アルベルチーヌたちを愛の対象として固定するとはどういうことか。愛そうとすればもはや永遠に変わらぬ固定した対象として特定するほかない。しかしアルベルチーヌたちは出会うたびにいつも以前と相異なる存在へ変貌している。思いも寄らぬ別の人間へ生成変化している。アルベルチーヌたちは常に生成変化を生きる。だから知性の対象として固定できない存在であるとともに愛の対象として固定することもできない。
ところがアルベルチーヌたちは常に姿を変えて<私>を際限なくとまどわせる誘惑を演じる限りで、始めて<私>に、<私>が愛するという欲望を出現させ、愛するよう欲望させて止まない。愛するためにはアルベルチーヌたちを愛の対象として固定してはいけないのだ。固定するや突然アルベルチーヌたちからはどんな魅力も消え失せ、アルベルチーヌたちに向けられて出現した<私>の欲望もすべて瞬時に消滅する。
それでもなお知性によってアルベルチーヌたちを固定した対象として捕らえたいと思うなら、いっそのこと<私>は、徹底的無関心ににならねばならない。「娘たちの不動のすがたはわれわれの無関心ゆえに到来することで、無関心になってはじめて娘たちを知性による評価に委ねられる」からである。
「もとより私は、これら光かがやく娘たちにも断定的な性格を付与できる日がやって来ることを否定するわけではないが、そうできるのは、娘たちがこちらの関心を惹かなくなり、娘たちの登場が、べつのものを期待していたのに会うたびに新たな相貌でわれわれの心を動転させるような出現ではもはやなくなっているからである。娘たちの不動のすがたはわれわれの無関心ゆえに到来することで、無関心になってはじめて娘たちを知性による評価に委ねられるのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.142」岩波文庫 二〇一六年)
アルベルチーヌたちについて知りたければアルベルチーヌたちについてまるで無関心でなければならない。すると始めてアルベルチーヌたち一人一人について知性で捕らえることが可能になるだろう。しかし無関心という立場を取る限り、アルベルチーヌたち一人一人について、もう何一つ知ることはできない。無関心という立場は「われわれになにも教えてくれない」。それは「すなわち親しい娘たちが毎週毎日のように提示はするがどれも似ても似つかぬ風貌が、とどまることを知らぬ疾走ゆえに分類して序列をつけることもかなわぬ風貌が、なにも教えてくれないのと同然である」。
「それゆえ人が関心を失ってようやく活動をはじめる知性の誤った評価から、娘たちの安定した性格がそうと決めつけられて出てくるわけで、そんな性格がわれわれになにも教えてくれないのは、こちらの期待が目まぐるしく速度をあげるなかで毎日あらわれる意外な風貌が、すなわち親しい娘たちが毎週毎日のように提示はするがどれも似ても似つかぬ風貌が、とどまることを知らぬ疾走ゆえに分類して序列をつけることもかなわぬ風貌が、なにも教えてくれないのと同然である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.142~143」岩波文庫 二〇一六年)
ところが<私>は記憶を取り出してくることができる。アルベルチーヌに関して<私>が思い出すことのできる過去のすべてのイメージ。ところがそんな過去のイメージと現在のアルベルチーヌとを比較するや<私>は両者の違いに驚嘆しなくてはならない。両者は余りにも異なっている。そこで<私>は再び「習慣が日々いかなる造型の仕事を成し遂げているかが納得できる」し、世間に充満している「習慣」というものは一体何をやってのける装置なのか、それを理解して納得した形にしておくほかない。
「メダルに刻まれたみたいに記憶のなかにそっくり保存されていた肖像をふたたび目の当たりにすると、それが自分のよく知る今の人間とはまるで違うことに驚かされ、習慣が日々いかなる造型の仕事を成し遂げているかが納得できる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.145~146」岩波文庫 二〇一六年)
だからといって「習慣」が<私>の記憶に対してどれほど過酷な整形手術を施したとしても、さらにこれからもなお施していくとしても、ほんの僅かな或る記憶が取り出されるや<私>の欲望は狡猾な「習慣」を一気に押し除けて湧き起こるほかない。
「パリで私の暖炉のそばにいるアルベルチーヌに宿る魅力のなかには、浜辺沿いにくり広げられて傍若無人な花と咲いた行列が私のうちに煽りたてた欲望がなおも息づいていて、サン=ルーにとってはラシェルが舞台を退いたあとでも舞台の日々の威光を失わずにいたのと同じで、私が大至急バルベックから遠く離れたわが家へ連れ帰って幽閉したこのアルベルチーヌのうちには、海水浴場の生活における心の昂ぶり、社交上の狼狽、不安にみちた虚栄心、さまよう欲望などが今なお存続しているのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.146」岩波文庫 二〇一六年)
だからプルーストは言ったのだ。
「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
とはいえ、植物に<なる>アルベルチーヌの承認、植物<としての>作品への文体変化、それらを縦横無尽に横断していくにはまだもっと骨が折れるのである。
