アルベルチーヌのイメージはもはや「謎めいた影をつくる力づよい立体感を備えて造型され」ている。その理由として二つ。(1)「継起する多様なイメージの積み重なり」に拠るもの。(2)「私には想いも寄らなかったアルベルチーヌの知性と心情の大きな美点ならびに性格の欠点の双方の積み重なり」に拠るもの。
「そうした空間の半透明な奥行きを背景にして、私の目の前にいるバラ色の娘は、謎めいた影をつくる力づよい立体感を備えて造型されたのである。そもそもこの立体感が生じたのは、私にとってアルベルチーヌがそうであった継起する多様なイメージの積み重なりに拠るのみならず、いずれも私には想いも寄らなかったアルベルチーヌの知性と心情の大きな美点ならびに性格の欠点の双方の積み重なりにも拠る。アルベルチーヌは、発芽し、自己増殖をとげ、暗い色合いの肉厚の花となって咲きほこるにつれて、以前は無にも等しかった本性にそうした美点と欠点とをつけ加えたので、いまやその本性が見極めがたくなっていたのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.148~149」岩波文庫 二〇一六年)
(1)について。作品の中で何度も繰り返し反復されるフレーズ。そのたびに読者は次の一節を振り返らざるを得ない。というのもプルーストは読者に向けてそうするよう教えているからである。<私>がアルベルチーヌのイメージをどんなに強固に固定しようと試みてみても決してできない理由はこの一節が語られた時点ですでに決定していたと十分に言えるだろう。
「私はアルベルチーヌをどれだけ知っているのだろう?海を背景にした一、二の横顔だけである。その横顔は、もちろんヴォロネーゼの描いた女性たちの横顔ほどに美しくはない。もし私が純粋に審美上の動機に従っていたなら、アルベルチーヌよりもヴェロネーゼの女性のほうを好んでいただろう。激しい不安が治まると、見出せるのはあのもの言わぬ横顔だけで、ほかになにひとつ所有できなかったのだから、どうして美的動機以外のものに従えたであろうか?アルベルチーヌを見かけて以来、毎日そのことで数えきれないほどの考えをめぐらし、私があの娘(こ)と呼んでいるものと心のなかでくり返し対話をつづけ、その娘に質問させたり、答えさせたり、考えさせたり、行動させたりしてきたのだ。私の心に刻一刻と相ついで浮かんだ数えきれない一連の想像上のアルベルチーヌのなかで、浜辺で見かけた現実のアルベルチーヌは、その先頭に姿をあらわしているにすぎない。芝居の長期間の講演中、ある役の『初演女優』である花形は、最初の数日にしか出ないのと同じようなものである。この現実のアルベルチーヌはほんのシルエットにすぎず、そのうえに積み重ねられたいっさいは私のつくりだしたものである。それほど恋愛においては、われわれのもたらす寄与がーーーたとえ量的観点だけから見てもーーー愛する相手がわれわれにもたらしてくれる寄与をはるかに凌駕する」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.465~466」岩波文庫 二〇一二年)
(2)について。アルベルチーヌという名前の人間は一人でも、その人格は諸商品の無限の系列のように、絶対的中心といったもののない、次々と継起していく終わりなき多様性・多元性にほかならないということを意味する。ニーチェから。
「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
マルクスから。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
さらに「謎めいた影をつくる力づよい立体感」というイメージは、陰翳の多彩さにおいて、また無限に変容する陰翳において、固定不可能性の宣言を兼ねてもいる。アルベルチーヌは自ら「発芽し、自己増殖をとげ、暗い色合いの肉厚の花となって咲きほこるにつれて、以前は無にも等しかった本性にそうした美点と欠点とをつけ加えた」だけでなく、今後ますます「つけ加え」ていくに違いなく、従って「いまやその本性が見極めがたくなっていた」という帰結を見ないわけにはいかない。そして或る出来事の帰結は同時にまるで相異なる別の平面の出現でもある。というより、人間はいつも、相異なる別の平面の出現が逆に或る出来事の帰結に映って見えるという遠近法的倒錯を犯すほかない、と言い換えるのがより一層正確だろう。さらにもっともな話なのだが、アルベルチーヌは人間であって、人間である以上、<力としてのアルベルチーヌ>として存在している。ゆえに「自己増殖をとげ、暗い色合いの肉厚の花となって咲きほこる」ことに不可解な点は何一つない。
<力としてのアルベルチーヌ>=<固定不可能性としてのアルベルチーヌ>。その意味でアルベルチーヌは変動相場制を生きる。次のようにいうこともできる。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)
と同時にすべての人間の記号化。薄っぺらな記号化についてはニーチェが早くから述べていたが、<記号化・一般化・凡庸化・家畜化>する傾向はもっと加速するに違いない。すると<力としてのアルベルチーヌ>=<固定不可能性としてのアルベルチーヌ>は余りにも陰鬱狡猾な世界の中でじわじわと窒息させられてしまう。
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