白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて98

2022年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.21)

 

「名称:“鴨”」(2022.11.21)

 

「名称:“イチョウ”」(2022.11.21)

 

「名称:“赤椿”」(2022.11.21)

 

「名称:“白椿”」(2022.11.21)

 

「名称:“ナンテン”」(2022.11.21)

 

二〇二二年十一月二十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・「私が暮らしていた平面」と「アルベルチーヌが暮らしていた平面」との差異/<破滅への意志>としての<管理への意志>

2022年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストは「私が暮らしていた平面」と「アルベルチーヌが暮らしていた平面」とを区別する。そして最初のバルベック滞在時、両者は別々の平面として区別できるだけでなく区別しなくては許されないほど明確に仕切られており、なおかつどこまで行っても交わることはないと思われるくらい異なっていた。バルベックの断崖という言葉は同じであり見る対象としても同じであっても、しかし<私>から見えている光景とアルベルチーヌから見えている光景とはまるで違っており、その限りで、「私の平面」と「アルベルチーヌの平面」とは平行線をたどっていた。ところがそのように、けっして同一化しない二つの平面のすれ違いや摩擦といった事情こそ、<私>がアルベルチーヌを愛し、アルベルチーヌが<私>に関心を覚える、必要不可欠な条件をなしていた。最初のバルベック滞在と二度目のバルベック滞在との違い(差異)についてプルーストはいう。

 

「そもそも最初と二度目のバルベックの滞在を構成していたのは、同じ娘たちが同じ海の前へ出てくる同じ別荘群であるのに、この二度の滞在の情景にはなんという違いがあることだろう!二度目の滞在時に出会ったアルベルチーヌの友人たちは、その顔にはっきり刻印された長所や短所をふくめて私にはなじみの娘たちで、その娘たちのなかに私は、かつて山荘風別荘のドアを砂のうえに軋(きし)らせ、そのついでにそばのタマリスクの木々を震えあがらせて私の心を高鳴らせずにはおかなかった、あの神秘に包まれたみずみずしい未知の娘たちを見出すことができるだろうか?大きく見開かれたあの両の目も、その後、顔のなかで目立たなくなった。きっと娘たちが子供ではなくなったからであろうが、一方では、うっとりするほどに美しいあの未知の存在、小説じみた最初の年の私がたえず情報を探し求めていたあの女優たちが、私にとって神秘性を喪失したからでもある」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.147~148」岩波文庫 二〇一六年)

 

二度目の滞在中、「ソドムとゴモラ」篇を通して、一括りにできない実に様々なエピソードが語られた。さらに、一括りにできない無数のエピソードは一体どこまで続くのかまったく予想不可能なほど次々連発された。思えばそれら縦横無尽に場所移動と内容の価値変動とを繰り返していく多種多様なエピソードについて、無理矢理一括りにする必要性などまるでないと、プルーストは作品そのものを用いて読者にそう教えているのではと気づくのである。

 

また二度目のバルベック滞在からパリ在住への移動は<私>がアルベルチーヌたちのことを知るに十分な時間的容量を与えてもいた。知るということ。根掘り葉掘り知ろうとする<管理への意志>。それはしかし同時に<未知の土地>としてのアルベルチーヌたちを、<未知>であるにもかかわらず「算定」することができる固定された「もの」へ変えてしまう過程でもある。

 

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)

 

アルベルチーヌを愛する<私>はそうしなければ不安で一杯になる。そうしなければ<未知の土地>はますます<私>を誘惑するばかりだ。愛と嫉妬の苦痛はいよいよ激痛へ変わっていく。そこで<私>は「乙女たち」についてじっくり知ることで苦痛を鎮静させることに成功した。だがその行為が証明したのは何か。愛することと所有することとが一致した同一の行為である限りで、始めて<私>の苦痛は鎮静するし鎮静させねばならないという、おぞましい事実である。

 

「そんな女優たちも、私の気まぐれにおとなしく従うただの花咲く乙女と化し、私はその花のなかから最も美しいバラの花を摘んで、だれの手にも届かぬものにしたことを並々ならぬ誇りとしていたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.148」岩波文庫 二〇一六年)

 

ところで、根掘り葉掘り知ろうとする<管理への意志>に終わりという地点は存在しない。或る平面が見えるようになったとする。その途端、もう別の平面を目指して掘り進もうとする欲望で満ちている。

 

「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫 二〇一八年)

 

或る平面を知ることができた。すると瞬く間もなく或る平面は次の平面への<誘惑>へと姿を変えている。もぐらやみみずなら知っている場所で留まることが人間にはできない。人間は、ただ単に生まれてきたままの姿では、周囲の自然環境に適応することができない。そこで労働し周囲の環境を自分自身の姿に合わせて適応させることを覚えた。そしてだんだん時間をかけて自然と人間との間で世界を順調に還流させる相互作用が出来上がってきた。しかし「さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」という欲望に取り憑かれた人々は、少なくとも日本がその実験場と化しているように、東日本大震災にもかかわらず「電力逼迫」を口実としてまたしても原発再稼働再延長を夢見ている。いずれ訪れるに違いない自分たちの「華々しい死」を夢見ている。