未知の生活を備えたアルベルチーヌではなく、<私>が知っていて、さらにもうこれ以上何一つ知ることから遮断し遮断された限りでのアルベルチーヌ。<幽閉・覗き見・監視>という条件下で始めて出現可能なアルベルチーヌ。そんなアルベルチーヌなら<私>は平穏な恋心を覚えるだけでなく恋心の平穏さを永遠化できる。極めて身勝手この上ない恋心に見えるけれども、だからといってそうでもしない限り<私>の嫉妬に伴う苦痛はますます延長され、傷は奥深く浸潤し、傷がさらなる傷を呼び寄せ呼び集め、いずれ耐えられない激痛と化して身も世もなくのたうちまわることになるだろう。<私>は欲望について次のように考える。
「相手の生活や性格にたいする興味をかき立てるのはひとえに欲望であるが、たとえ異なる相手をつぎからつぎへと愛しては捨ててゆく欲望の場合でも、われわれはなによりも本性に忠実なので、あるとき『ぼくのかわいい娘(こ)』と呼んでアルベルチーヌに接吻しようとしてふと鏡に映る自分のすがたを見たとき、自分の顔の情熱に駆られたせつない表情に気づいた私は、もはや想い出すこともないジルベルトのそばでも以前きっと同じ表情をしたはずで、万一アルベルチーヌを忘れることがあればべつの女性のそばでもいつか同じ表情をするかもしれないからには、私は個別の人間への配慮を超えて(本能は現在の女性をただひとりの女性と考えたがるものだが)、まるで神に供物を捧げるように、女性の若さと美しさなるものに痛ましくも熱烈な崇拝のまことを捧げているのだと考えた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.165~166」岩波文庫 二〇一六年)
欲望について「万一アルベルチーヌを忘れることがあればべつの女性のそばでもいつか同じ表情をするかもしれない」とあるように、欲望というものは本来的にコントロール不可能なものだ。たった一人の人間の中でさえ<力としての無数の多様性>がひしめき合い、闘争し合い、合意し合い、家畜化し、家畜化され合い、といった諸状況を目まぐるしく反復している。
「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫 一九七三年)
その中には言語としての<私>がいる。ところが言語としての<私>はいつも疲れている。<私>は<私>自身に自信が持てないからではなく、<私>は<私>自身を監視・管理することに疲れるほかないからである。ところが欲望はそんな<私>のことなどまるで気にせず生き生きと世界へ流れ出し世界を変容していく。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.146~147」河出書房新社 一九八六年)
そんな<私>にとって必要なのは「鎮静の力」だ。鎮静剤なしに<私>はアルベルチーヌとの平穏な同棲生活を続けていくことはとてもできない。
「とはいえ毎晩こうしてアルベルチーヌを自分のそばにひきとめておこうとする私の欲求のなかには、『奉納物』を捧げて若さを讃えたい気持やバルベックの想い出のほかに、これまでの私の生涯では無縁であったもの、私の生涯において完全に新しいとは言えずとも少なくとも私の恋愛経験には無縁であったものが混じっていた。それははるか昔のコンブレーにおける幾多の夜、私のベッドへかがみこんだ母がその接吻にこめて私に安らぎをもたらしてくれたとき以来、一度も味わったことのない鎮静の力だった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.166」岩波文庫 二〇一六年)
差し当たり<私>の鎮静剤となりうるもの。それは世間とアルベルチーヌとの「引き離し」、絶縁であり、実際そうした。そしてその暴力的措置が成功しているかいないかの判断基準は「慶び」が伴っているかいかいかに掛かっている。「アルベルチーヌをわが家に定住させるという私の喜びは、積極的な喜びではなく、むしろ万人がそれなりに賞味できる花咲く乙女を世間から引き離したという喜びであり、その娘が私にさほど大きな歓びを与えてくれなくても、他人がその大きな歓びを味わうのを妨げていたからである」。
「というのは、アルベルチーヌをわが家に定住させるという私の喜びは、積極的な喜びではなく、むしろ万人がそれなりに賞味できる花咲く乙女を世間から引き離したという喜びであり、その娘が私にさほど大きな歓びを与えてくれなくても、他人がその大きな歓びを味わうのを妨げていたからである。野心や名誉は、私の関心の外にあった。まして人を憎むことなど、できるわけがなかった。にもかかわらず私の場合、肉体的に愛することは、やはり私にとって多くの競争相手にたいする勝利を味わうことであった。何度くり返しても言い足りないが、それはなににもまして心を鎮めてくれたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.166~167」岩波文庫 二〇一六年)
<力としてのアルベルチーヌ>=<欲望としてのアルベルチーヌ>を定住民へと打ち固めてしまうこと。<私>のための鎮静剤はそんなふうに大変暴力的な所作なのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/86/e086ba203b6bef181352b0e041eb8947.jpg)