白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて102

2022年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

今朝も浜辺で日の出の様子を撮ってきました。昨日より二十分くらい前に到着。

 

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.25)

 

二〇二二年十一月二十五日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<幽閉・覗き見・監視>の逆説/<眠ること>とアルベルチーヌ

2022年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌとの恋愛関係はいつも<或る恋愛関係>の終わりが<別の恋愛関係>の始まりへと転倒することで間歇的に新しい恋愛関係として出現する。これまで見てきた通り。アルベルチーヌが諸商品の無限の系列のようにころころ変容するとともに<私>の側もまた実はころころ変容していることに注意を払いつつ見てきたつもりである。ところがさらにアルベルチーヌは<私>の手の届かない地帯へ変容しもする。「睡眠中に植物と化したようなアルベルチーヌ」は「花をつけた長い茎がそこに置かれているように見えた」。

 

婚約中の同棲生活に名を借りた<幽閉・覗き見・監視>という暴力行使によって、今度は、アルベルチーヌは植物になる。アルベルチーヌは「さまざまな人間的属性をひとつまたひとつと脱ぎ捨てていった」。それを<私>から見れば「いまやアルベルチーヌのなかに息づいているのは、植物に宿るような、木々に宿るような意識のない生命で、私の生命とはずいぶんかけ離れた、はるかに奇妙な生命でありながら、それでいていっそう私のものとなる生命である」ことになる。

 

「アルベルチーヌは目を閉じて意識を失ってゆくうちに、知り合ったその日から私を失望させてきたさまざまな人間的属性をひとつまたひとつと脱ぎ捨てていった。いまやアルベルチーヌのなかに息づいているのは、植物に宿るような、木々に宿るような意識のない生命で、私の生命とはずいぶんかけ離れた、はるかに奇妙な生命でありながら、それでいていっそう私のものとなる生命である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.151」岩波文庫 二〇一六年)

 

この「いっそう私のものとなる生命」というのはアルベルチーヌが眠ることによって<私>にもたらされる。起きている時のアルベルチーヌから溢れ出る身振り(振る舞い・発言)をどう受け止めれば良いのかわからずたじろぐばかりの<私>は、しかし、アルベルチーヌの眠りによって「相手を余すところなく所有している気分になる」。アルベルチーヌの眠りという「不思議なつぶやき、海の微風のように穏やかで月の光のように夢幻的なつぶやきに私は耳を傾けた」。

 

「アルベルチーヌは、外部に存在していた自己のすべてをその身に呼びもどし、おのが身体のなかに自己をかくまい、閉じこめ、凝縮したのである。そんなアルベルチーヌをわが目におさめて両手に抱きかかえると、相手の覚醒時にはとうてい感じられない、相手を余すところなく所有している気分になる。本人の生命までが、私の言いなりになって、私のほうへ軽やかな息吹を漏らしている。こうして漏れてくるアルベルチーヌの眠りという不思議なつぶやき、海の微風のように穏やかで月の光のように夢幻的なつぶやきに私は耳を傾けた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.152」岩波文庫 二〇一六年)

 

違和感一つほとんど覚えずすらすら読み飛ばせてしまいそうな文章なのだが、アルベルチーヌは植物になるばかりか遥かに次元違いの変容を遂げていくのだとプルーストは述べる。「そのそばでけっして飽きずに際限なく味わえるみずみずしい官能の歓びに浸りつつ夢想にふける私にとって、その眠りは広大な風景にほかならなかった」。

 

「実際、アルベルチーヌが少しでも深い眠りにはいると、それまでのようにただ植物であることをやめてしまう。そのそばでけっして飽きずに際限なく味わえるみずみずしい官能の歓びに浸りつつ夢想にふける私にとって、その眠りは広大な風景にほかならなかった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.152」岩波文庫 二〇一六年)

 

植物からさらに「広大な風景」へ。<幽閉・覗き見・監視>にもかかわらずアルベルチーヌは<眠ること>によって植物になる。とともに<幽閉・覗き見・監視>ゆえ、逆に<私>の夢想を<私>の知らない新しい地帯へますます脱線させていく。どんな<監視・管理>も瞬時に誘惑へ転倒することを免れるわけにはいかないとプルーストは教えているに違いない。