白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて90

2022年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

柿の木の木の葉の間に残された蜂の巣を見つけました。

 

「名称:“蜂の巣”」(2022.11.15)

「冬の蜂尻を輝(ひか)らし爆心地」(岸風三楼)

 

 

「名称:“柿の木”」(2022.11.15)

「ここにして柿の梢(こずゑ)にたたなはる群山(むらやま)こめて秋の雲立つ」(長塚節)

 

坂本城があった頃、城の諸地域を区別するのに用いられた仕切り=畔(くろ)がありました。城畔(しろくろ)と言います。古い呼び名ですが、この付近もまた城畔(しろくろ)と呼ばれていた箇所の一部です。廃城後、長く田んぼの畔(あぜ)でした。今は住宅地の中を流れる小川になっています。

 

「名称:“色子川(いろこがわ)城畔(しろくろ)付近”」(2022.11.15)

「短日やさそはれ出でしかげ参(まゐり)」(河東碧梧桐)

 

二〇二二年十一月十五日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・繰り返し新しく出現する<私>とアルベルチーヌとの恋愛関係

2022年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌがパリにおけるエレガンスのモデルにしたゲルマント公爵夫人。<私>はゲルマント夫人のもとを訪れ、その衣裳や装飾品の情報を得るようにし、アルベルチーヌに提供していた。もっとも、アルベルチーヌがゲルマント夫人のファッションに夢中になったのは画家エルスチールから「公爵夫人はパリのベストドレッサー」だと聞かされたからであって、アルベルチーヌがゲルマント夫人に会ったことがあるからでは少しもない。エルスチールの言葉がアルベルチーヌに<エレガンスへの意志>を出現させた。この欲望はあくまで言語由来なのであって、その限りで、アルベルチーヌは始めて<エレガンスへの意志>という欲望に<なる>。

 

一方<私>はリアリズムの観点からゲルマント公爵夫人を見る。するとたちまちこれっぽっちも幻想を抱くわけにはいかなくなる。新興ブルジョワ階級の系列がヨーロッパを支配する新しい世界の登場によって、もはや夫人はかつての大貴族の系列に属するただ一介の貴婦人に過ぎなくなってしまっているわけで、資本主義の原理原則上、どんな後戻りも許されないからである。そして何ものをも恐れず一心不乱に突き進んだ資本主義はヘーゲル弁証法の予言通りロシア革命へ転倒した。慌てた資本主義はロシア革命から学ぶことを覚えた。

 

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)

 

とはいえ、ドゥルーズ=ガタリによるこの分析は第二次世界大戦後のこと。プルーストはそれを知らない。知らないにもかかわらず資本主義が常に新しい衣裳をまとって繰り返し出現してくることに気づいていたのは間違いない。<私>は何度もアルベルチーヌに幻滅するけれども、幻滅とともに、その幻滅が瞬時に新しい恋愛の出発点へと置き換えられることで二人の関係はまるで真っさらな恋愛として回帰してくるからである。このパラレルな様相はたまたま文学史上で起きたまったくの偶然だとは考えられないと思われる。

 

「ゲルマント夫人を訪ねて下へ降りてゆかない日には、恋人が帰ってくるまでのあいだの退屈しのぎに、エルスチールの画集やベルゴットの本をひもといた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.122」岩波文庫 二〇一六年)

 

アンドレと同行させることでアルベルチーヌを監視下に置いている<私>。その上でアルベルチーヌの外出中、<私>が味わうのは、アルベルチーヌがこれまでとはまるで異なる新しいイメージとして立ち現れてくる時間である。そんな時間を出現させるための道具立ては一人で部屋にいる時に手にした書籍類から得られる「音楽家のフレーズや画家のイメージ」だ。更新されたアルベルチーヌのイメージとともに「作品はそれでたしかにいっそう生き生きしたものに見えてくる」。

 

「するとーーーひとえに視覚や聴覚に訴えるように思われる作品でも、それを味わうにはわれわれの知性が目醒めてこのふたつの感覚を緊密に協力することが求められるからであろうーーーその昔いまだ本人を知らないときにアルベルチーヌが私のうちにかき立てた夢、その後の日常生活によってかき消されていたさまざまな夢が思いがけず私の内からあらわれ出た。私はそうした夢をまるで坩堝(るつぼ)のなかに入れるように音楽家のフレーズや画家のイメージのなかへ投入し、そのとき味わっている作品の養分とした。すると作品はそれでたしかにいっそう生き生きしたものに見えてくる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.122~123」岩波文庫 二〇一六年)

 

アルベルチーヌはただ単なる「対象」ではなくなる。「われわれがはいりこめるふたつの世界、われわれが同じ対象をかわるがわる配置できるふたつの世界の一方からこうして運び出され、ものを押しつぶす物質的世界の圧力をのがれて思考という流動的空間のなかでたわむれることで輝きを増した」。すると突然「私は、ほんのいっときではあるが、飽き飽きしていたこの娘に熱烈な愛情をいだくことができた」。

 

「だがアルベルチーヌもまた、われわれがはいりこめるふたつの世界、われわれが同じ対象をかわるがわる配置できるふたつの世界の一方からこうして運び出され、ものを押しつぶす物質的世界の圧力をのがれて思考という流動的空間のなかでたわむれることで輝きを増した。突然、私は、ほんのいっときではあるが、飽き飽きしていたこの娘に熱烈な愛情をいだくことができた。娘はそのときだけエルスチールやベルゴットの作品と同様の外観をまとい、私は想像力と芸術を介し距離を置いて娘を眺めやることで娘に一時的昂奮を覚えたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.123」岩波文庫 二〇一六年)

 

エルスチールの絵画、ベルゴットの文学、あるいはヴァントゥイユの音楽。それら芸術は<私>の感性を不意打ち、衝撃を与え、新しく思考するよう働きかける。