白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて82

2022年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

皆既月食とのこと。時間を追って撮影してみました。

 

18時15分。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「臥待ちや湯町の囃子麓より」(田村鬼現)

 

18時30分。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「草の庵(いほ)にひとりながめて年もへぬ友なき宿の秋の夜の月」(源実朝)

 

18時40分。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「咄(はなし)する一方(いっぽう)は寝て夜寒哉」(一茶)

 

19時00分。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「やへむぐら茂(しげ)れる宿は人もなしまばらに月のかげぞすみける」(大江匡房)

 

皆既時刻に入ったようです。肉眼ではよく見えます。幻想的ですね。ところが安価なデジカメではまったくの暗闇。

 

待つこと50分ばかり。再び月が姿を現わしました。

 

20時45分。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「欠々(かけかけ)て月もなくなる夜寒(よさむ)哉」(蕪村)

 

21時10分。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「痩ながら出る月影や鹿の声」(井月)

 

21時40分。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「こがらしの雲吹きはらふ高嶺よりさえても月の澄みのぼるかな」(源俊頼)

 

二〇二二年十一月八日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて81

2022年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

日付が変わって一時間後くらいの月。

 

「名称:“月”」(2022.11.8)

「時しもあれふるさと人(びと)はおともせでみ山(やま)の月に秋風ぞふく」(藤原良経)

 

赤塚橋(あかつかばし)というプレートを見つけました。といっても下は国道1号線へ続く道路です。しかし、まるで一筋の水すら流れていないわけではありません。「太平記」によれば、南北朝時代、ここには「空堀」(からぼり)が築かれました。今なおその遺構を見ることができますが、それは日を改めて紹介させていただきたいと思います。

 

「名称:“赤塚橋(あかつかばし)プレート”」(2022.11.8)

「人に似て猿も手を組(くむ)秋の風」(酒堂)

 

この地がまだ赤塚村(あかつかむら)と呼ばれていた頃、古代古墳がありました。今は神社として祀られています。

 

「名称:“赤塚古墳(あかつかこふん)=「倭神社(しどりじんじゃ)”」(2022.11.8)

「夕日かげ寒けき崖(がけ)を石のいろの上に物うごく小鳥にてあり」(中村憲吉)

 

「名称:“倭神社(しどりじんじゃ)額”」(2022.11.8)

「若き大工(だいく)一(ひと)つ灯(び)冴ゆる鉋屑(かんなくづ)」(中村草田男)

 

「名称:“倭神社(しどりじんじゃ)本殿”」(2022.11.8)

「寒菊の隣もありや生大根(いけだいこ)」(許六)

 

樹齢四百年以上の欅(けやき)。少し変わった形をしています。

 

「名称:“欅”」(2022.11.8)

「往きに見し蘆いなづまとなりゐたり」(大野林火)

 

中を覗いてみると洞穴になっている箇所があります。

 

「名称:“欅”」(2022.11.8)

「冬の蝶を見失った陽の中」(大橋裸木)

 

ご近所の猫さんが振り向いてくれました。

 

「名称:“猫さん”」(2022.11.8)

「蝶々を尻尾(しっぽ)でなぶる子猫哉」(一茶)

 

京阪電車石坂線から見える印象的な棚田の風景です。

 

「名称:“棚田”」(2022.11.8)

「わが思ふ人すむ宿のうすもみぢ霧のたえまに見てやすぎなむ」(藤原定家)

 

田んぼの間に旧道があります。風趣のある曲がり方を見せています。

 

「名称:“旧道”」(2022.11.8)

「故郷(ふるさと)も今はかり寝(ね)や渡鳥(わたりどり)」(去来)

 

「名称:“カラス”」(2022.11.8)

「鴉とんでゆく水をわたらう」(種田山頭火)

 

「名称:“皇帝ダリア”」(2022.11.8)

「秋草やぬれていろめく籠の中」(飯田蛇笏)

 

すっかり発掘調査を終えた穴太廃寺跡(あのうはいじあと)。住宅地も広がりました。田んぼの畦の柿の木です。

 

「名称:“柿の木”」(2022.11.8)

「ささ浪やひらの山風さ夜深(ふけ)て月影さびし志賀(しが)のからさき」(源実朝)

 

二〇二二年十一月八日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・相異なる両極に分裂しつつ延々と説明を付け加えていくパラノイア的自動機械としてのシャルリュス

2022年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

シャルリュスもまた、同じ一人の人間であるにもかかわらず、たびたび相異なる両極に分裂する。モレルとチョッキの仕立屋の姪との結婚のお膳立てを進めていたシャルリュスだが、チョッキの仕立屋の姪がある日モレルにこう言った。「いいわ、じゃあ、あしたね、お茶をおごるわ」。往年の大貴族の誇りに満ちたシャルリュスの言語感覚は「お茶をおごる」などという下品この上ない言葉を決して見逃しはしない。モレルに向かって「口汚くののしりつづけた」。さらにこうも。「きみが拙宅でヴァイオリンのソロを弾き終えたとき、その報酬として屁を一発くらわされたなんてことが一度でもあったかね?」。この箇所でシャルリュスは「屁」と言っている。これまでそうだったようにシャルリュスが本当のことを口にする時、余りにもしばしば性的なイメージを持つ語彙を持ち出してくるのはシャルリュスが根っから下劣な人間だというわけではまるでなく、逆に事態の真相に迫ろうとすればシャルリュスでなくてもそうするほかない事情からやって来る。シャルリュスが受けた衝撃を言葉にしようとすれば、そもそも人間はどこから生まれてきたか、尿道と肛門との<間>からではないのかという次元まで一気に遡行する必要性があるからに他ならない。

 

チョッキの仕立屋の姪が、ある日モレルに『いいわ、じゃあ、あしたね、お茶をおごるわ』と言ったので、当然のことながら男爵は、養女にしようとまで考えている娘にしてはひどく下品な言いまわしだと思ったが、人の機嫌をそこねるのが大好きで、自分自身の怒りに陶然となる男爵ゆえ、この点は娘によく作法を教えておきたまえとモレルに言えばすむところをそうはせず、帰りの道中、口汚くののしりつづけた。横柄にして高慢きわまりない口調で、こう言ったのだ、『どうやら<触ること>はかならずしも<触感>と結びつくわけではないと見えて、きみの場合、触るばかりで嗅覚の正常な発達を妨げられたようだな。だってきみは、お茶をおごるなどという、といっても十五サンチームを払うぐらいだろうが、そんな悪臭ふんぷんたる表現が汲み取りのような臭(にお)いをわが輩のやんごとなき鼻孔にまで立ちのぼらせるのを黙認したんだぞ。きみが拙宅でヴァイオリンのソロを弾き終えたとき、その報酬として屁を一発くらわされたなんてことが一度でもあったかね?かならず熱狂的な拍手喝采か、それよりも雄弁な沈黙で迎えられたはずだ。沈黙といえども、きみの許嫁(いいなずけ)がわれわれに振りまくものを抑えきれぬと怖れるがゆえではなく、きみが聴衆の口元にまでこみあげさせたすすり泣きを抑えきれぬと怖れるがゆえに生じたのだぞ』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.98~100」岩波文庫 二〇一六年)

 

ところがシャルリュスは一方で口汚く罵倒するものの、言うや否や今度は逆方向から褒め称える。シャルリュスはただ単なる男性同性愛者であるだけでなく、相異なる両極に分裂した多元的人格を兼ね備えている。チョッキの仕立屋の姪について次のように賞賛する。が、この賛辞はだんだん<ずれ>ていく。見てみよう。

 

「『あれはすてきな娘(こ)だ。きみは音楽家だから、思うにあの娘は声できみを魅了したんだろう、あの声の高音部はじつに美しく、きみの嬰ロ音での伴奏を待ち受けているみたいだ。低音域のほうはさほど気に入らないが、それはあの娘の首が三段で伸びるのと関係しているにちがいない。奇妙な、細い音だ、そこで終わりかと思うと、なおも上へ伸びるんだから。あの娘の場合、細部はどれも月並みだが、わしが好きなのは身体の線だな。仕立屋のあの娘なら、ハサミを使うのはお手のものにちがいないから、自分のきれいなすがたを紙に切り抜いて小生に進呈してもらいたいものだ』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.100」岩波文庫 二〇一六年)

 

賞賛から始まったはずの論理が徐々に失礼極まりない失言へ転倒する。ヘーゲルを参照しておこう。

 

「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)

 

しかしシャルリュスの最初の罵倒が、随分へんてこだとはいえ、次の賛辞の言葉を呼び寄せ呼び集めている点に注意することもまた同時に重要だと言わねばならない。シャルリュスは自分で自分自身の言葉について飽きることなく延々と説明を付け加えていくパラノイア的自動機械でもあるのだ。