道です。

 

「名称:“福太夫(ふくだゆう)神社境内道標”」(2022.11.17)

 

付近には特色豊かな土蔵や町屋が色々と見えます。

 

「名称:“土蔵”」(2022.11.17)

 

「名称:“町屋”」(2022.11.17)

 

北国街道をこのまま歩くのが基本なのかもしれません。でもたまには道を間違ってみると思わぬ発見があったりします。ここでは大手スーパーを横切って一九六〇年代に開発された日吉台ニュータウンへ進んでみましょう。

 

「名称:“日吉台(ひよしだい)道標”」(2022.11.17)

 

ニュータウンなのになぜか「古墳通(こふんどおり)」とあります。

 

「名称:“古墳通(こふんどおり)道標”」(2022.11.17)

 

てくてく歩いていきましょう。やや上り坂なのでマイペースで十分です。交差点に出ました。

 

「名称:“高峰遺跡(たかみねいせき)交差点”」(2022.11.17)

 

高峰遺跡(たかみねいせき)は発掘調査の結果、西側の1号墓が前方後円墳、東側の2号墓が円墳だったことがわかっており、今は古墳公園として復元されています。それにしても周囲は落ち葉だらけ。好みの風情なのですが、風流とはいえなかなか厳しいものがありますね。

 

「名称:“高峰遺跡(たかみねいせき)1号墓”」(2022.11.17)

 

「名称:“高峰遺跡(たかみねいせき)2号墓”」(2022.11.17)

 

東側(琵琶湖側)へ向かって今度は下り坂です。すると先ほど道を逸れた北国街道との交差点へ出ます。

 

「名称:“北国街道”」(2022.11.17)

 

そこで再び坂本の町中へ戻ってみます。上り下りがたいへんです。日吉参道との交差点から穴太(あのう)方面へ南へ向かいます。

 

「名称:“町屋・大文字屋(だいもんじや)”」(2022.11.17)

 

左に隣接してお地蔵さんがあります。

 

「名称:“大文字屋(だいもんじや)地蔵”」(2022.11.17)

 

「名称:“大文字屋(だいもんじや)地蔵””」(2022.11.17)

 

さらに穴太方面へてくてく。芭蕉の葉もずいぶん破れてきて間近に迫った冬の到来を待っています。

 

「名称:“芭蕉”」(2022.11.17)

 

二〇二二年十一月十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて92

2022年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

昨日の午後、所用で市役所付近へ。琵琶湖疏水を撮ってきました。

 

「名称:“琵琶湖疏水”」(2022.11.16)

 

二〇二二年十一月十六日撮影。

 

日付変わって夜中一時頃。月が出ています。

 

「名称:“月”」(2022.11.17)

 

夜明け少し過ぎた頃。飼い猫に起こされました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.17)

 

三津浜(みつはま)の柳に月が架かっています。

 

「名称:“柳”」(2022.11.17)

 

西近江路を引き返して帰ってきました。

 

「名称:“町屋”」(2022.11.17)

 

二〇二二年十一月十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・「異端審問官」としての<私>とアルベルチーヌとの第二幕

2022年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌにとってもはや<私>は「異端審問官」でしかないという等式の成立。アルベルチーヌの態度はすっかり変わった。というより「第二の現在のアルベルチーヌ」へと生成変化した。変身したと言うのがより正確だろう。たとえアルベルチーヌでなくても、<嫉妬への意志>と化した<私>に向かって、一体どこの誰がその日にあったことを他愛ない会話の中でいちいち「告白」したりするだろうか。アルベルチーヌはもはや「告白」しなくなった。

 

プルーストは次の箇所で始めて、本格的な意味で「有罪」という価値言語を持ち出してきている。「今後いつまでも私は、裁判官のように、有罪だと想定しなくては説明がつかないわけでもない不用意な発言から不確かな結論をひき出さざるをえなくなるだろう」。アルベルチーヌの何がどう「有罪」なのか。「異端審問官」としての<私>、<嫉妬への意志>と化した<私>、他の友人知人たちにいつもアルベルチーヌを監視するよう委託している<私>、そんな<私>から見て「有罪」であるとはどういうことか。それがプルーストの問いかけである。婚約中の二人の暮らし。とはいえ実態は早くも「まるで裁判のような成りゆきとなり果て」てしまっている。

 

「アルベルチーヌが私のために二度としないはずのことがひとつだけある。私がそんなことをされても無関心であったときにしかできなかったはずのこと、私が無関心だからこそ容易にできたはずのこと、それはほかでもない、告白することである。今後いつまでも私は、裁判官のように、有罪だと想定しなくては説明がつかないわけでもない不用意な発言から不確かな結論をひき出さざるをえなくなるだろう。そしてアルベルチーヌはいつまでも私を裁判官のごとき嫉妬ぶかい男だと感じるだろう。私たちの婚約中の暮らしは、まるで裁判のような成りゆきとなり果て、アルベルチーヌは犯人のように小心翼々としていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.126」岩波文庫 二〇一六年)

 

明日とは言わず今日にでもとっとと別れてすっきりさせるのが良いと、誰もが暗澹たる気分でそう思うほかないような関係に入っている。ところが別れる別れないはまるで問題でない。それで解決するような問題だったら始めからプルーストは「有罪」という問いをぶら下げる必要性一つ感じなかっただろう。二人の恋愛関係の中になぜ「罪の意識」が割り込んでくるのか。プルーストはなぜわざわざ「異端審問官」とか「有罪」とか、価値というものそれ自体を俎上に載せないわけにはいかない問いへいきなりメスを入れ、中身を引き裂いて見せたのか。そして読者は、うすうす予想されてはいたものの、はっきり引き裂かれた中身を見せつけられるわけだが、プルーストはその様相をじっくり<覗き見>るよう読者に働きかけていることもまた間違いないと言わねばならない。

 

アルベルチーヌがかつて使用していたステレオタイプ(紋切型)。「だれを愛しているのかを見せつけるなんて間抜けね。あたしはそんなことはしないわ、だれかを好きになると、その人のことなんて気にもとめない顔をするの。そうしておけばだれにも気づかれないでしょう」。このステレオタイプ(紋切型)が今度は正反対に位置する、相異なる意味を帯びて繰り返し使用される。

 

「いまやアルベルチーヌはそのころのようにこんな告白をすることはないだろう、『だれを愛しているのかを見せつけるなんて間抜けね。あたしはそんなことはしないわ、だれかを好きになると、その人のことなんて気にもとめない顔をするの。そうしておけばだれにも気づかれないでしょう』。なんということか!こんなことを私に言った人間が、心底だれにも関心はないと言い張る現在のアルベルチーヌと同じ人間であるとは!いまや私にそんな原則を言い立てることはあるまい!いまでは私と話していて、だれか私の不安を煽りかねない人が話題になると、『さあ、どうかしら、見ていなかったの、なんともつまらない人だもの』と私に言って、同じ原則をその人に当てはめるだけだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.127」岩波文庫 二〇一六年)

 

なぜかというと、しばしば遭遇することだが、文章はそっくりそのまま同じでも全然逆の意味として使えてしまうことなら山ほどあるからである。その場合、その時に発せられた言葉は「嘘」だろうか。文面はまったく同じである。しかし意味は正反対である。矛盾ではないかと。しかし矛盾ではないのだ。矛盾か矛盾でないかという次元で考えている限りプルーストがここで掲げた「有罪」という価値言語をめぐる問いかけの真相はけっして見えてこない。見えてこないのはアルベルチーヌに責任があるわけではなくプルーストに責任があるわけでもない。プルーストが読者に迫っている重要な意義はパラダイムシフトだからである。見ようとする人々の立っている位置がそもそも間違っているのであって、その位置にとどまる限り、どんな読者もこれ以上何一つ見ることはできない。そうでなければ「失われた時を求めて」をただ単なる物語(ストーリー)として読んでいくほかもはや選択肢がなくなる地点である。

 

「ときどきアルベルチーヌは、私が察知しそうなことを先回りして告白するが、その告白がいかなる現実を歪曲して正当化するものかを把握するまでもなく、その告白の口調がすでにそれが嘘であることが露呈しているのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.127」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>=「異端審問官」。この等式が解除されない以上、アルベルチーヌのどんな身振り(言葉・口調)も、それが楽しそうであれ、逆に憂鬱そうであれ、あるいは徹底的に無関心を装ったものであれ、「第二の現在のアルベルチーヌ」と<私>との恋愛関係は幕を開けたまま閉じることはけっしてない。そしてこのような状態の恋愛関係が二人にとって第二の、まったく新しい、新鮮この上ない、採れたてほやほやの、舞台=第二幕なのだ。