白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて85

2022年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

旧北國街道(ほっこくかいどう)の交差点で道標を見つけました。右へ行けば「頬焼地蔵」(ほおやけじぞう)とあります。道標にある通りてくてく歩き日吉神社参道へ出ると左折して登ってみましょう。古典にしばしば登場する「身代り地蔵」伝承を残すお地蔵さん。

 

「名称:“「頬焼地蔵」(ほおやけじぞう)道標”」(2022.11.11)

「しみじみと立(たち)て見にけりけふの月」(鬼貫)

 

「名称:“「頬焼地蔵」(ほおやけじぞう)門前”」(2022.11.11)

「頬(ほほ)の肉(しし)落ちぬと人の驚くに落ちけるかもとさすりても見し」(長塚節)

 

「名称:“「頬焼地蔵」(ほおやけじぞう)額”」(2022.11.11)

「節穴の日が風邪の子の頬にありて」(竹下しづの女)

 

参道脇に古墳を応用したような塚が見えます。三津首広野(みつのおびとひろの=最澄の幼名)が生まれた時の胞衣(えな)が納められていると言います。

 

「名称:“幸塚”」(2022.11.11)

「広庭(ひろには)の木陰(こかげ)木かげをくまどりて苔(こけ)のさみどりしみむせるかも」(伊藤左千夫)

 

「名称:“幸塚祠”」(2022.11.11)

「学校に行く子は露の小道かな」(河東碧梧桐)

 

参道だけでなく周囲の史跡をゆっくり見ながら歩いてみるのも良いかもしれません。

 

「名称:“滋賀院門跡(しがいんもんぜき)横の石積みの道”」(2022.11.11)

「藻どころに釣れて平たき紅葉鮒(もみじぶな)」(宇佐美魚目)

 

「名称:“柚子”」(2022.11.11)

「実をあまたつけたる柚子の日向かな」(渋沢渋亭)

 

「名称:“チョウセンアサガオの実”」(2022.11.11)

「荒地(あらち)にて石も死人も風発す」(高屋窓秋)

 

自転車のタイヤに止まっていたバッタさんを発見しました。

 

「名称:“バッタ”」(2022.11.11)

「どちらから寒くなるぞよかがし殿(どの)」(一茶)

 

二〇二二年十一月十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・プルーストのいう「拡張」/夫=モレルへの変身

2022年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

モレルとジュピアンの姪との結婚についてシャルリュスがどう考えているか、その<構造性>について、プルーストは極めて現代的な語彙を用いて述べる。「ジュピアンの姪がモレルという人間をいわば拡張した存在となり、それゆえ男爵がモレルに関して手にしている権勢と知識をふたつながら拡張できるという理由もあった」。

 

「拡張」ということ。それはシャルリュスがモレルにとって全能の庇護者であり、なおかつモレルがジュピアンの姪と結婚している限りでしかできない。そしてジュピアンの姪はモレルの単なる愛人ではなく妻でなくてはならない。モレルはジュピアンの姪の単なる愛人ではなく夫でなくてはならない。モレル一人だけならモレルはシャルリュスにとってただ単なる<もの>でしかないが、重要なのは二人が「夫婦」になることだ。モレルは夫に、ジュピアンの姪は妻になる。すると事情はたちまちこう変わる。「妻が男爵を神とみなすことは、その考えを愛しいモレルから教えこまれたという証拠となって、妻の身にモレルのなにがしかが含まれることを示すものだーーー、それらがシャルリュス氏の支配様式を変化させ、氏の『もの』たるモレルのうちに夫というもうひとりの存在を生じせしめたのであり、すなわちモレルにあって愛すべきもうひとりの存在、新たな存在、興味をそそる存在を氏に提供したのである」。モレルはもはやこれまでのモレルではない。モレルという名の夫として出現する。シャルリュスにすればモレルは脱皮した新しい存在としてまるで新鮮な愛人として登場してくるわけだ。

 

さらに二人が結婚すればモレルのわがままがこれまでのようにしばしばシャルリュスの愛を怯えさせることもすっかりなくなるに違いない。モレルが「ひとたび結婚すれば自分の所帯やアパルトマンや将来のためを考えてすぐに怖じ気づき、そうなるとわが輩の意志はこれまでよりも広範かつ強力な拠りどころを得るからだ」。モレルは夫(モレル)の中に妻(ジュピアンの姪)を接続させ新しく更新されたモレルとして立ち現れる。また、「それ以上に楽しいのは、若夫婦がこの俺に頼って暮らすことになると考えることだ」とあるように、シャルリュスは現代用語でいう「共依存」(きょういぞん)の快楽を知っている。

 

「シャルリュス氏が若いふたりの結婚を歓迎したさまざまな理由のなかには、ジュピアンの姪がモレルという人間をいわば拡張した存在となり、それゆえ男爵がモレルに関して手にしている権勢と知識をふたつながら拡張できるという理由もあった。シャルリュス氏は、ヴェイオリン奏者の未来の妻を夫婦生活という意味で『裏切る』ことで心が咎めることなど、いっときも想像だにしなかったはずだ。そうではなくて『若夫婦』を導くこと、そして自分がモレルの妻から恐れられる全能の庇護者だと感じることーーー妻が男爵を神とみなすことは、その考えを愛しいモレルから教えこまれたという証拠となって、妻の身にモレルのなにがしかが含まれることを示すものだーーー、それらがシャルリュス氏の支配様式を変化させ、氏の『もの』たるモレルのうちに夫というもうひとりの存在を生じせしめたのであり、すなわちモレルにあって愛すべきもうひとりの存在、新たな存在、興味をそそる存在を氏に提供したのである。もしかするとこの支配は、かつてなかったほど強大なものになるかもしれん。というのもモレルは、ひとりのときは、いわば身ひとつのときは、この男爵の愛などすぐにとり戻せると高をくくって頻繁に反抗したものだが、ひとたび結婚すれば自分の所帯やアパルトマンや将来のためを考えてすぐに怖じ気づき、そうなるとわが輩の意志はこれまでよりも広範かつ強力な拠りどころを得るからだ。こうしたもろもろに加えて必要とあれば、退屈な夜など、夫婦のあいだに喧嘩をひきおこすことが(男爵は戦闘を描いた画を嫌ったことは一度もなかった)、わが輩の楽しみになるだろう。といっても、それ以上に楽しいのは、若夫婦がこの俺に頼って暮らすことになると考えることだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.110~112」岩波文庫 二〇一六年)

 

早くもシャルリュスが想定し、すでにわくわくしている「共依存」(きょういぞん)がもたらす快楽について、プルーストの文章は実に的を得ているというべきだろう。「ヤツが俺のものであるかぎり、ヤツの妻も俺のものだ。ふたりは俺の機嫌を損ねないようにしか振る舞わないだろうし、俺の気まぐれにも従うだろうから、ヤツの妻は、俺がほとんど忘れてはいたが心に強く響くはずのことがらの(これまで俺の知らなかった)目印になるだろう、要するにすべての者にとって、つまりふたりを庇護して住まわせているこの俺を目にする輩(やから)にとっても俺自身にとっても、モレルは俺のものだという目印になるのだ」。

 

例えばモレルがシャルリュスのところへやって来て借金したいと申し出るとしよう。そこで幾ばくかの金額を用意してやるのはシャルリュスにとって確かに受難ではある。だがこの受難がただ単なる受難に終わることはまず考えられない。貸した金が戻ってくればそれはそれでよい。たった一度でもモレルに<負い目>を感じさせることができる。生意気なモレルにビンタの一つもお返しできるからである。しかしもっと楽しみなのは、借金が膨らめば膨らむほどモレルはジュピアンの姪ともどもますますシャルリュスの庇護化に入らざるを得ず、シャルリュスはモレルを通していよいよ自分の所有欲を満足させる構造が出来上がっていくほかないことだ。

 

「かくしてシャルリュス氏の恋心は、氏がこう考えるときに甘美な新鮮さをとり戻した。『ヤツが俺のものであるかぎり、ヤツの妻も俺のものだ。ふたりは俺の機嫌を損ねないようにしか振る舞わないだろうし、俺の気まぐれにも従うだろうから、ヤツの妻は、俺がほとんど忘れてはいたが心に強く響くはずのことがらの(これまで俺の知らなかった)目印になるだろう、要するにすべての者にとって、つまりふたりを庇護して住まわせているこの俺を目にする輩(やから)にとっても俺自身にとっても、モレルは俺のものだという目印になるのだ』。これが他人の目にも自分の目にも明らかになることが、なによりもシャルリュス氏を喜ばせたのである。愛する者を所有することは、愛そのものよりも大きな歓びとなるからだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.112~113」岩波文庫 二〇一六年)

 

愛することと所有することとの同一性。さらに見た目にもしばしば現れてくる<所有欲>の有無を言わせぬ破壊力について、ニーチェはいう。

 

「《すべて愛と呼ばれるもの》。ーーー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう!ーーーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。つまり、一方のは、すでに所有している者ーーーこの衝動がどうやら鎮まって今や自分の『所有物』が気がかりになっている者ーーーの立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが『善』として賛美された呼び名であるかもしれない。われわれの隣人愛ーーーそれは新しい《所有権》への衝迫ではないか?知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか?およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか?われわれは古いもの、確実に所有しているものに次第に飽き飽きし、ふたたび外へ手を出す。われわれがそこで三ヶ月も生活していると、この上なく美しい風光でさえ、もはやわれわれの愛をつなぎとめるわけにゆかない。そしてどこか遠くの海浜がわれわれの所有欲をそそのかす。ともあれ所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなる。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものを《われわれ自身のなかへ》取り入れ変化させることによって、それみずからを維持しようとする、ーーー所有するとはまさにそういうことだ。ある所有物に飽きてくるとは、われわれ自身に飽きてくることをいうのだ。(われわれは悩み過ぎることもありうる、ーーー投げ棄てたい、分け与えたい、という熱望も、『愛』という名誉な呼び名をもらいうけることができる。)われわれは、誰かが悩むのを見るといつでも、彼の所有物をうばい取るのに好都合な今しも提供された機会を、よろこんで利用する。こうしたことは、たとえば、慈善家や同情家がやっている。彼も自分の内に目覚めた新しい所有物への熱望を『愛』と名づけ、そしてその際にも、彼を手招いている新しい征服に乗りだすように、快楽をおぼえる。だが、所有への衝迫としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛である。愛する者は、じぶんの思い焦(こが)れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。このことが高価な財宝や幸福や快楽から世間のひとびと全部を《閉め出す》以外の何ものをも意味しないということを考えると、また、愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、また最後に、愛する者自身には他の世界がことごとくどうでもいいもの、色あせたもの、無価値なものに見え、それだから彼はどんな犠牲をも意に介せず、どんな秩序もみだし、どんな利害をも無視し去ろうとする気構えでいることを考え合わせると、われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーーという事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、ーーー確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。この分野において多くの所有と飽満とに恵まれておった者たちは、あらゆるアテナイ人中で最も愛すべくまた最も愛されもしたあのソフォクレスのように、多分ときおりは『荒れ狂うデーモン』について何か一言洩らしもしたであろう。しかしエロスはいつもそういう冒瀆者(ぼうとくしゃ)たちを笑いとばしたーーー彼らこそつねづねエロスの最大の寵児(ちょうじ)だったのだ。ーーーだがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか?誰がこの愛を体験したろうか?この愛の本当の名は《友情》である」(ニーチェ「悦ばしき知識・十四・P.78~81」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

この種の状況が繰り返し反復されるのをプルーストはその都度書き込んでいく。まったく同じ状況が再び現れるからではない。繰り返しとして見ればなるほど同じに見えている<或る状況>が、まるで<別の状況>へ姿を変えて次々出現するからである。