一つの身振りからどんどん生産され、どこまでも生産されていく「誤解」は、「恋愛においてーーー最高潮に達する」とプルーストはいう。「しないふりをする」。その身振りが「たちまち人を否応なしに二枚舌の天才にしてしまう」。
「人はある年齢を超えると、自尊心や明敏さゆえに、いちばん欲しいと思っているものにさして執着しないふりをする。しかも恋愛にあっては、単なる明敏さはーーーもっともこれはおそらく真の明敏さではないのだろうーーー、たちまち人を否応なしに二枚舌の天才にしてしまう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.350」岩波文庫 二〇一七年)
プルーストは上手く言った。否応なしの「二枚舌」。両義的な身振り。どちらの意味にも取れてしまうばかりか、さらにもっと多くの意味を瞬時に出現させていく、あたかも鏡の乱反射のように。位置決定不可能性という問題。
「エゴン・シーレ特集」の中で須田永遠はいう。
「このように、シーレは自己の肉体の直視によって独自の肉体表現を開始し、クロソウスキーの描く人物は、身ぶりの意味が未決定のままとどまるような宙吊りの姿勢をとる」(須田永遠「『肉体という不完全な容器』と両義的な身ぶり」『ユリイカ・2023・02・P.235~236』青土社 二〇二三年)
シーレよりもクロソウスキーに力点が置かれている。だが問題はシーレの絵画に顕著であり、クロソウスキーではますます顕著な「フェティシズム」にある。須田永遠はドゥルーズから次の箇所を引いてくる。
「問われているのは、世界を否定したり、破壊したりすることではないし、ましてや世界を理想化することでもない。肝心なのは世界を否認すること、否認しながら世界を宙吊りにすることであり、それによって、それじたい幻想のなかで宙吊りにされている理想に向かって、おのれをひらくことなのである。人は現実界の妥当性〔適法性〕に異議を申し立てることで、純粋で理想的な根拠を現出させる。こうした操作は、マゾヒズムの法的な精神と完璧に合致する。この過程が本質的にフェティシズムに通じているのは驚くにあたらない」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.48~49」河出文庫 二〇一八年)
さらにフロイトから次の箇所を。
「事のしだいというのは、要するに少年が、女性にはまったく陰茎がない、という自分で見た事実を認めるのを、拒んでいたということである。いや、これが真実のはずがない、なぜなら、もし女性が去勢されているのなら、自分が男根をもっていることも脅かされることになるから」(フロイト「呪物崇拝」『フロイト著作集5・P.392』人文書院 一九六九年)
ファンタスムを「幻想」と訳してしまっては上手く意味が取れない。なるほどとは思う。けれども、須田永遠が参照するうち、前者はフランス語版、後者は「精神分析用語辞典」から。
どちらも恐ろしく値が張る。さらに順次参照されているクロソウスキーもバルガス=リョサもたった一冊購入しただけでは難解この上ないため複数の関連書籍に目を通さなくてはわからない。関心を持つのはいいとしてもそれらを手に入れるとなると、もはやよほどの高所得者層でなければまず手が出ない高価格帯。批評家の引きたい言葉を引き出してくるためにはそうするよりほか方法がないという事情へ譲歩したとしてもなお、なぜそんなにまでして「もっと消費を」と呼びかけなくてはならないのか。消費以前、そもそも手元にそんなお金はない。ニーチェは芸術による対抗文化構築の必要性を呼びかけたが、逆に今の日本の専門家というのは、大量生産大量消費、「高度経済成長」という<神話>をまだ夢見ており、<市民・大衆>のなけなしの財布から、もっとぐいぐい身ぐるみ剥いでスポンサーとの橋渡し役=<貨幣・言語>という立場を支配していたいというのだろうか。
しかし問題提起にはなっている。批評家の仕事とは、かなり悲劇的なことなのだが、そういうものでもある。
「二枚舌」というにせよ「両義的な未決定性」というにせよ、いずれも近代欧米に限った話ではまるでない。それは今の日本の首都中心部周辺を隙間なく重厚長大に取り囲みつつ、それこそ丸見えの形でずしりと配置されている。例えば「丸の内」という不可解な空間。皇居とその周辺を二重三重に包囲する巨大ビル群。
それは今なお不可解な光景であり続けている。なぜ巨大ビル群は常に皇居を二重三重に包囲することを止めようとしないのだろう。例えようのない畏敬の念で一杯なのかそれとも瞬時も途切れることなく厳重に包囲し見張りを解かないための装置なのか。どちらにも見える。少なくとも厳重に包囲されていることは確かだ。
江戸時代一杯を通して、朝鮮通信使との絶えざる交流は有名だとしても、その他はほとんどひっそりしていた天皇をわざわざかつぎ出してきた薩長。ルサンチマン(劣等感・復讐感情)を梃子(てこ)としつつ百万人都市江戸を火の海に叩き込んだだけではぜんぜん飽き足りない大日本帝国軍の黎明。海援隊による物騒な軍艦取引を通した欧米帝国主義企業との不穏な関係。「無血開城」という大嘘。東北へ東北へ、さらなる恫喝戦争を押し進めずにはおれない薩長のルサンチマン(劣等感・復讐感情)。どんどん寝返る徳川家とその家臣団。天皇の居場所こそがすなわち首都だと宣言してのけた薩長による<維新>。“The Meiji Restoration”.問題だらけの“restoraton”。
ただ単なる「王政復古」だけでは語りきれない。今ではもっと広い意味を持つ。主にコンピュータばかり用いる職業に従事する際に必要不可欠なビジネス英語を使用する労働者なら誰でも知っている「再インストール」とか「初期化」とかがそうだ。
初期化。奈良時代あるいは平安時代への初期化だろうか。それなら「今昔物語」とか「日本霊異記」とか「太平記」とかの中でたくさん語られている。古語がわからないのなら芥川龍之介が短編小説化して大いに語っている。芥川作品へ少し配慮すればそれで済むような話だ。生涯学習以前。あっという間に終わる。
岡本太郎は「高原の孤独な一本の樹(き)について語ってもよいかもしれない」といっている。シーレ作品<四本の木>では、一本だけが枯れきっている有名な絵があるわけだが。
「ところで、怒りがどのように造形化されるものかということについて考えてみよう。断っておかねばならないが、というより、言うまでもないことだが、憤りそのものと、それが色・形として形象化され図解されたものとは別だ。怒りというと、普通目をむいて恐ろしい顔をしている様相で表現されるが、そういうのが怒りだと考えるのはひどく素朴である。逆なことが言える。たとえば憤怒(ふんぬ)像が眼をむき、カッと口をあけて無音の大声を発している。そして衆生(しゅじょう)に呪文(じゅもん)をうち込んでくる。それは冷たく、ひえきった表情ではないか。たしかに怒っている相だが、私にはどうも怒っているようには見えないのだ。
私は本当の憤りはむしろ全然別な姿であらわされるべきだと思う。たとえば、にっこりと笑って憤る。知らぬ顔で、あるいは平気な形、色をひらき、華やぎ憤る。いろいろある。いったい何が強烈な怒りの表現であるかということになると、単純にはとらえきれない無限の領域がひらかれる。
怒りばかりではない。エロティスム、狂気、すべての人間の感情的モメントがそうなのだが、表現する段になると、とかく説明的になってしまう。だが、たとえば一本の樹木が描かれている。それは裸の女性の姿態よりもなまめかしいかもしれない。またあるいは不動明王の憤怒相よりも、はるかに怒りであり、また叡智であり、あるいは狂気を発散するだろう。私はここで怒りについて言うのだが、その場合、高原の孤独な一本の樹(き)について語ってもよいかもしれないのだ。
このように言うとすべてが怒りの表現であり得るということになってしまう。いわば四通八達した、自在な表現をもちうる芸術は、それ故(ゆえ)言いようのない矛盾をはらんでいるのである」(岡本太郎「美の呪術・P.106~107」新潮文庫 二〇〇四年)
岡本太郎のいう「たとえば一本の樹木が描かれている。それは裸の女性の姿態よりもなまめかしいかもしれない。またあるいは不動明王の憤怒相よりも、はるかに怒りであり、また叡智であり、あるいは狂気を発散するだろう」という言葉。フロイトのいう「反復」ともドゥルーズのいう「抑圧されるべく決定されている反復」とも通じ合う。岡本太郎はまさしくそこ(差異化としての反復・循環)へ移動すべきだというのである。
「二枚舌」というにせよ「両義的な未決定性」というにせよ、作品<太陽の塔>は今なお「言いようのない矛盾をはらんで」立っている。にもかかわらずなぜ「夢洲」なのだろう。
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