ヴァイオリン奏者としてのモレルの野望はひと際目立つ。だがそれにも増して注目したいのは、モレルの人格が、両極に分裂した一方から他方へ行き来する際の反復の激しさである。<充足への意志>と<空っぽへの意志>との両極へ何度も繰り返し行ったり来たりすることを止めない。その傾向が最も端的に現われるのは貨幣に関して。
たまたま大金を持っている時はたちまち散財したくてたまらなくなる。その一方、所持金が底をついてすっからかんになるとすぐ誰か知人をあてにしてかなり高額な借金をつくる。借金である以上、返済しなくてはならないのだが、あれよという間もなくすっかり使い切ってしまうばかりか、使い切ってしまわなくては申し訳ないような気さえしてくるらしい。一見すると矛盾に見えるが矛盾という言い方は誤解を招くだろう。今の医療の世界で徐々にわかってきたことだが、とりわけ「摂食障害」と呼ばれるケースの循環型に相当すると思われる。
突然激しい食欲に襲われ真夜中のコンビニに駆け込み買えるだけの食品を買い込む。例えばその中に食パン一斤丸ごと入れておくが、食パン一斤程度なら帰宅するまでに食べ切ってしまう。帰宅後すぐ今度はスナック菓子やカップラーメンなどをつまみながらカレーを作り始める。そのカレーも食べ終わる頃、ほんのいっときだが充足感に満たされる。精神的には満たされるけれども、それも束の間、しばらくすると指を喉に突っ込んだり下剤を用いて全部トイレで吐き出さずにはいられなくなるほどの不快感に襲われる。そこで全部吐き出すと今度は体の中がすっからかんになった状態が精神的な快感をもたらす。目まぐるしく置き換えられる躁鬱状態に似た反復強迫的な繰り返しが顕著に見られる。
とりわけ貨幣の取り扱い方についてモレルの言動を見ると、このような<充足への意志>と<空っぽへの意志>との両極へ分裂した激しい反復傾向を思わせないわけにはいかない。ブロックとの貸借関係についてプルーストは次のように述べている。
「というわけでモレルはバルベックで、『仕事』のことで話があるとは言わずブロックに紹介してほしいと私に頼んできたが、そのブロックは、ほかでもない一週間前に路面(トラム)のなかでひどく不愉快な態度を示した相手だった。ブロックはためらうことなくモレルに五千フランをーーー正確に言えばニッシム・ベルナール氏に用立てさせてーーー貸してやった。この日からモレルはブロックが大好きになった。命の恩人にどのようにお礼をしたらいいのかと涙を浮かべて自問したりもした。結局、私がモレルのためにシャルリュス氏に頼みこむ役目を引き受け、氏から月々千フランを出してもらい、その金をモレルがただちにブロックに支払って早く完済できる手筈になった。最初の月、ブロックの厚意がいまだ身に沁みていたモレルは、すぐさまブロックに千フランを送ったが、そのあと、おそらく残りの四千フランをべつに使ったほうが楽しいと思ったのだろう、さかんにブロックの悪口を言いだした。ブロックの顔を見るだけで気が滅入ると言い、ブロックが自分でもモレルに貸した正確な金額を忘れてしまい、四千フランではなく三千五百フランを請求したので、ヴァイオリン奏者には五百フランの得になるはずだったが、モレルはこのような虚偽を見せつけられてはびた一文たりとも払わない、そればかりか貸し手は告訴されないのをありがたく思うべきだ、と答えたくなった。そのことばを口にしながらモレルの目はらんらんと燃えていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.117~118」岩波文庫 二〇一六年)
貸借関係をめぐってモレルが取り憑かれている怪物的観念はニーチェの指摘そのものの再演ででもあるかのように思える。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)
だからといってプルーストは貨幣論を論じているわけではまるでない。ところがなぜか貨幣論独特の経過が書き込まれている。二点ほど。モレルがブロックから五千フランを借りる場合(1)「ニッシム・ベルナール」を介している点。モレルがブロックへ五千フランを返す場合(2)「私がモレルのためにシャルリュス」を介している点。どんな商品であれ貨幣を介さずに或る場所から他の場所へ移動させることはできない。もっとも、モレルの心情は商品ではない。にもかかわらず貨幣を介する場合に限り、ようやく変化する心情でしかあり得ない。その意味でモレルの心情はあらかじめ商品化され、商品同様に取り扱うことのできる極めてありふれた心情に過ぎないと言える。モレルの即物性はそこにある。というのも、即物的な存在に徹していて始めて、いとも容易にシャルリュスに買収されることができるからである。しかし「失われた時を求めて」をただ単なる物語(ストーリー)として古典的な見方をしている人々にはそれが即物性ではなく俗物性に映って見えてしまうことが今なおよくあることは時折り指摘されている通りだろう。
またシャルリュスの立場に立つと遥か高みからモレルが見えるため、シャルリュスから見たモレルの心情はルンペン・プロレタリアートの心情と何一つ違わない。欲しいだけ貨幣を与えてやればいついかなる時にでも自分の思い通りに動かすことのできる便利な「もの」に他ならない。「もの」呼ばわりは少し前の箇所ですでに出てきているが、それはモレルとジュピアンの姪との結婚が成立すればほどなく、モレルと自分との同性愛関係についてジュピアンの姪の知るところとなり、二人の夫婦生活をいきなり引き裂き快楽をむさぼるための準備に過ぎない。
なおモレルはブロックから借りた金を返済するにあたり、返済すべき金額を額面通り用立てることができないため逆にブロックを恨むようになったわけではない、という点は大変興味深い。借金五千フランのうちモレルは千フランを返した。ところがそこで「ブロックが自分でもモレルに貸した正確な金額を忘れてしまい、四千フランではなく三千五百フランを請求したので、ヴァイオリン奏者には五百フランの得になるはずだったが、モレルはこのような虚偽を見せつけられてはびた一文たりとも払わない、そればかりか貸し手は告訴されないのをありがたく思うべきだ、と答えたくなった」。
ブロックは「四千フランではなく三千五百フランを請求したので、ヴァイオリン奏者には五百フランの得になるはずだった」。ゆえに、いくらいい加減だとはいえモレルは単純な損得勘定でブロックを誹謗中傷し出したわけではない。得になることがわかっていても誹謗する。だから得になろうが損になろうがそんなことはどうでもよく、重要なのは<額面が違う>ということ自体が「虚偽」であることなのだ。そしてそんな「虚偽を見せつけられ」たことを堂々たる理由として「モレルの目はらんらんと燃え」るのである。
そんなふうに真剣さと滑稽さとの両方を孕みつつモレルのトランス(横断的)両性愛はシャルリュスによってますます厳重な管理下に置かれることになる。<私>はその成り行きを<覗き見>できる立場である。しかし忘れてならないのはアルベルチーヌのトランス(横断的)両性愛の行方だろう。アルベルチーヌの生涯はモレルとは全然異なる経緯をたどることになる。
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