白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<幽閉・覗き見・監視>としての<私>はあらゆるものの<多様性>を謳歌する

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二度目のバルベック滞在はローカル鉄道を舞台として変化に富む様々な体験を<私>に与えた。アルベルチーヌがトランス(横断的)両性愛者だと知ったのもその時だ。と同時に<私>はアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>することに決めた。アルベルチーヌのゴモラ(女性同性愛)の欲望を阻止するためだ。そして差し当たり<幽閉・覗き見・監視>は成功している。「いまや私はどれほど思う存分にアルベルチーヌをわがものにしていることだう!」と。愛人を所有するため厳重な監視下に置くことで怠惰な夢に耽って満足している<私>。例えば朝の陽光にまどろみながら「鐘の音」を聞く。「鐘の音」は一つである。しかし「その響きの聞こえる範囲に、あたりが湿っているか光っているかを示す最新の表示板をじつに力強く提示してくれるので、まるで雨の魅力なり太陽の魅力なりを目の見えない人のために翻訳してくれている、というと語弊があるなら、音楽的に翻訳してくれているようであった」。或る方法で得られる悦びを別の方法へ置き換えて伝えることは可能だと知る。「すべては置き換えが可能で、聴覚だけの世界もやはり目に見える世界と同じように多様なものでありうると考えたのである」。<私>はあらゆるものの<多様性>を謳歌している。

 

「そのころと比べれば、いまや私はどれほど思う存分にアルベルチーヌをわがものにしていることだう!日によっては時を告げる鐘の音が、その響きの聞こえる範囲に、あたりが湿っているか光っているかを示す最新の表示板をじつに力強く提示してくれるので、まるで雨の魅力なり太陽の魅力なりを目の見えない人のために翻訳してくれている、というと語弊があるなら、音楽的に翻訳してくれているようであった。それゆえ私はそのとき、ベッドのなかで目を閉じたまま、すべては置き換えが可能で、聴覚だけの世界もやはり目に見える世界と同じように多様なものでありうると考えたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.181~182」岩波文庫 二〇一六年)

 

それがわかっているにもかかわらず、というより、もはや否定の余地なくわかっているがゆえに、なおのことアルベルチーヌの性的多様性について、ますます我慢のならないものに変容して見える。いつだったか、バルベックのグランドホテルの従業員がアルベルチーヌについて述べたほんの一言、「行儀の悪い女」、というたった一言。それはどういう意味で語られたものなのか。次の疑惑へただちに接続される。

 

「アルベルチーヌはきっと女友だちといっしょだったのだ、ことによるとふたりして腰に手をまわしあい、ほかの女たちをじっと見つめ、実際こっちの面前ではついぞアルベルチーヌに見かけたことのない『振る舞い』をしていたのかもしれない。その女友だちとは誰なのか?」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.183」岩波文庫 二〇一六年)

 

読者は思う。また始まったかと。何度繰り返せば気が済むのかと。<私>の嫉妬という厄介な病気は。

 

次の箇所では二つのことが同時に述べられている。(1)「新たな疑念から生じたものだから、私が見舞われた嫉妬の発作も新しいものだった」こと。(2)「この発作はくだんの疑念の延長、拡張にほかならないと言うべきかもしれない」。

 

「私はもはやヴァントゥイユ嬢のことなど考えていなかった。新たな疑念から生じたものだから、私が見舞われた嫉妬の発作も新しいものだった、というよりも、この発作はくだんの疑念の延長、拡張にほかならないと言うべきかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.184」岩波文庫 二〇一六年)

 

二分割して考えることは十分可能である。しかし二分割できるということ自体が、プルーストのいう通り、そもそも<接続・切断・再接続>を前提としている。

 

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

 

しかしなぜ「絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」ということが起こるのか。ニーチェはいう。

 

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

錯覚なしに生きられない。とすればニーチェ流にいえば、人間は<錯覚への意志>でもある。常に勘違いを目指してばかりいる<誤謬への意志>、<私>という大いなる狂気を徹底的に味わい尽くすためならどこまでも貪欲に生きていくことを選ぶ<末人>にほかならないと言うこともまた十分可能なのだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて108

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。大津市の気象予報は日の出前から日の出後にかけて曇り。湿度は6時で84パーセント。9時で65パーセントの予定。5時台にはまだ雨がぽつぽつしていました。さてどんな風景を見ることができるのでしょう。ともかく歩いてみました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

二〇二二年十一月三十日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<私>とアルベルチーヌとの恋愛が常に新しい理由/私にとっては毎日がそれこそ異国であった

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>とアルベルチーヌとの恋愛関係は、もうこれで終わりかと思われたその瞬間、新しく始まる。

 

しかし<私>とアルベルチーヌとのような恋愛でない関係の場合、だから逆の場合、世界の至るところで何百万何千万という人々が日夜経験している恋愛ならもっとわかりやすい経過をたどる。或る程度の期間を共に過ごしていると互いに互いの許しがたい人格が見えてくるだけでなく、一つの身体の中に無数の人格がひしめき合っていることにも気づくほかない。すると次第に互いが互いに対して嫌でも順応し合ったり譲り合ったりしないわけにはいかなくなる。最初は至高のものに思われた恋愛が条件付きの恋愛に変わる。我慢が必要になるわけだが、どんな我慢にも限界というものがやって来る。そうこうしているうちに一刻も早く別れてしまわないと自分が死ぬか相手が死ぬか、あるいは子供がいる場合子供を道連れに心中してしまうか、いずれかという深淵のすぐそばまで達してしまっていることはしばしばあるし見かけもする。

 

ところが<私>とアルベルチーヌとの恋愛はそのような経過を経ない。もうこれで終わりかと思われたその瞬間、新しく始まる。なぜだろう。プルーストは書いている。「私にとっては毎日がそれこそ異国であった」。

 

「私はアルベルチーヌに、いっしょに出かけなければ仕事にとりかかる、と約束していた。ところが翌日になると、ふたりが眠っているのに乗じて家がまるで魔法の旅にでも出たかのように、私はべつの天気、異なる気候のもとで目を覚ました。新しい国に上陸したときには仕事など手につかない。そこの環境に順応しなければならないからだ。ところが私にとっては毎日がそれこそ異国であった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.177」岩波文庫 二〇一六年)

 

アルベルチーヌとの関係が不穏になる時は一日のうちに何度もある。ところが<私>は翌日になると<或る生活様式>から<別の生活様式>へ変動している。アルベルチーヌが変わらなくても<私>は変わり、<私>が変わらなくてもアルベルチーヌは変わる。だが往々にして両者ともに変わっている。アルベルチーヌの無限の変容だけでなく「私の変動指数」をも考えに入れなければならないとプルーストが書いている通りだ。

 

次の箇所でプルーストは「私の怠け癖」を前提とし、その都度新しく鮮度を更新した精神状態がどのように出現するかについて列挙している。(1)「あるときは回復の見込みなしと言われるような悪天候の日々でも、しとしと振りつづく雨に家のなかに閉じこめられているだけで、船旅さながらの興趣をそそられ、滑るような心地よさ、心安らぐ静寂が味わえる」。(2)「べつのときはよく晴れた日で、ベッドにじっと寝ていると、気の幹がするように自分の周囲にぐるりと影をめぐらした気分になる」。(3)「さらにべつのときは、近隣の修道院から最初の鐘の音が聞こえてくると、そのまばらな音は早起きの信心ぶかい女たちを想わせ、暗い空をかすかに白く染めて降りそそぐ不安定なあられのようなその音が、なま温かい風に溶けて吹き散らされると、すでに荒れ模様で、波乱含みの、心地よい一日のはじまりが感じられ、そんな日の屋根は、ときおり驟雨(しゅうう)に濡れても、ひと吹きの風やひと筋の光がそれを乾かしてくれるあいだ、雨の滴(しずく)をハトの声のようにくうくうとしたたらせ、風向きがふたたび変わるまで、虹色をもたらす束の間の陽光をあびて、ハトの胸のごとく玉虫色に映えるスレートを羽繕いしたように輝かせる」。

 

「私の怠け癖にしても、そのつど新たな様相をまとってあらわれると、どうして私にそれが怠け癖だと認められるだろう?あるときは回復の見込みなしと言われるような悪天候の日々でも、しとしと振りつづく雨に家のなかに閉じこめられているだけで、船旅さながらの興趣をそそられ、滑るような心地よさ、心安らぐ静寂が味わえる。べつのときはよく晴れた日で、ベッドにじっと寝ていると、気の幹がするように自分の周囲にぐるりと影をめぐらした気分になる。さらにべつのときは、近隣の修道院から最初の鐘の音が聞こえてくると、そのまばらな音は早起きの信心ぶかい女たちを想わせ、暗い空をかすかに白く染めて降りそそぐ不安定なあられのようなその音が、なま温かい風に溶けて吹き散らされると、すでに荒れ模様で、波乱含みの、心地よい一日のはじまりが感じられ、そんな日の屋根は、ときおり驟雨(しゅうう)に濡れても、ひと吹きの風やひと筋の光がそれを乾かしてくれるあいだ、雨の滴(しずく)をハトの声のようにくうくうとしたたらせ、風向きがふたたび変わるまで、虹色をもたらす束の間の陽光をあびて、ハトの胸のごとく玉虫色に映えるスレートを羽繕いしたように輝かせる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.177~178」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>は眠っている間に変容したわけではない。逆に目覚めた時に感性が瞬時に受け止める状況、(1)「回復の見込みなしと言われるような悪天候」が「船旅さながらの興趣をそそられ、滑るような心地よさ、心安らぐ静寂」へ変換される場合。(2)「よく晴れた日で、ベッドにじっと寝ている」ことが「気の幹がするように自分の周囲にぐるりと影をめぐらした気分」へ変換される場合。(3)「近隣の修道院から最初の鐘の音が聞こえてくると、そのまばらな音は早起きの信心ぶかい女たちを想わせ、暗い空をかすかに白く染めて降りそそぐ不安定なあられのようなその音が、なま温かい風に溶けて吹き散らされる」ことで「すでに荒れ模様で、波乱含みの、心地よい一日のはじまりが感じられ」て「そんな日の屋根は」、そんな「波乱含み」ゆえに、「風向きがふたたび変わるまで、虹色をもたらす束の間の陽光をあびて、ハトの胸のごとく玉虫色に映えるスレートを羽繕いしたように輝かせる」よう次々変換されていく場合。<私>はそれらのいずれもを生きる。ただ単に生きているだけでなく<変換という生成変化>を遂げている。<常に生成変化して止まない私>ということが、<私>とアルベルチーヌとの終わりかけた恋愛関係を、まったく新しい恋愛関係の出現へ価値移動させるのだ。

 

プルーストは怠惰のうちにひそむパラドックスを上げる。「このような日には天気がめまぐるしく変わり、大気にもささやかな異変が生じて雷雨にも見舞われるおかげで、怠け者といえどもその日を無駄にしたと思わないですむ」。しかし「その日を無駄にしたと思わないですむ」のはなぜか。「大気が、自分を抜きに、いわば自分に代わってくり広げてくれた活動に興味をそそられたからである」。また、「このような日に似ているのは暴動や戦争のときで、そんな時間は学校を休んだ小中学生にとっても空疎なものとは思われない」。なぜそう思えるのか。「裁判所の周囲を見たり新聞を読んだりすれば、やるべき勉強をしなかったかわりに、発生した事件のなかに知性も豊かになり怠けた言い訳にもなるものが見出せる気がするからである」。

 

「このような日には天気がめまぐるしく変わり、大気にもささやかな異変が生じて雷雨にも見舞われるおかげで、怠け者といえどもその日を無駄にしたと思わないですむ。というのも大気が、自分を抜きに、いわば自分に代わってくり広げてくれた活動に興味をそそられたからである。このような日に似ているのは暴動や戦争のときで、そんな時間は学校を休んだ小中学生にとっても空疎なものとは思われない。というのも、裁判所の周囲を見たり新聞を読んだりすれば、やるべき勉強をしなかったかわりに、発生した事件のなかに知性も豊かになり怠けた言い訳にもなるものが見出せる気がするからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.178~179」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>はアルベルチーヌを他の女性と置き換えるのではなく、<私>とアルベルチーヌとを取り巻くあらゆる環境変化に対して、感性の次元で機敏に反応することによって、価値変動を起こした新しい恋愛関係を見出すことに成功していたのだ。