モレルとジュピアンの姪との結婚話を着々と進めるシャルリュス。ところでジュピアンの姪はかつて一度「あやまち」を犯したことがあるという。その相手はモレルの全然知らない男性であるらしい。シャルリュスはそれをモレルに教えてやり二人の間へわざと「不和の種」を蒔くことに興味を覚える。さらにシャルリュスは二人を「和睦」させるようなことなどあってはならないと考える。シャルリ(モレルの愛称)とジュピアンの姪との結婚話を着々と進めつつ同時に二人が決定的な「和睦」に至るような事態は注意深く避けなければならないと用意周到に振る舞うシャルリュス。このように相異なる二重の身振りをシャルリュスは何度も執拗に繰り返す。
第一にシャルリュスはジュピアンの姪のかつての性的関係を秘密にしておくことにする。すると「こんな束の間の情熱などたちどころに冷めて、俺はふたりの関係を意のままに操ることができ、ヤツは俺が望むかぎりでのみ娘を愛するだろう」と想定できる。第二に「婚約者の過去のあやまちを話したりすれば、わがシャルリはなおも恋が冷めず嫉妬に苦しまないともかぎらん。そうなれば、こっちの思いどおりに操れる取るに足りぬ一時的恋心を、俺自身のあやまちで手に負えぬ大恋愛に変えてしまいかねない」と警戒しないわけにはいかなくなる。
「にもかかわらず男爵がくだんの件をいっさいほのめかさなかったのは、ふたつの理由からである。『もしあの男に』と男爵は考えた、『許嫁が傷ものであると話したら、ヤツは自尊心を傷つけられて俺を恨むだろう。おまけにヤツが娘に惚れていないとだれが言えよう?俺がなにも言わなければ、こんな束の間の情熱などたちどころに冷めて、俺はふたりの関係を意のままに操ることができ、ヤツは俺が望むかぎりでのみ娘を愛するだろう。ところが婚約者の過去のあやまちを話したりすれば、わがシャルリはなおも恋が冷めず嫉妬に苦しまないともかぎらん。そうなれば、こっちの思いどおりに操れる取るに足りぬ一時的恋心を、俺自身のあやまちで手に負えぬ大恋愛に変えてしまいかねない』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.108~109」岩波文庫 二〇一六年)
ただ単なる結婚ではなくモレルが嫉妬の苦しみからジュピアンの姪のことを徹底的に知ろうと欲望し、遂に二人が大恋愛に陥るような事態になれば、それこそシャルリュスにとって大打撃なのだ。ジュピアンの姪がかつて犯したたった一度の「あやまち」が今度はシャルリュスにとって取り返しのつかない「俺自身のあやまち」へ変換されからである。この種の人格の多元性についてニーチェはいう。
「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
シャルリュスが愛しているのはあくまでモレルであり、モレルがジュピアンの姪と結婚する限りで、始めてモレルもジュピアンの姪をも自分の支配下に置き二人を同時に所有することが可能になる。そこで相異なる「ふたつの理由でシャルリュス氏は沈黙を守った」。演説を始めれば終わりを知らず延々と語り続けるシャルリュスにしてみれば例外的な態度だ。「べつの観点からするとそれは賞賛に値するものであった」とプルーストは述べる。
「このようなふたつの理由でシャルリュス氏は沈黙を守った。沈黙といっても、口が堅いと見せかけただけであるが、べつの観点からするとそれは賞賛に値するものであった。男爵のような人間にとって、黙っているのは不可能にも近い難業だからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.109」岩波文庫 二〇一六年)
ここでも事情を有効に推し進めているのは固定されたステレオタイプ(紋切型)的「観点」ではなく、逆に固定されない「べつの観点」の導入である点に注目しよう。