白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて105

2022年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

二〇二二年十一月二十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<眠ること>としてのアルベルチーヌ/<私>は不意打ちから新しく思考することを学んだ

2022年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

<眠ること>。「失われた時を求めて」の中で何度か論じられるテーマの一つだが、アルベルチーヌの眠りについて本格的に語られるのはこの前後の箇所が始めてであって、その眠りを通して<私>は「自分のそばになお多くのべつのアルベルチーヌが寝(やす)んでいるのを目の当たりにする想いがした」。覚醒時のアルベルチーヌについて<私>は「たったひとりのなかに何人ものアルベルチーヌを見てきた」し二人で話していると今なお<私>はアルベルチーヌの言葉の一つ一つに戸惑うばかりでまともに考え受け止めることができない。<幽閉・覗き見・監視>という形で所有しているにもかかわらず、覚醒時のアルベルチーヌはどこまで追いかけてみてもここで<捉えた>という気には到底なれない<未知の地帯>として立ち現れ、<未知の地帯>は瞬時に新しい誘惑として<私>をますます<監視・管理への意志>へと変容させる。もっとも、プルーストはこの箇所で<私>につべこべ言わせず、けっして否定できない一つの認識を明確化させている。「アルベルチーヌは、顔の位置を変えるたびに新たな女を創りだし、それははなはだ私の想いも寄らぬ女となった。私はただひとりの娘ではなく、無数の娘を所有している気がした」と。

 

「たったひとりのなかに何人ものアルベルチーヌを見てきた私は、自分のそばになお多くのべつのアルベルチーヌが寝(やす)んでいるのを目の当たりにする想いがした。一度も見たことのない形に弧を描いた両の眉は、アルキュオネの巣のごとく、丸い両の瞼をとり巻いている。この顔にはもろもろの血統や悪癖が宿っているのだ。アルベルチーヌは、顔の位置を変えるたびに新たな女を創りだし、それははなはだ私の想いも寄らぬ女となった。私はただひとりの娘ではなく、無数の娘を所有している気がした」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.156」岩波文庫 二〇一六年)

 

そこで<私>に訪れている安堵の時間帯。しかしこの安堵はどこからやって来たのだろうか。<眠ること>を演じているアルベルチーヌの身体からである。<眠る>という身振りは実はそれ自体がまたしても<私>を「不純な快楽」へと突き進ませずにはおかない一つの記号でもある。「私はアルベルチーヌの眠りという舟に乗りこんだ」。<私>は何かを確かめるかのようにアルベルチーヌの身体のありとあらゆる箇所へ手を置き、手を移動させ、再び手を置いていく。プルーストの観点から見れば、諸商品の無限の系列としか言いようのないアルベルチーヌの中に、もう一つ、<眠ること>としてのアルベルチーヌが付け加えられている。そして<眠ること>としてのアルベルチーヌを味わう<私>はこう思う。「相手がこちらをひどく苦しめることのできる存在であるからこそ、放免のときにはこのような大自然と同様の心安らぐ平穏を与えてくれるのかもしれない」。

 

「私は、まるで波の砕ける音に何時間も耳を傾けるように、心静まる無私無欲の愛情をいだいてアルベルチーヌの眠りを味わっていた。相手がこちらをひどく苦しめることのできる存在であるからこそ、放免のときにはこのような大自然と同様の心安らぐ平穏を与えてくれるのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.158」岩波文庫 二〇一六年)

 

この「平穏」は<私>の所有欲が満たされている時間帯に限り訪れる所有欲の充足感にほかならない、ということをもはや<私>は隠す必要一つ感じていない。婚約中の同棲に名を借りた<幽閉・覗き見・監視>という暴力的形式を用いて始めて手に入れた充足に満足しつつ<私>は「この顔にはもろもろの血統や悪癖が宿っているのだ」と思う。<私>だけでなく当時の世間では同性愛のみならずアルベルチーヌのようなトランス(横断的)性愛者は常に「有罪」とされ迫害されていたためそう書かれているわけだが、そう書いているのは作者プルーストであって、プルースト自身は上流社交界の内情に大変よく通じていたので「悪癖」とか「有罪」とかいう俗語をあえて持ち込んで上流社交界の内幕を<暴露>しているに過ぎない。シャルリュスの同性愛は周囲のほとんどの人々が重々承知しているし、モレルのトランス(横断的)性愛はゲルマント大公だけでなくメーヌヴィルの豪華娼館の誰もが知っている。さらに<私>はシャルリュスの場合にしてもモレルの場合にしても<覗き見>という形で詳しく読者に報告している。プルーストは作品を通していつも<暴露>というテーマを忘れない。

 

ところで第一のアルベルチーヌと第二のアルベルチーヌとの間を引き裂いている余りにも大きな違い(差異)について。プルーストはこう述べる。「こうした根本的な変化がいきなり生じたのは、わが恋人がヴェントゥイユ嬢の女友だちに育てられたにも等しいと聞かされたときである」。

 

「同じアルベルチーヌを眺めていながら現在の私の見方とバルベック滞在当初の私の見方とにこれほどの相違が生じた重大な要因は、私が時間のなかを移動したことにあるのではなく、本人が背筋をのばして海沿いを進んでいったときの太陽とは違うランプの光のもとで今や私がそばに座る若い娘を眺めているという事実にあるのでもなく、アルベルチーヌの精神が実際これほど豊かになり、自力で進歩したことにあるのでもなかった。もっと多くの歳月がふたつのイメージを隔てたとしても、これほど完璧な変化は起こらなかったであろう。こうした根本的な変化がいきなり生じたのは、わが恋人がヴェントゥイユ嬢の女友だちに育てられたにも等しいと聞かされたときである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.162~163」岩波文庫 二〇一六年)

 

アルベルチーヌの<最初のイメージ>と<現在のイメージ>とを画する要因が列挙されており、その一つづつについてはもう見てきた。しかしそれら以上に特に重大な要因となったのは、アルベルチーヌが間違いなくトランス(横断的)性愛者であるという動かしようのない事実だった。<私>をそれまでの<私>とは桁違いの緻密な思考へ駆り立てたものは、アルベルチーヌが<私>の知りようのない<未知の地帯>を生きているということを知らされた瞬間に生じた<ショック>である。

 

「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第三章・P.354」河出文庫 二〇〇七年)

 

アルベルチーヌはトランス(横断的)性愛者である。その事実は<私>にとって避けようのない「ショック」として働いた。そこで始めて<私>は新しく思考するほかなくなった。それまでの<私>は世間の習慣に染まりきり因習に浸りきり、ほとんど何一つ思考しようとしなかった怠惰それ自身だったのであり、否応なく新次元の思考を切り開いていかなくてはならなくなったという意味で言えば、アルベルチーヌのトランス(横断的)性愛は<私>にとって願ってもない良薬として<私>を見事に不意打ちしたと言える。そうでなければこれまで触れられてきた様々な要因について<私>が振り返って緻密な検証を施すことなどまるでなかったに違いない。