モレルには野望がある。いつの日かコンセルヴァトワールのコンクールのヴァイオリン部門の審査委員長になること。コンセルヴァトワールが管轄する機関の一つに今のフランス国立高等音楽院がある。そんなモレルに或る時期ひどいショックが見舞った。「手の痙攣」。そこでモレルは何をどう思案したか。「モレルは自分の芸術以外では信じられないほど怠惰な男だったので、どうしてもだれかに養ってもらわねばならず、その場合シャルリュス氏よりもジュピアンの姪の世話になるほうが得策と考えたのだ」。シャルリュスからモレルを見ると往々にして生意気さばかりが鮮烈に映っているけれども、一方、<私>から見るとモレルはかなり計算高い人間なのである。
モレルはそもそも<私>の大叔父の従僕の息子。だとはいえ「従僕の息子」という階級的立場を<引け目>として意識するあまり、たいそう混み入った複雑怪奇かつ華々しい言動で周囲を嘲笑って見せたり、逆に誹謗中傷されたりしているのはモレル自身である。壮大な野望と<引け目>との同居がモレルの振る舞いにたびたび支離滅裂さを生じさせる原因の一つになっているのは確かだ。だがプルーストは「従僕の息子」という社会的<記号>がモレルに与えられ、モレルならではの計算高く、にもかかわらず脈略のない言動が次々と出現する事態に並々ならぬ関心を寄せる。
「おまけに本人がはっきり自覚していたわけではないが、ほんのいっときモレルにとってこの結婚が必要だと思われた時期があった。そのときモレルはかなり深刻な手の痙攣に見舞われ、ヴァイオリンをやめなくてはならない可能性を考えざるをえない状況に置かれていた。モレルは自分の芸術以外では信じられないほど怠惰な男だったので、どうしてもだれかに養ってもらわねばならず、その場合シャルリュス氏よりもジュピアンの姪の世話になるほうが得策と考えたのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.114」岩波文庫 二〇一六年)
ずいぶん不可解に思えるモレルの振る舞い。次の箇所では、モレルがなぜそうも厳重に自分で自分自身の身振り(言葉・振る舞い)を見張るのか、さらなる事情について語られる。
「そちらと組んだほうが、はるかに自由に振る舞えるうえ、選(よ)りどり見どりの違った女がそばにいるから、ジュピアンの姪に頼んでつねに顔ぶれの変わる見習いのお針子たちを誘惑してもらうこともできるし、その姪に身を売らせて裕福な美しい婦人たちを手に入れることもできるという寸法である。もしかすると未来の妻はそんな極悪非道なご機嫌取りを断るほど意地悪かもしれぬという可能性は、いっときたりともモレルの胸算用には含まれなかった。もっとも手の痙攣がやむと、そんな胸算用は二の次になって、純粋な恋心に座を譲った」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.114」岩波文庫 二〇一六年)
モレルはシャルリュスから庇護下におけるシャルリュスの愛人である。ソドム(男性同性愛)の系列に属すると思われている。またヴェルデュラン夫妻がラ・ラスプリエールの別荘を借りて滞在中、その取り巻きたちが集まり様々なエピソードを繰り広げたわけだが、近くのメーヌヴィルの娼館でモレルとゲルマント大公とが性的関係を持ったことはすでに述べられている。ところが今度はこうある。「そちらと組んだほうが、はるかに自由に振る舞えるうえ、選りどり見どりの違った女がそばにいるから、ジュピアンの姪に頼んでつねに顔ぶれの変わる見習いのお針子たちを誘惑してもらうこともできるし、その姪に身を売らせて裕福な美しい婦人たちを手に入れることもできる」。
モレルはただ単なるソドムの男であるだけでなく、同時に「選(よ)りどり見どりの違った女」たちとも性的関係を堪能するトランス(横断的)両性愛者なのだ。その点でトランス(横断的)両性愛者は何もアルベルチーヌ一人に限った話では全然ない。それはそれとしてモレルについて書かれたこの箇所でプルーストは<身体>の重要性を強調している。「手の痙攣がやむと、そんな胸算用は二の次になって、純粋な恋心に座を譲った」。あたかもニーチェの言葉のようだ。
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