白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて78

2022年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

「名称:“たんぽぽ”」(2022.11.5)

「たんぽぽや狐狸は狐狸の瞳して親し」(角川源義)

 

「名称:“たんぽぽ”」(2022.11.5)

「たんぽぽ地に張りつき咲けり飛行音」(西東三鬼)

 

JR比叡山坂本駅から北東へ歩くと西教寺という大きな寺院があります。その途中、鶏塚(にわとりづか)という遺跡があります。そこまで歩いてみましょう。

 

「名称:“鶏塚(にわとりづか)石碑”」(2022.11.5)

「古(いにしへ)の人に我(われ)あれや楽浪(ささなみ)の古き京(みやこ)を見れば悲しき」(高市古人)

 

案内板を読むと鶏塚にまつわる地域伝承が述べられています。考古学的な本格的発掘調査は行われていません。ですが、簡略な調査でわかった点について少しばかり記述があります。盛り土から多数の土師器(はじき)が出土しており古代古墳だった可能性が考えられます。しかし古墳時代全盛期に数多く見られる横穴式ではなく、もっと以前、古墳時代初期の円墳だったと推定されています。

 

「名称:“鶏塚(にわとりづか)案内板”」(2022.11.5)

「むかしやら今やらうつつ秋のくれ」(鬼貫)

 

「名称:“鶏塚(にわとりづか)周囲”」(2022.11.5)

「楽浪(ささなみ)の志賀津(しがつ)の児(こ)らが罷(まか)り道(ぢ)の川瀬(かはせ)の道を見ればさぶしも」(柿本人麻呂)

 

のぼってみましょう。

 

「名称:“鶏塚(にわとりづか)頂上付近”」(2022.11.5)

「外套をはじめて着し子胸にボタン」(細見綾子)

 

「名称:“鶏塚(にわとりづか)頂上平坦地”」(2022.11.5)

「山椒魚詩に逃げられし顔でのぞく」(加藤楸邨)

 

さて今度は、鶏塚から西へてくてく歩きましょう。赤地蔵(あかじぞう)という聞き慣れない名前のお地蔵さんがあります。いつも時計が掛かっています。

 

「名称:“赤地蔵(あかじぞう)”」(2022.11.5)

「秋の暮辻の地蔵に油さす」(蕪村)

 

なるほどお地蔵さんの前垂れは赤いものです。

 

「名称:“赤地蔵(あかじぞう)”」(2022.11.5)

「姿鏡(すがたみ)に映る楓(かへで)の夕日(ゆふひ)かな」(井月)

 

ところがその周囲に収められた小さなお地蔵さんたちの前垂れも全部びっくりするほど赤くて可愛らしい感じがします。

 

「名称:“赤地蔵(あかじぞう)”」(2022.11.5)

「したたかに水打つて菊据えられる」(津根元潮)

 

「名称:“赤地蔵(あかじぞう)”」(2022.11.5)

「大根蒔く短き影をそばに置き」(加倉井秋を)

 

そこから見える景色です。

 

「名称:“赤地蔵(あかじぞう)前の眺望”」(2022.11.5)

「かぎろひの夕べの空に八重(やえ)なびく朱(あけ)の旗ぐも遠(とお)にいざよふ」(斎藤茂吉)

 

二〇二二年十一月五日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・調剤薬局としてのプルースト/正反対の方向へ分裂した相反するパルマコン(医薬/毒薬)としての<私>

2022年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストのいう「嫉妬を鎮めるこの二種類の奇癖」。次の箇所で一度にまとめて語られる。

 

(1)「愛人が自分から遠く離れたところで関係をもつ男にしか嫉妬せず、愛人が自分の許可を得たうえで自分のそばで、自分の見ている前でとは言わずとも少なくとも同じ屋根の下で、べつの男と関係をもつことなら許す者がいる。これは若い女に惚れた高齢の男にかなり頻繁に見られるケースで、そんな男は、自分で女を歓ばせることに困難を覚え、ときには女を満足させる能力の欠如を悟って、女にだまされるよりは、自宅の隣の部屋にでも、女に邪(よこしま)な助言をする才覚はないが快楽を与えることはできると判断した男を通わせるほうを好むのである」。

 

(2)「勝手知ったる町では愛人をいっときたりとも外出させず、文字どおり奴隷のように拘束するが、自分の知らない土地ではその行動の見当もつかないからであろう、愛人をひと月でも旅行に出してやる」。

 

プルーストは「この二種類の奇癖」について「正反対」の態度だと述べる。そして<私>はまるで正反対の方向へ分裂した相反する態度を「ともに持ち合わせていた」。

 

「嫉妬する男のなかには、愛人が自分から遠く離れたところで関係をもつ男にしか嫉妬せず、愛人が自分の許可を得たうえで自分のそばで、自分の見ている前でとは言わずとも少なくとも同じ屋根の下で、べつの男と関係をもつことなら許す者がいる。これは若い女に惚れた高齢の男にかなり頻繁に見られるケースで、そんな男は、自分で女を歓ばせることに困難を覚え、ときには女を満足させる能力の欠如を悟って、女にだまされるよりは、自宅の隣の部屋にでも、女に邪(よこしま)な助言をする才覚はないが快楽を与えることはできると判断した男を通わせるほうを好むのである。べつの嫉妬する男は、これとは正反対で、勝手知ったる町では愛人をいっときたりとも外出させず、文字どおり奴隷のように拘束するが、自分の知らない土地ではその行動の見当もつかないからであろう、愛人をひと月でも旅行に出してやる。私はアルベルチーヌにたいして、嫉妬を鎮めるこの二種類の奇癖をともに持ち合わせていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.63」岩波文庫 二〇一六年)

 

(1)の場合、愛人の行動のすべてを把握できる立場にいなくてはならない。後にそうなるようにアルベルチーヌを徹底的な監視下に置くことによって成就される。(2)の場合、愛人がもはや「自分の知らない土地」=<未知の土地>の住人でしかなくなってしまうような環境では何一つ知ることができなくなるため、「無知」に依存することで「愛人をひと月でも旅行に出してやる」ことさえできる。完璧な「知見」か完璧な「無知」かの二者択一ではなく、いずれの態度をも<ともに>保持することで<私>は嫉妬に対する新しい鎮静剤を手にしていたわけである。

 

「たとえアルベルチーヌが私のそばで私から勧められた快楽を味わったとしても、それは余すところなく監視でき嘘をつかれる心配がないのなら、私は嫉妬を感じなかっただろう。またアルベルチーヌが私の知らない遠くの土地へ出かけてしまい、私にはその土地を想像することもできず、その地でのアルベルチーヌの暮らしを知りうる可能性も知りたい気持も欠く場合、やはり嫉妬を覚えることはなかったかもしれない。どちらの場合も、前者では知見が、後者では無知が、それぞれ同じく完璧になることによって、疑念が消え失せるからであろう」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.63~64」岩波文庫 二〇一六年)

 

これまで<私>は完璧な「知見」か完璧な「無知」かの二者択一にこだわるあまり、いつもどちらか一方の態度にばかり固執して「狂気の沙汰」に陥っていた。「知見」によってすべてを知っていたいと思えば思うほど、アルベルチーヌはますます<私>から遠ざかって見え、<私>をさんざん苦しめた。「無知」によって何一つ知らないでおこうとすると、今度はアルベルチーヌの身振り(言葉・振る舞い)が、いつも<私>の内部から途方もない疑念を湧き起こさずにはおかなかった。そこでとうとう<私>は同時に両者を兼ね備えることによって、常に変容していく状況に応じて完璧な「知見」と完璧な「無知」とを上手く配合させ、嫉妬の苦痛から逃れるとともに<私>とアルベルチーヌとの恋愛関係をこれまでになかった新しい恋愛を出現させたのである。

 

正反対の方向へ分裂した相反する態度が鎮静剤として機能するという意味で<私>の態度は明らかにパルマコン(医薬/毒薬)的両義性を生きる。そしてまた「恋愛」という言葉に限ればそれこそ何一つ変わっていない。けれども新しい恋愛の出現という点では、間違いなくこれまでとまるで異なる未知の領域が開かれたのだ。