もはや一貫性を失い相異なる両極へ分裂した言動を繰り返すほかない<私>。プルーストはその系列に属するこれまでの事例を<私>の回想という形式を用いて注意深く列挙し回帰させて見せる。
次にあるように一方で「アルベルチーヌはいまや籠のなかの鳥であった」。と同時にもう一方で「そのアルベルチーヌこそ、昔はみながそのあとを追い、私が苦労してつかまえようとしても自転車に乗って走り去り、リフトに頼んでも連れてくることはできず、本人が訪ねてくる望みはほとんどなく、それでも私が夜どおし待っていた娘なのだ」と。重要なのは<同時に両極である>ことと、特にアルベルチーヌの場合、<同時に両極である>ことが何一つ阻害されず常に可能であり、それこそ自由にほかならないという形態で明確化されている点にある。
「アルベルチーヌはいまや籠のなかの鳥であったから、その部屋から出て私の部屋へ来ることを求めない夜さえあった。そのアルベルチーヌこそ、昔はみながそのあとを追い、私が苦労してつかまえようとしても自転車に乗って走り去り、リフトに頼んでも連れてくることはできず、本人が訪ねてくる望みはほとんどなく、それでも私が夜どおし待っていた娘なのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.146」岩波文庫 二〇一六年)
こうもある。バルベック滞在時、「アルベルチーヌがホテルを前にして、だれにも話しかけず、常連客たちを押しのけ、友人の娘たちを思いのまま支配し、この自然の舞台を歩んでみなの嫉妬をかき立てていたとき、それこそ灼熱の浜辺の大女優と言える存在ではなかったか?」。確かに「灼熱の浜辺の大女優と言える存在」だった。ゆえにアルベルチーヌに対する<私>の欲望も出現することができたし出現しないわけにはいかなかった。<私>史上最大の誘惑と化したアルベルチーヌによってかき立てられた欲望は<私>を愛と嫉妬の塊へ変えた。そして二人は婚約中という関係へ移行する。嫉妬がもたらす苦痛を厄介払いするため<私>はアルベルチーヌを厳重な監視下に縛りつける。<私>は思う。アルベルチーヌは「ほかでもない私によって舞台から引退させられ、わが家に閉じこめられ、みなの欲望から隔離され、今後はだれが探しても見つけられず、あるときは私の部屋にいて、あるときは自分の部屋でデッサンや彫金にいそしんでいるのではないのか?」。
「アルベルチーヌがホテルを前にして、だれにも話しかけず、常連客たちを押しのけ、友人の娘たちを思いのまま支配し、この自然の舞台を歩んでみなの嫉妬をかき立てていたとき、それこそ灼熱の浜辺の大女優と言える存在ではなかったか?それほど羨望の的であった女優が、ほかでもない私によって舞台から引退させられ、わが家に閉じこめられ、みなの欲望から隔離され、今後はだれが探しても見つけられず、あるときは私の部屋にいて、あるときは自分の部屋でデッサンや彫金にいそしんでいるのではないのか?」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.146~147」岩波文庫 二〇一六年)
多人数の目が集中する舞台からアルベルチーヌを引きずり下ろし、<幽閉・監禁・監視>を徹底し、「籠のなかの鳥」にした<私>。所有欲を満足させつつある<私>。ところが所有欲というものは満足すればするほど所有された側の人間、この場合はアルベルチーヌの側に対する愛を感じなくなる。一体アルベルチーヌのどこがどんなふうに魅力的に見え、<私>の欲望をあれほどかき立てたのか、さっぱりわからなくなっていく。プルーストの記述はこの辺りから見た目もあらわに、なおかつ急速に、その考察へ接続されていく。にもかかわらず、相変わらず様々なエピソードが入れ換わり立ち換わり出現するのはなぜだろう。接続と切断とはいつも同時だからである。一貫性は作品構成のため差し当たり用いられている装置に過ぎず、逆にプルーストは、恋愛関係に一貫性などというものはまるで存在しない、その都度新しい恋愛関係が出現するばかりだと証明しようとしているかのようだ。
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