白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルースト演出<いかようにも組み換え組み合わせ可能な諸断片からなるパッチワーク>/世紀末ウィーンとトルコ大地震とが呼び出したもの

2023年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

記号学者的でとても小慣れたプルーストの手の動き。その反復運動は注意深く横へ横へと波打ち寄せる。とともに波は必ず寄せては<返す>。大変快適なリズムに乗って手際よく切断・接続を反復する。

 

「バルベックで、アルベルチーヌからヴァントゥイユ家の人たちと親しいことを打ち明けられた直後の夜と同じように、私の深い悲しみを説明できそうなもっともらしい理由、と同時に、アルベルチーヌに深刻な影響をおよぼして私が決心するまで数日の猶予を与えてくれそうな理由を、即刻でっちあげなければならない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.341~342」岩波文庫 二〇一七年)

 

<私>は慌てる。「即刻でっちあげなければならない」。何を。「もっともらしい理由」を。プルーストが言っていること。「もっともらしい理由」というものはいついかなる時でも「即刻でっちあげ」ることができるような何ものかではないだろうか、という言語への問いであり、そもそも言語というものはてんでばらばらに解体されるだけでなく、いかようにも組み換え組み合わせ可能な諸断片からなるパッチワークに過ぎないのではないか、というわけだ。そうでなければ新しい作品を開始することなどはじめからできるわけがない。ありふれた事情ではあるにせよ。

 

さて「エゴン・シーレ特集」。つい先日起きたトルコ大地震。世紀末ウィーンと同様、戦争とパンデミックとのもとで、という共通項が再びあんぐり口を開けた。自然災害としてだけでなく人災面での構造要因、政治的重層的複合災害とでもいうべき諸問題が幾重にも打ち重なって立ち現れてきたようだ。日本の東日本大震災の場合、時間の経過とともに忘れ去られようとしている諸問題について、不意打ち的に叩き起こし引っ張り出してくる契機になった。といっても、差し当たり日本列島が地震大国だということだけではない。はたと思いついたことがある。トルコという国の名に関してだ。中上健次から。

 

「四方を海に取り囲まれ、遊郭は、自然に出来た塀の中にある。人工的な塀なら、外は見えないかもしれないが、自然の海の塀なら、そこから串本が見え、潮岬(しおのみさき)のある岬の町が見え、すこし行けば古座が見える。すぐ後ろは、隠国の山々が、日を浴びて白く光っている。海に取り囲まれている事が物狂おしい。いや、違うと思った。親たちの借銭のために売られ、性を知った女郎らは、その自然を呼吸し、その自然に同化し、性という自然と反自然の溶け合うもので、男らを籠絡(ろうらく)しようとしたはずだった。島は女陰のようにある、と思った。そして、気づいた。串本節ならぬ大島節は、籠絡された男らの歌である。女郎、遊女という陰の女らへの恋歌である。この陰をふまえて、大島はある。大島には、いまひとつハヤシ言葉がある。

 

おおしま オバハギ 樫野(かしの) カイクイ 須江(すえ)の スエメシクイ

 

オバハギとは、気を許し合った間柄の女性からもはぎとるあざとさ。クイカイとは、貝やかゆばかり食っている半農半漁のくらし。スエメシクイは、すえためしを食う貧しさ。女は海にもぐって、めしを思案する暇もない。ハヤシ言葉は、島の生活を集約している。その樫野の燈台(とうだい)は、白く小さく、さながら女と、身投げでもしようか、と海を見て立っている姿に見える。そこから紀伊半島の東南部がみえ、女郎が、借銭に困って売られてきた新宮の方、尾鷲の方を、見ている気がした。常緑の椿の葉に柔らかい日が当たり、何度みてもエロチックに見える。メジロが燈台の崖(がけ)の木に遊んでいた。その樫野の燈台そばにトルコ軍艦遭難記念碑があった」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・紀伊半島・P.60~61」角川文庫 一九八〇年)

 

さらに少しずつではあるものの、暇をみては文庫本をひろげるくらいしか出来ない不自由な身にとって、今の日本の首相の言葉、日本の家族観についてのそれは、ただちにこう接続されるほかない。「日本の伝統」において中心的なもの。「詞(ことのは)の国」。「日本的」とはどういうことなのだろう。中上はいう。

 

「被差別部落という日本的な共同体」。

 

中上健次が「詞(ことのは)の国」という言葉に立ち入るとき、なんの留保も一切なしに一気に滑り込んでくる思考がある。

 

「この伊勢で居た間中、私が考えつづけ、自分がまるで写真機のフィルムでもあるかのように感光しようと思ったのは、日本的自然の粋でもある神道と天皇の事だった。いや、ここでは、乱暴に言葉を使って、右翼と言ってみる。伊勢市にはいり、模造花をたくさんつけて走り廻るバスやタレ幕のことごとくが神社に関する事ばかりだったのを見て、私は突飛な発想かも知れぬが、この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての『右翼』ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統(すめ)らぎであるという天皇に収斂(しゅうれん)されてしまう感性の事である。唯心とでも言い直そうか。車で走り廻り、市役所横の喫茶店に入って、その右翼(唯心)を考えた。三島由紀夫と言えばわかり易すぎる。武田泰淳、生きている敬愛する作家を思いつくと、深沢七郎。『風流夢潭』を書く深沢氏に一種幻視としての右翼を見るというのは、私が偏向しすぎているかもしれないが、たとえばここで検証するいとまもなしに言うと、屁(へ)のように生まれ屁のように死ぬ人物らは、この天皇というものがある故に『屁のように』という形容が成り立つのではないだろうか。そしていまひとつ、ここに、差別、被差別という回路をつないでみる。あるいは被差別は差別者を差別する、というテーゼをつなげてみる。ということは私が言う右翼の感性は、日本的自然の粋である天皇こそが差別者であり同時に被差別者だということを知った者の言葉の働きである。いやここでは、私は自分を右翼的感性の持ち主である、と思ったと言えば済む事かもしれない。私と三島由紀夫との違いは、言葉にして『天皇』と言わぬことである。あるいは深沢七郎との違いは、『風流夢潭』を書かぬことである。『天皇』と一言言えば、この詞(ことのは)の国の小説家である私の矛盾の一切もまた消えるはずである。私の使う言葉は出所来歴が定かになる」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・伊勢・P.187~188」角川文庫 一九八〇年)

 

中上健次の大きな影響下にあった日本文学とその周辺。あの時期、その暴風と向き合わずにいられた作家はただの一人もいない。「詞(ことのは)の国」で<日本語を用いるとはどういうことか>。この問いと向き合った作家の一人、赤坂真理はいう。

 

「<明治維新>だって言われればたしかに<レストレーション>であって、<王政復古の大号令>というのがあったけれど、そのことと明治維新はうまくつながっていなかった。言われてみれば明らかにそれは<復古>なのだけれど、私はなんとなく<革命>だというふうに思ってきていて、<レストレーション>と言われるとびっくりしてしまう。英語のほうが本質を掴んでいる。<維新>と呼んだことでわからなくしていたことだって、私たちには多かったのだ。漢字は日本人にとって一種のブラックボックスになっている。わかった気になるだけで、本当はわかっていない」(赤坂真理「東京プリズン・最終章・P.441」河出文庫 二〇一四年)

 

<維新>という漢字を用いた政治的手品。天皇をかつぎ出してきて誰よりもまず、かつぎ出してきた人間たちがその前で恐れ慄き、うやうやしくひざまづいて見せる。天皇はこの時まさしく「機械装置」として取り扱われたのであり「天皇システム論」はその点で正しい。坂口安吾はいう。

 

「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。ーーー藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒瀆の限りをつくしていた」(坂口安吾「続堕落論」『坂口安吾全集14・P.586~588』ちくま文庫 一九九〇年)

 

だからといって赤坂は、英語が優れていると言いたいわけではまるでない。あくまで、「詞(ことのは)の国」で<日本語を用いるとはどういうことか>という問いと向き合う、途方もなく困難な作業への取り組みを通して小説の可能性を拡張することに成功した。<神>とは何か。作品の中でイエス・キリストについて逆に問われた人々はいっせいに大ブーイングで応じ、議論を煙に巻こうと必死になる。主人公は思う。

 

「世界一合理的な人たちが、そろって奥底では究極の不合理を信じているようにしか見えなかった」(赤坂真理「東京プリズン・最終章・P.441」河出文庫 二〇一四年)

 

こうして時間は巻き戻されるほかない。一度でも躓きの石に躓いた痕跡を消し去ることはできないし、なおさら痕跡の側から率先して消え失せてくれるはずがない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて250

2023年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。粉雪がちらほら舞っています。

 

「名称:“荻”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

日は傾き風はやや強くなり予想通り冷えてきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.14)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.14)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

二〇二三年二月十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・もったいぶった<私>の報告「割りつつ割られる/割られつつ割る」/シーレを読む<架け橋>としての漫画

2023年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

プルースト作品が幾つもの箇所で戦後の記号学者による発見を先取りしていたことは有名なエピソードだ。

 

「アルベルチーヌがさきの文言でなにを言わんとしたのか、あの途切れた文言の最後はどうなるはずだったのか、それを突きとめようとする探究がつづけられていたらしい。で、突然、想いも寄らなかった一語が私に降ってきた、『壺(つぼ)』という語である」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.339」岩波文庫 二〇一七年)

 

前々回、アルベルチーヌの身振りについて二つに分けておいた。(1)「割る」という言葉。(2)「顔を真っ赤にして困惑した表情になり、私にはさっぱり意味のわからなかったその出てきたばかりのことばを口のなかへ押し戻そうとするかのように、片手を口に押しあてた」という振る舞い。

 

(1)では「文言」に力点が置かれているが「文言」だけでは十分ではない。ずっと前の記述にこうある。錯覚に陥る危険性について。

 

「というのも私は、美しいボディーラインを目撃したり、生き生きした顔色をかいま見たりするだけで、そうあるはずだと信じて、そこに惚れぼれする肩や甘美なまなざしなど、私がいつも想い出や先入観として心のなかに蓄えているものをつけ加えてしまっていたからである。このようにちらっと見ただけであわてて人を判断して陥る誤謬は、大急ぎで文章を読んでいるとき、ひとつのシラブルを見ただけで残りのシラブルを確認する時間をとらず、記された語のかわりに記憶からとり出した語を読んでしまう誤りと似ている」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.343」岩波文庫 二〇一二年)

 

そこで(2)の振る舞いが同時に参照されることになる。もっとも、そう書き進めるのはプルーストだ。その意味でプルーストは実に機敏で小回りの効く優れた記号学者なのだ。

 

アルベルチーヌの言葉。「一度でも自由にさせてもらうほうがいいわ、そうしたら割ってもらえーーー」。この末尾。「ーーー」。ここには何が入っていたのか。報告者<私>はいかにもたった今、不意に気づいた身振りを演じつつこう告げる。

 

「ところが突然、晩餐会を催すことを提案したときにアルベルチーヌが肩をすくめて投げかけたまなざしを想い出したおかげで、問題の文言にあと戻りできたのである。それで私は、アルベルチーヌが『割る』と言ったのではなく、『割ってもらう』と言ったことを想い出した」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.340」岩波文庫 二〇一七年)

 

だがしかし、「割る」と「割ってもらう」との間には無数の変化形態が存在する。LGBTをめぐる問い。諸外国ではもう怖いほど以前に解消され、さらなる発展解消を遂げつつある諸問題。それがなぜか日本に入ると、余りにも立ち遅れすぎている。“L”(レズ)とか“G”(ゲイ)とかいうだけでも壮大豊穣な地平を有しており、見通し良好だというのに。なおさらプルーストとその同時代人たちの目には遥かによく見えていた。「割りつつ割られる」/「割られつつ割る」。そう言っただけでさえ、早くも境界線は曖昧化している。

 

「われわれはこの男の顔のなかに、心を打つさまざまな気遣い、ほかの男たちには見られぬ気品ある自然な愛想のよさを見出して感嘆するのだから、この青年が求めているのはボクサーだと知ってどうして嘆くことがあろう?これらは同じひとつの現実の、相異なる局面なのだ。さらに言えば、これらの局面のうちわれわれに嫌悪の情をいだかせる局面こそ、いちばん心を打つ局面であり、どんなに繊細な心遣いよりも感動的なのである。というのもそれは、自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれにほかならないからだ。性をめぐるさまざまな欺瞞にもかかわらずこうして性がみずから企てる自己認識は、社会の当初の誤謬のせいで遠くに追いやられていたものへと忍び寄ろうとする密かな企てに見える。おそらくきわめて内気な少年期をすごした男のなかには、快楽をひとりの男の顔に結びつけることさえできれば満足して、どのような肉体的快楽を享受できるかについてはさして感心を向けない者もいる。これにたいして、おそらくもっと激しい欲望をいだくせいであろう、自分の肉体的快楽の対象をなんとしても限定する男たちもいる。こんな男たちが自分の想いを告白すれば、世間一般の顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。ところがこの男たちもサトゥルヌスの星のもとでのみ暮らしているとはかぎらない。前者の男たちにとっては女性が完全に排除されているが、この後者の男たちにとってはそうではないのだ。前者の男たちにとって、おしゃべりや媚のような頭のなかの恋愛がなければ女性なるものは存在しないに等しいが、後者の男たちは、女を愛する女性を探し求め、その女性から若い男を手に入れてもらったり、若い男とすごす快楽をその女性に増幅させてもらったりする。おまけにこの男たちは、それと同じやりかたで、男と味わうのと同じ快楽をその女性たちを相手に味わうこともできる。そんなわけで前者の男を愛する男たちからすると、嫉妬をかき立てられるのは相手の男がべつの男と味わう快楽だけで、それだけが自分には裏切りに思える。なぜならその男たちは、女と愛情をわかち合うことはなく、そうしているように見えても慣習として結婚の可能性を残しておくためにすぎず、女との愛情から与えられる快楽をまるで想像できないので、耐えがたく思えるのは自分の愛する男が味わう快楽だけだからである。ところが後者の男たちは、しばしば女性との嫉妬をかき立てられる。というのもこの男たちは、女性と結ぶ関係において、女を愛する女性からすると相手の女役を演じているうえ、同時にその女性もこの男たちが愛する男に見出すのとほとんど同じ快楽を与えてくれるので、嫉妬する男は、自分の愛する男がまるで男にも等しい女に首っ丈になっているように感じると同時に、その男がそんな女にとっては自分の知らない存在、つまり一種の女になっていると感じて、その男がまるで自分から逃れてゆくような気がするのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.66~68」岩波文庫 二〇一五年)

 

真面目な歴史だ。今の議論はもはや単なる笑い話を越えている。そういえば、「笑い」といっても幅広い。こんな表記がある。「(笑)、(爆)、(核爆)」。

 

昨今、電力値上げへの動きとともに自動的に呼び出されてきた議論。チェルノブイリ事故はなぜ起きたのかというより、起こることはほぼわかっていたという動かしようのない事情。それが公の議論からすっかり抜け落とされ、鼻からそんなことまるで無かったかのような「おしゃべり」へ突入しているのはなぜだろう。

 

あの事故は人為的ミスではまるでなく逆に人為的な介入による。だが介入しないわけにもいかなかった。最新機器という常に名ばかりの実験的装置を用いていれば壊滅はもっと早かっただろう。今の日本がまっしぐらに猛進している状況下にほぼ近い。

 

「エゴン・シーレ特集」から。漫画の効用。楠本まきは画家とモデルとの間で取り交わされる暗黙の了解=共犯関係に触れる。そのあと。

 

「着色されなかった衣服や背景の空白を見るとき、うつ伏せの軀の浮き出た背景の丹色(あかいろ)を見るとき、その火花の煌めきは私の前に再現され、私はいつも、シーレのように描きたいと、夢見るーーー」(楠本まき「シーレに関するフラグメント」『ユリイカ・2023・02・P.87』青土社 二〇二三年)

 

楠本まきの言うとおり「再現」されるのはいつだって「瞬間のスパーク」だ。ところが「瞬間のスパーク」を「再現」するためには幾重にも打ち重ねられた困難の乗り越えが要請される。画家は「再現」しようと欲望する。だがそう意識するかしないか、というところで、たちまち「抑圧」される。この「抑圧」は「決定されている」。

 

「私は、抑圧するがゆえに反復する、というのではない。私は、反復するがゆえに抑圧するのであり、私は、反復するがゆえに忘却するのである。私は、或る種のものごと、あるいは或る種の経験を、まずはじめに、反復という様態でしか生きることができないがゆえに、抑圧するのである。私は、それらのものごとや経験を私がそのようにしか生きられないという事態の妨げとなるようなものを、抑圧するように決定されている」(ドゥルーズ「差異と反復・序論・上・P.63」河出文庫 二〇〇七年)

 

反復を目指す「死の欲動」についてフロイトから。

 

「小児の精神生活の初期の活動や精神分析的治療の体験のさいに現われる反復強迫は、高度に衝動的な、そして快感原則に対立するところではデモーニッシュな性格を示している。小児の遊戯にさいして、われわれは、小児が、かつて強い印象を受けた体験を能動的に行なうことによって、たんに受身の体験のさいよりも、ずっと充分な程度に支配できるという理由で、不快な体験をも反復するということを理解できるように思う。事あたらしく反復するごとに、この目標となる支配が改善されるものと思われるが、快適な体験でも、小児は反復に倦むことを知らず、かたくなに同一の印象に固執するであろう。このような特性は後になってかならず消滅する。洒落も二度目に聞けばほとんど心にひびかないであろうし、芝居も二度目にはもはや最初に残したほどの印象には達しないであろう。のみならず成人は、非常に面白かった本をただちにもう一度読みかえす気にはなかなかなれないものである。常に目あたらしさが享楽の条件であろう。しかし、小児は見聞きした遊びや、お相手をしてもらった遊びを、大人が疲れきって拒絶するまで繰りかえし要求して倦むことがないであろう。またおもしろい話をして聞かせれば、小児は新しい話を聞くかわりに、繰りかえしその話を聞きたがって、頑固におなじままに反復することを求める。そして、話し手が間違えて喋ったり、なにか新味を出そうとして加えた変更さえも、ことごとく訂正するのである。しかもこの場合は、快感原則に矛盾してはいない。反復すること自身、つまり同一性を再発見すること自身が、快感の源になっていることは明白である。他方、分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、《どんな場合にも》、快感原則の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、さらに二次過程の能力をある程度欠いていることを示すのである。この拘束されない一性質のために、昼の残滓に固執しながら、夢に現われる願望空想を形成する能力をもっているのである。おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人の漠とした不安は、眠ったままにしておくほうがよいものを目覚まさせるのをはばかるためであるが、それは畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。

 

しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか?ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーーー本能の特性、おそらくはすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、《本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう》。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.172』人文書院 一九七〇年)

 

その全的反復は身体を一度に無政府状態へ叩き込む。自殺行為に等しい。となるとその迂回と有効活用とが要請されてくる。だから「抑圧」が、社会的装置としての「抑圧」が、後になって設定された。この抑圧装置を指して<公理系>と呼ばれる。それはどのように作動しているか。

 

「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)

 

だからもっと自殺を、というわけではない。自殺行為などまるで目指されてはいない。

 

「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫 二〇一〇年)

 

この点、僅かばかりの移動が見られる。なるほどそうかもしれない。ドゥルーズもガタリも二人とも日和見して「右」に走ったと喚き立てた人々がいた。ところが実をいえば、二人とも十分、これ以上ないほど「左」だった。にもかかわらず「裏切られた」と逆上した加速主義者たち、わけても欧米の白人至上主義たちと世界的に有名なリバタリアンたち。それらが大挙して「加速主義」を大いに支持、「トランプの四年間」を実現させた。そして自ら瀕死の憂き目を見るに立ち至った。もはや漫画ではない。

 

さらに「News week 日本版 2023.2.3 CCCメディアハウス」で組まれた特集「日本のヤバい未来」。そのすぐ脇に置かれたウクライナ戦争についての論考、デービッド・ブレナン「戦争が終わらないこれだけの理由」。しかしこれ、もっと前に文春新書でエマニュエル・トッドが言っていたこととほとんど同じなのでは?従って、もし条件が変わらない限り、このまま行けば日本の破滅はアメリカよりずっと早い。

 

そしてまた「外来種」についての論考もある。「外来種」。古い言葉だ。動物園ばかり見ていては何一つ見えてこない。見えてくるわけがない。米軍とその基地は半世紀以上も前から日本に居座りつづける「外来種」ではないとでも?それを許している日本政府は、しかし、なぜ許しを与えつづけなければならなくなったのか。むしろ率先して導入に手を貸しつづけるのが勝利、少なくとも、繁栄なき衰亡へ加速する「共存」だとでも言いたいのだろうか(笑)、(爆)、(核爆)。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて249

2023年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で61パーセントの予想。湖東方面も曇り。鈴鹿峠も雨曇りのようです。

 

午前六時二十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.14)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.14)

 

二〇二三年二月十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。