プルーストは引き続きモレルについて述べているように見える。文章も改行されていないのでほとんど誰でもそう思う。ところがこの箇所は貨幣交換をめぐって書かれているという点で、モレルは人格化された「もの」へと間違いなく変容している。するとたちまち当時のヨーロッパを覆い尽くしかけていた資本主義、とりわけ「ユダヤ支持/反ユダヤ支持」という二者択一が前景におどり出る。少なくとも十九世紀末から第一次世界大戦終結の時期にかけて、そう読むより他なかったのではと思われる。
一方の極から他方の極への急激な移動を何度も繰り返して止まないモレルの極端な分裂性。ブロックの書いた借金返済督促状に一つの「虚偽」を見つけたモレルはもはや何ら<負い目>を感じる必要性はなくなったと頑固に信じて疑っていない。ブロックの請求書を額面通り受け取るとモレルにとって「五百フランの得になる」にもかかわらず<数字が違う>という一点において、その限りで、「虚偽」だと言い張ることは十分可能である。一度そういう可能性を見出したモレルは返済すべき残りの四千フランすべてについてもなお、契約自体がもはや無に帰したと堂々と主張する。
だからといってプルーストは「所詮、金の問題」だと言っているわけではない。「問題は貨幣」だと言っている。こうある。「モレルにあって反ユダヤ主義は、ひとりのイスラエルの民から五千フランを借りたことの必然の結果だった」。
「おまけにモレルは、ブロックとニッシム・ベルナール氏は自分を恨むいわれはないと言うだけでは飽き足らず、やがて、こちらから恨まれなくてありがたいと言明すべきだとまで言いだした。最後に、ニッシム・ベルナール氏がチボーもモレルに劣らぬ名手だと公言したことを聞きつけ、モレルは、そのような発言は自分の職業を妨害するものだから提訴して闘わねばならぬと考え、ついで、フランスではとくにユダヤ人を罰する裁判はもはや存在しないからと(モレルにあって反ユダヤ主義は、ひとりのイスラエルの民から五千フランを借りたことの必然の結果だった)、弾をこめた拳銃を携行せずには外出しなくなった。熱烈な愛情のあとに生じるこうした神経症状は、やがてチョッキの仕立屋の姪にかんしてもモレルの心に生じることになる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.118」岩波文庫 二〇一六年)
モレルは以後、「弾をこめた拳銃を携行せずには外出しなくなった」。安易すぎるだろうか。では言い方を変えてみよう。帝国主義の時代だと。それも剥き出しの帝国主義なのだが、剥き出しになっているのは創生期の資本主義と重なるがゆえ、先進諸国は先を争って植民地獲得戦争にのめり込んでいくばかりだった。国内外で支持派と異論・反論派との闘争が勃発し、どこからどう見ても国家的暴力の噴出を見ないでは済まなくなってきていた。この箇所では、なるほど相異なる両極への分裂の繰り返しはモレル一人に負わされているかのように見える。支離滅裂さはモレル一人が背負っているかのように思えて仕方がない。しかし少し前の箇所でプルーストはモレルのことをはっきり「もの」だと書いているように、モレルはあくまで人格化された「もの」なのであって、この「もの」性、労働力商品としての<もの性>に着目すべきなのだ。モレルは<或るもの>から<別のもの>へ限りなく変容する。そうして始めて「熱烈な愛情のあとに生じるこうした神経症状は、やがてチョッキの仕立屋の姪にかんしてもモレルの心に生じることになる」という事態がどういうことなのかだんだん見えてくる。
モレルとチョッキの仕立屋(ジュピアン)の姪との結婚の悲惨さは目を覆うほど無惨ではある。だがなぜプルーストはこの二人にそういう経過をたどるよう刻印したのか。ちなみにプルーストは資本主義を弾劾しようとしてそう書いたわけではない。モレルの言動の支離滅裂さを資本主義の支離滅裂さの無意識的な部分として可視化したというわけでもまたない。資本主義の支離滅裂さをもっと洗練された言葉に置き換えると、資本主義独特の<脱中心化>の諸運動として述べることができる。そして始めてモレルは人格化された「もの」として<脱中心化>を生きる。なおしかし、モレル夫婦に襲いかかる悲惨さへたどり着くまでプルーストは随分あいだを設ける。じわじわ、くねくね、二重三重に脱線しつつ描く。さらにいえば脱線に見えるのは、ただ、モレルを中心に据えて見た場合に限ってのことでしかない。そもそも<私>とアルベルチーヌとの関係はどうなっているのか、どうなっていくのか、その点こそ中心ではなかったかと問われれば改めてそうだったと思い返さざるを得ないような<脱中心化>の諸運動が無数に押し寄せてくる。
或る身振り(振る舞い・記号)が発せられるや立錐の余地もないくらい次々と別のエピソードが呼び寄せられ呼び集められ、終わりという意味ではもはや無期延期的な条件ばかりが出揃っていく。すると「その点こそ中心ではなかったか」という問いは消滅する。前提として<中心>というものがもうどこにもないからだ。そして<貨幣交換>と<契約としての言語交換>とが並列しつつ世界を支配する形態がますます強固に準備されていく。作品は<時間>の作用とは何かを直接問うわけではない。<何か>というより、<時間>の作用そのものを記述し続けていくばかりであり、むしろプルーストは、そうする。どこまでも延長される<脱中心化>はその都度新しい<身振り・エピソード>のモザイク様を呈していく。
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