シャルリュスの発言は続く。しかしそれはいつものように記号として作用する。「それはなんなのか?」というもったいぶった身振り。<私>は記号作用としてこう接続せざるを得ない。「アルベルチーヌにとって女とは、べつのなんなのか?」。
「『きっとそれがあの連中にとってべつのなにものかであるからだろう。それはなんなのか?』『アルベルチーヌにとって女とは、べつのなんなのか?』私がそう考えたのは、まさに、それこそ私の苦悩だったからだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.270」岩波文庫 二〇一七年)
プルーストが繰り返し指し示す記号作用。時間の作用に気づいた人々は発表当時すでにいた。だが記号作用について気づいた人々となると、おそらく、ほとんどいなかっただろう。いたとしても発言の機会がそもそもなかった。その機会が整ったのは戦後になってようやくのことだ。
<私>=<話者>と定義した上でガタリはいう。
(1)「記号学(セミオロジー)。記号体系を言語活動の諸法則との関係から研究するトランス-言語学的学問領域としてのもの(ロラン・バルトの立場)」(ガタリ「機械状無意識・第1部・第1章・P.19」法政大学出版局 一九九〇年)
(2)「スワンのもとではすべては儀式化される傾向にあったのに対し、《話者》のもとではすべては記号論化される傾向にある」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第2章・P.337」法政大学出版局 一九九〇年)
もっとも、アルベルチーヌは<未知の女>であり続ける。とともに<囚われの女>であり、そうであるものの、とうとう<逃げ去る女>へ移動する。この変身-生成は<未知の女>として登場した時すでに予告されてはいたのだが。
記号作用の観点からいえば、シャルリュスの言葉は<私>にとって常に不意打ちの危険を孕んでいるだけでなく、あらぬ場所を不用意に出現させて<私>を仰天させる言語トリックのようにスリリングだ。そのすべてを丹念に告げ知らせる報告者<私>という伝達機械。そこにすでにプルーストのユーモアは歴然としている。唖然呆然の手際よさ。
「大切なのは、それが自分自身に向けられたものであれ、また他人に向けられたものであれ、ユーモアが持っている意図なのである。いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、それが世の中だ、ずいぶん危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶべきことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。ーーー超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとするということと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しない」(フロイト「ユーモア」『フロイト著作集3・P.411』人文書院 一九六九年)
ユリイカ「エゴン・シーレ特集」。最初の鼎談で古川真宏や河本真里が言及しているラカンとの関連付け。牧瀬英幹はいう。
「『自分で自分を生む』ということは不可能である。そうした関係をトポロジー的に捉えるならば、内部=外部であるようなクラインの壺として表現できるだろう。ここで、ラカンが原抑圧を経た後の欲望の中心穴を巡ってただ要求し続けることしかできない人間の姿をトーラスとして表現するとともに、トーラスが『反転』を含むクラインの壺へと切断を伴いながら変換されることで、主体が自らを人間として規定していく(<他者>の欲望をもとに、自らの主体を立ち上げる)契機が生まれると指摘していること、さらには、筆者が描画を用いた精神分析実践において、そのようなトポロジー的変換の場=不可能な空間を浮かび上がらせ、そこで主体が言語的主体として成立した際に失ったもの=不可能なものとしての対象aと区切りを介して出会い損ねることの治療的意義を見出したことを思い出すならば、このようなシーレの作品制作の傾向と精神分析実践との共通性を認めることができるのである」(牧瀬英幹「エゴン・シーレの病跡学」『ユリイカ・2023・02・P.205~206』青土社 二〇二三年)
シーレの絵画について「ポルノかポルノでないか」論争はもう終わったと了解し前提した上で書かれている。当たり前の態度なのだが改めてラカンを援用する価値は高いと言わねばならない。逆に、ポルノ、それも埃まみれの三文ポルノを「教科書」にしているのはカフカのいうように裁判所の側だ。
「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫 一九九二年)
シーレ論で牧瀬英幹が言う「<他者>の欲望をもとに、自らの主体を立ち上げる」とはどういうことか。ラカンは「鏡像段階」と定義づけた。
「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。
この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします。
重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです。
このように、主体が幻影のなかでその能力を先取りするのは身体の全体的形態によってなのですが、この形態は《ゲシュタルト》としてのみ、すなわち、外在性においてのみ主体に与えられるものであって、そこではたしかにこの形態は構成されるものというより構成するものではありながら、とりわけこの形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体験するところの騒々しい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性のもとであらわれるのです。したがって、この《ゲシュタルト》について言えば、そのプレグナンツは、たとえその運動様式が無視できるにしても、種に関連していると考えなければならないわけで、ーーーその出現のこれら二つの局面によってこのゲシュタルトは、《わたし》の精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示するものです。さらにその《ゲシュタルト》はさまざまの対応をはらんでいますが、これによって、《わたし》は、いわば人間が彼を支配する幻影にみずからを投影する立像と一体化するわけであり、結局は、曖昧な関係のなかで世界がみずからを完成させようとする自動人形と一体化するわけなのです。
じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます。
鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。
《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~129』弘文堂 一九七二年)
牧瀬英幹はこうも述べる。「主体が言語的主体として成立した際に失ったもの=不可能なものとしての対象a」。この理解についてラカンから二箇所。
(1)「欲動がそこで機能するかぎりでの視るという水準には、他のすべての次元において認められるのと同じ対象『a』の機能が見られます。対象『a』とは、主体が自らを構成するために手放した器官としてのなにものかです」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.136」岩波書店 二〇〇〇年)
(2)「新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます。薄片、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係があるなにものかです。それがなぜかは後ですぐにお話ししましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走りまわります。ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと考えてごらんなさい。こんな性質を持ったものと、我われがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。この薄片、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーーー、それはリビドーです。これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押え込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルにしたがっているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象『a』について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。対象『a』はこれの代理、これに姿を与えるものにすぎません。乳房はーーー対象か自分かが曖昧なものとして、哺乳動物に特徴的なもの、たとえば胎盤と同じようにーーー個体がその誕生の時点で失った彼自身の一部、もっとも古い失われた対象を象徴することができるものを表しています。そしてその他の対象についても同じことが言えます」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.263~264」岩波書店 二〇〇〇年)
それにしても重要なのは、近現代の人間が言語獲得過程と交換に失わざるを得なかったものがある、という抜き差しならぬ事情だろう。
「もし、エディプス・コンプレックスがシニフィアンの導入でないと言うのなら、エディプス・コンプレックスということについて何らかの考え方を示していただきたいと思います」(ラカン「精神病・下・14・P.14」岩波書店 一九八七年)
身体の形象獲得から言語獲得過程は「去勢」に他ならない、というただならぬ事情。ゆえに絵画であり音楽であり、要約すれば芸術でなくては、なかなか上手く出現させることが<できない>謎めいた空間がある。それを出現させて見せたほんの僅かな芸術家の一人にエゴン・シーレという名が刻み込まれることとなった。
