二度目のバルベック滞在はローカル鉄道を舞台として変化に富む様々な体験を<私>に与えた。アルベルチーヌがトランス(横断的)両性愛者だと知ったのもその時だ。と同時に<私>はアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>することに決めた。アルベルチーヌのゴモラ(女性同性愛)の欲望を阻止するためだ。そして差し当たり<幽閉・覗き見・監視>は成功している。「いまや私はどれほど思う存分にアルベルチーヌをわがものにしていることだう!」と。愛人を所有するため厳重な監視下に置くことで怠惰な夢に耽って満足している<私>。例えば朝の陽光にまどろみながら「鐘の音」を聞く。「鐘の音」は一つである。しかし「その響きの聞こえる範囲に、あたりが湿っているか光っているかを示す最新の表示板をじつに力強く提示してくれるので、まるで雨の魅力なり太陽の魅力なりを目の見えない人のために翻訳してくれている、というと語弊があるなら、音楽的に翻訳してくれているようであった」。或る方法で得られる悦びを別の方法へ置き換えて伝えることは可能だと知る。「すべては置き換えが可能で、聴覚だけの世界もやはり目に見える世界と同じように多様なものでありうると考えたのである」。<私>はあらゆるものの<多様性>を謳歌している。
「そのころと比べれば、いまや私はどれほど思う存分にアルベルチーヌをわがものにしていることだう!日によっては時を告げる鐘の音が、その響きの聞こえる範囲に、あたりが湿っているか光っているかを示す最新の表示板をじつに力強く提示してくれるので、まるで雨の魅力なり太陽の魅力なりを目の見えない人のために翻訳してくれている、というと語弊があるなら、音楽的に翻訳してくれているようであった。それゆえ私はそのとき、ベッドのなかで目を閉じたまま、すべては置き換えが可能で、聴覚だけの世界もやはり目に見える世界と同じように多様なものでありうると考えたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.181~182」岩波文庫 二〇一六年)
それがわかっているにもかかわらず、というより、もはや否定の余地なくわかっているがゆえに、なおのことアルベルチーヌの性的多様性について、ますます我慢のならないものに変容して見える。いつだったか、バルベックのグランドホテルの従業員がアルベルチーヌについて述べたほんの一言、「行儀の悪い女」、というたった一言。それはどういう意味で語られたものなのか。次の疑惑へただちに接続される。
「アルベルチーヌはきっと女友だちといっしょだったのだ、ことによるとふたりして腰に手をまわしあい、ほかの女たちをじっと見つめ、実際こっちの面前ではついぞアルベルチーヌに見かけたことのない『振る舞い』をしていたのかもしれない。その女友だちとは誰なのか?」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.183」岩波文庫 二〇一六年)
読者は思う。また始まったかと。何度繰り返せば気が済むのかと。<私>の嫉妬という厄介な病気は。
次の箇所では二つのことが同時に述べられている。(1)「新たな疑念から生じたものだから、私が見舞われた嫉妬の発作も新しいものだった」こと。(2)「この発作はくだんの疑念の延長、拡張にほかならないと言うべきかもしれない」。
「私はもはやヴァントゥイユ嬢のことなど考えていなかった。新たな疑念から生じたものだから、私が見舞われた嫉妬の発作も新しいものだった、というよりも、この発作はくだんの疑念の延長、拡張にほかならないと言うべきかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.184」岩波文庫 二〇一六年)
二分割して考えることは十分可能である。しかし二分割できるということ自体が、プルーストのいう通り、そもそも<接続・切断・再接続>を前提としている。
「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)
しかしなぜ「絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」ということが起こるのか。ニーチェはいう。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)
錯覚なしに生きられない。とすればニーチェ流にいえば、人間は<錯覚への意志>でもある。常に勘違いを目指してばかりいる<誤謬への意志>、<私>という大いなる狂気を徹底的に味わい尽くすためならどこまでも貪欲に生きていくことを選ぶ<末人>にほかならないと言うこともまた十分可能なのだ。