アルベルチーヌは帰宅するやさっさと自室へ向かう。その姿は<私>にこう見える。「アルベルチーヌを監視するように私から頼まれていたアンドレが、これから私に詳細を報告して、ふたりが出会った知り合いについても言及しながら、その日のふたりの散策の足が延びた私には想像もつかない茫漠とした地帯をいくらか明確にしようとしていること、それをアルベルチーヌ自身が見抜いていたかのようである」。「異端審問官」と化した<私>の嫉妬深さにほとほと愛想が尽きているのだろう。窒息しないほうがどうかしている。
「アルベルチーヌのトック帽から垂れる大きなグレーのベール、私がベルベックで贈ったあのベールをまわりになびかせながら引きさがり、自分の部屋へはいる。アルベルチーヌを監視するように私から頼まれていたアンドレが、これから私に詳細を報告して、ふたりが出会った知り合いについても言及しながら、その日のふたりの散策の足が延びた私には想像もつかない茫漠とした地帯をいくらか明確にしようとしていること、それをアルベルチーヌ自身が見抜いていたかのようである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.128~129」岩波文庫 二〇一六年)
だが<私>が知りたがっているのはただ単にアルベルチーヌが、どこへ行って誰と会って何をした、という経過報告ではなく、<私>には知り得ない「茫漠とした地帯」についてである。たった今アルベルチーヌが通り過ぎてきた「地帯」。それはアルベルチーヌがトランス(横断的)両性愛者であるがゆえ必然的に生じる、<私>にはどこまで行っても「同じ土俵」で勝負できない永遠の<未知の土地>のことだ。とともに<私>は考える。
愛する相手の実態を知るためには「乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。つねにすがたを変えるきみたちを不断に待ち受けて生きるのをやめなくてはなるまい」。次のセンテンスにあるように相手がアルベルチーヌであろうとアンドレであろうと、一切の変化を阻止してもはや一ミリたりとも動かないことが確約された標本としてでなければ愛することは不可能だと思い及ぶ。しかし標本化されまるで動かず変化しなくなった相手を愛するということもまたできない。だから<私>はアルベルチーヌたち、バルベックで出会ったあの娘たち、そのすべてを忘れるほか愛することも愛さないことも両方ともできない事態に立ち至っていることを率直に認めるほかない。「乙女はあらわれるたびに前に見たすがたとはまるで似ていないので(そのすがたを認めたとたん、われわれがいだいていた想い出や思い定めた欲望は粉々にうち砕かれる)、われわれが乙女に期待する変わらぬ本性など、ただの絵空ごと、お題目にすぎなくなる」と。
「そもそもアルベルチーヌといい、アンドレといい、その実態は何なのか?それを知るには、乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。つねにすがたを変えるきみたちを不断に待ち受けて生きるのをやめなくてはなるまい。もはやきみたちを愛してはいけないのだ。きみたちを固定するには、際限なくつねに戸惑わせるすがたであらわれるきみたちを知ろうとしないことが重要なのだ。乙女たちよ、渦のなかにつぎつぎと射す一条の光よ、その渦のなかできみたちがあらわれまいかと心をときめかせながら、われわれは光の速さに目がくらんできみたちのすがたをほとんど認めることができない。つねに千変万化してこちらの期待を超越する黄金の滴(しずく)よ、性的魅力に惹かれてきみたちのほうへ駆け寄ることさえしなければ、そんな速さを知らずにすませられるかもしれず、そうなればすべてが不動の相を帯びるだろう。乙女はあらわれるたびに前に見たすがたとはまるで似ていないので(そのすがたを認めたとたん、われわれがいだいていた想い出や思い定めた欲望は粉々にうち砕かれる)、われわれが乙女に期待する変わらぬ本性など、ただの絵空ごと、お題目にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.139~140」岩波文庫 二〇一六年)
例えば、或る娘を愛するやいつも次のような事態が出現し、同じような経過をたどらざるを得ない。もう何度も繰り返されてきた。
「さる美しい娘について、あれはやさしくて思いやりのある、このうえなくこまやかな気遣いのできる女性だと、だれかから聞かされたとする。われわれの想像力はそのことばを信じてしまうが、細かく縮れたブロンドの髪の環の下にバラ色のまるい顔がはじめてあらわれたとき、こんな修道女みたいな堅物の女ではその美徳ゆえにわれわれの心を冷まし、けっして望んだような愛人にはなりえないのではと心配になる。それでもわれわれは最初に会ったときからその気高い心を信じて、どんなに多くのことを打ち明け、ふたりにふさわしいどれほど多くの計画を立てたことか!ところが数日後、それほど相手を信頼したことを後悔するはめになる。というのもそのバラ色の娘は、二度目に会ったときにはまるで淫乱なフリアのような口を利くからだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.140~141」岩波文庫 二〇一六年)
愛する相手の変化だけでなく、そんなことを考えるたびに苦痛に打ちひしがれてばかりの<私>自身にしてからが、そもそもその都度変化することはすでに述べられている。「小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべき」だと。そしてその場合もまた「地帯」というフレーズが用いられていた。
「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)
一方アルベルチーヌの<エレガンスへの意志>だが、それはそれで着々と進展している。しかし見逃しにできない線を描いている。「最初の時点ではいずれも排他的であった愛情がつぎつぎと継起し、そうした愛情がたがいにつながり融合してつくられ」ていくという点で。
「ある画家が大好きになり、ついでべつの画家に心酔し、しまいには美術館全体に賞讃の念を覚えることもありうる話で、そんな賞讃には熱意がこもっている。なぜならその賞讃は、最初の時点ではいずれも排他的であった愛情がつぎつぎと継起し、そうした愛情がたがいにつながり融合してつくられたものだからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.138~139」岩波文庫 二〇一六年)
アルベルチーヌの<エレガンスへの意志>、そして<芸術への意志>は、あたかも「愛や嫉妬」が描き出す稜線に余りにも似ている。というより、もはや同じなのではないだろうか。
「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)
欲望の線は「無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚される」に過ぎない。<私>の苦しみは尽きることがない。愛すれば愛するほど<私>の苦痛はますます、嬉々として増殖していく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/27/88330a8f2272eee0d98f658c3d93fe41.jpg)