白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて101

2022年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

今朝は浜辺で日の出の様子を撮ってきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.24)

 

二〇二二年十一月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・現在と過去とを共鳴・共振させる<力としてのアルベルチーヌ>と<私>の「変動指標」

2022年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

<力としてのアルベルチーヌ>=<固定不可能性としてのアルベルチーヌ>。見た目ばかりは一つの身体であっても人格は諸商品の無限の系列を描き出しつつ次々と立ち現れる。ニーチェとマルクスとから引いて述べた。とはいえ当たり前といえばこれほど当たり前の事態もそうないだろうと思えるありふれた現実でしかないとも言える。恋愛関係ではそのような傾向が極めて突出した形で出現し、自分自身もそうと認めるほかないというほどよくあることに過ぎないとさえ言えるだろう。愛と嫉妬とは切り離せない。記憶の中から恋愛に関する或る断片だけに限って切り離し取り出してくることはできるが、切り離し取り出してくるや、その断片に含まれている嫉妬の苦痛も立ちどころに<私>を襲う。現在と過去とが共鳴・共振する。

 

さらに次の箇所を引いた。「私の心に刻一刻と相ついで浮かんだ数えきれない一連の想像上のアルベルチーヌのなかで、浜辺で見かけた現実のアルベルチーヌは、その先頭に姿をあらわしているにすぎない。芝居の長期間の講演中、ある役の『初演女優』である花形は、最初の数日にしか出ないのと同じようなものである。この現実のアルベルチーヌはほんのシルエットにすぎず、そのうえに積み重ねられたいっさいは私のつくりだしたものである」と。そこでこの「積み重ねられたいっさいは私のつくりだしたものである」という点についてプルーストは、些細な違いだとはいえ明確に区別しておかねばならない条件についてこう述べる。常に変容するのはアルベルチーヌだけではなく、アルベルチーヌを見ている<私>もまたそうだという事情である。

 

「というのも、たとえわれわれがしきりに夢見たあげく、緑色をおびた背景に浮かびあがるベノッツォ・ゴッツォリの描いたある人物のように単なるイメージとしか思われなくなった人間でも、すなわち相手があれこれ変わるのは、ひとえに相手を見つめるわれわれの視点や、相手とわれわれを隔てる距離や照明の違いが原因だと思いがちなそんな人間でも、その人間がわれわれとの関係において変化するあいだに、じつはその人間自身も変化しているからである。かつて海を背景にさっと輪郭を描いただけのはずのすがたも、豊かさと、堅牢さを加え、ボリュームを増していたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.149」岩波文庫 二〇一六年)

 

プルーストはただ単に見る側の「視点」が変わるために見られる側の姿形が変わって見えるという論理をあっさり退けている。逆にこういう。「相手があれこれ変わるのは、ひとえに相手を見つめるわれわれの視点や、相手とわれわれを隔てる距離や照明の違いが原因だと思いがちなそんな人間でも、その人間がわれわれとの関係において変化するあいだに、じつはその人間自身も変化しているからである」。大変重要な事情だと考えていたに違いない。相手ばかりがころころ変わるわけではまるでなく、逆に相手がどんどんころころ変わって見えることを可能にしている条件として、見る側もまた「変動」しているばかりでなく、その「変動指標をも示すべき」だとすでに述べていた。

 

「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)

 

創造された作品というものは創造という言葉にもかかわらず、どんな作品であれ所詮は諸断片のモザイクに過ぎない。解体しようとすればとことん解体してしまうことができる。けれども問題は、<どんな仕方でテクストしたか>、なのだ。この問題は「反復のなかに斬新な真実を示唆する」ことができるのはなぜかという理由と大いにかかわりがある。同一性の反復だとすれば「反復のなかに斬新な真実」など一つも見出すことはできない。しかし時間はそういう反復を許さない。逆に差異性の反復を繰り返す。ニーチェから二箇所。

 

(1)「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

理解するのはとても容易いと思われる。例えば五百万円の投資が五百一万円になって環流してくるのはなぜか。あるいはびた一文の利子も付け加えず、それどころか五百万円そのものが瞬時に消えてなくなることさえ実にしばしばあるのはなぜか。「《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないこと」だからだ。