ブリショは驚きながらシャルリュスに訊ねる。シャルリュスは「あまりにも周知のこと」として僅かばかりの言葉をブリショへ与えてやる。
「『するとゲルマント大公にもあの嗜好がおありだと?』とブリショは、驚きと不快感の入り混じる口調で訊ねた。『仕方がない』とシャルリュス氏は嬉々として答える、『あまりにも周知のことなので、そうだとお答えしても口が軽いとのそしりは受けんでしょう』」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.268」岩波文庫 二〇一七年)
ゲルマント大公とモレルとの横断的両性愛について読者はすでに知っている。<覗き見>のテーマの線上で描かれていた。
(1)「ノエミ嬢は、モレルがオレンジエードを注文したので、それを届けてから、すべてを見通せるサロンにおふたりを案内する、と言った。ただ、自分は指名を受けているので、まるでお伽噺のように、それまでのあいだの時間つぶしに『かわいくて頭のいい子』を寄こすと約束した。なにせ自分は呼ばれていますので、というのだ。そのかわいくて頭がいいという触れ込みの女は、ペルシャふうにガウンを着ていて、それを脱ぎたがった。シャルリュス氏はそれはやめてくれと言うと、女は一本四十フランのシャンパンを持ってこさせた。モレルは、じつはそのあいだ、ゲルマント大公といっしょにいた。モレルが形だけは部屋を間違えたふりをして、ふたりの女のいる部屋にはいると、女たちはすぐさま男だけをふたりきりにしてくれたのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.506」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「ようやく男爵は、ドアの隙間からまたいくつもの鏡に映して、なかをのぞき見ることができた。ところが氏は、あまりのすさまじい恐怖に、やむなく壁によりかかった。目の前にいるのは、たしかにモレルだったが、異教の秘儀や魔法がいまなお存在しているかのように、それはむしろモレルの霊、モレルのミイラで、ラザロのように復活したモレルとさえ言いがたく、モレルのまぼろし、モレルの亡霊と言うべきか、霊界からこの部屋(四方の壁やソファーなど至るところに魔法をあらわす図柄がついていた)へ戻ってきた、というか呼び出されたモレルが、男爵から数メートルのところで横顔を見せていた。モレルは、まるで死んだあとのように、まったく血の気を失っていた。そこにいる女たちと陽気に戯れていたはずなのに、いまや女たちにとり巻かれていながら顔面蒼白で、わざとらしくじっと動かずにいる。目の前にあるシャンパンのグラスを飲みほそうとして、腕は力なくゆっくり差し出されようとするが、だらんと垂れてしまう。宗教が魂の不滅を語りながら、それによって虚無を排除していないことを悟らせるのと同様の、曖昧な印象をいだかざるをえない。女たちはモレルを質問責めにしていた。『ほうら』とノエミ嬢は声をひそめて男爵に言う、『あの子たちはね、連隊での暮らしの話し相手になってるんですよ、おもしろいでしょう?』と言って笑うと、『ご満足かしら?あの人、静かでしょ?』と、まるで死にかけた人のことを言うみたいにつけ加えた。女たちはつぎつぎと質問を浴びせたが、モレルには正気がなく、それに答える力はない。なにかひとことでもつぶやくという奇跡さえおこらない。シャルリュス氏は、いっときためらっただけで真相を悟った」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.507~508」岩波文庫 二〇一五年)
逆に横断的性的欲望を頑なに忌み嫌う保守的因習的パラノイアとしてのシャルリュス。そんなシャルリュスが重心を置く立場は別の箇所でこう記されている。
「男と女はべつべつに死んでゆくだろう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.52」岩波文庫 二〇一五年)
それは《怨恨(ルサンチマン)》から生じた呪詛の一つだ。
「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《怨恨(ルサンチマン)》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《怨恨=反感》というのは、本来の《反作用=反動》、すなわち行動上の反動が禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《怨恨》である。すべての高貴な道徳はそれ自身に向かう高らかな自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は『外のもの』『他のもの』、『自分とは異なるもの』を頭から否定する。そして《この》否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価を定める眼差しがこのように逆立ちしていることーーーすなわち、自分自身に向かい合うよりもむしろ、つねに外へと向かうこの《必然的な》方向ーーーこれこそはまさしく《怨恨》の本性である。奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対立、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、奴隷道徳は一般に、動き、行動を起こすための外的刺激を必要とする。ーーーだから奴隷道徳の行動は根本的に反動である」(ニーチェ「道徳の系譜・第一論文・十・P.36~37」岩波文庫 一九四〇年)
だからシャルリュスがモレルに勧める結婚は女性との偽装結婚であり、モレルの性的欲望はシャルリュス自身のために覆い隠しておこうと奔走する。だがモレル本来の性的欲望はアルベルチーヌのような横断的両性愛なのだ。
急ぎ過ぎないようにしよう、と思う。
ユリイカ「エゴン・シーレ特集」。まず感じたのは絵画批評の困難性。だからといってたじろぐことなく発言する人々がまだまだいるということにさらなる力、少なくとも今なお存続してはいるという確かな手ごたえ、を得た。
なるほど薄氷の上の歩みのような注意深さなしには進めていきようのない手ごたえでしかない。とはいうものの、数の少なさは覆うべくもないにせよ、その周辺を飛び交い交雑しすぐまた散乱し異なる場所を見出し刻み込まれる諸現代詩群とともにであれば、その個々の切片はそのままに、どの切片も他の切片と折り重り合い掠め通り合い生成変化するやすぐまた移動し去るという脱コード化の運動を繰り返しつつ、薄氷にもかかわらずその重層性は無限の厚みを帯びる一方、軽快この上ない速度を手にいれる。
ただし速度というのは速ければ速いほどいいということでは全然ない。むしろ速さとか遅さとか、様々な可変性への配慮とともに成り立つ。ゆえに身軽で気の利く軽快さが必要なのだ。
しかし現代詩の側により一層インパクトを感じることがあるのは奇妙なことだ。ところが一見、複雑怪奇に映って見えている現代社会の動きについて、実をいえば、思い込まれている以上に複雑でもなんでもないという事実を照らし上げる力は現代詩の側、批評する側される側を同時に引き受けている側、に秘められていることへ目をやりさえすれば、この奇妙さはすぐさま消え去る。批評へ戻ろう。鈴木創士から引いてみる。
「シェーンベルク、ヴェーベルン、ベルク。しかしシェーンベルクもベルクもいまだ世紀末的でロマンチックすぎる。《魔笛》や《パルジファル》の余韻が続いていたのだとしても、ここにはモーツァルトも、ヴァーグナーも、ましてやデーテもいなかった。私は何が言いたいのか。ヴェーベルンの音楽なしに、私は当時の危機的なウィーン、芸術全体を覆う塹壕の音響を想像することができないのだ」(鈴木創士『石は何を叫ぶのか」『ユリイカ・2023・02・P.75』青土社 二〇二三年)
共感する部分なのだが、そこでなおかつ<ヴェーベルンあるいは断続器>と呼んでみたい。ヴェーベルンの諸作品を立て続けに聴いてみていつも思うこと。そこにあるのは楽器というより<断続器>の音響というに等しい。
言い換えれば、<諸断片>のモザイクとしての石に<なる>こと。石化する。けれどたちまちふうっと消え失せること。「自画像」もそうなのだろう。論文の中で鈴木創士が上げている絵画の一つは<吹き荒れる風のなかの秋の木(冬の木)>。季節は「いつも冬」。カンヴァスに貼り付けられたもの。それは一度すっかり剥がされカンヴァスへ移し置かれた皮膚自身だ。シーレが「見た」皮膚。シーレによる整形外科的移植手術。そしてそれはいつも何らかの余剰をはみ出させている。自画像にせよ風景にせよ。注目すべきは「いつも何らかの余剰をはみ出させている」その表層だ。
同時に言えるだろう。間違ってもシーレの内面風景などでは決してないと。内面風景と言ってしまうと、それこそ鈴木創士が一度列挙しておき、慎重とまでは言えないにしても、結局のところ押し除けている他の芸術家(クリムト、マーラー、ヴァーグナー、ゲーテ、シェーンベルク、ベルク)たちも圏内に入ってくる。そうではない。そうではないということはヴェーベルンでなくてはならないからに違いない。鈴木はシーレの言葉を引用する。
「『眺めることは画家でもできます。見ることはしかしながら、それ以上です』」(鈴木創士『石は何を叫ぶのか」『ユリイカ・2023・02・P.78』青土社 二〇二三年)
ではシーレは何をどう「見る」ことができたのか。戦争とパンデミックとが吹き荒れる場所において<見出し、描き出す>作業を通して。プルーストのように描き出して「見せた」のか。それをただ単に「世紀末ウィーン」という言葉でひとくくりにしてしまっては無用な混乱に陥ってしまう。「新旧の表」という錯覚。
「世の中には極度の疲労が創り出した表と、くさりきった怠惰が創り出した表とがある。この二つは、語ることは同じでも、別のものとして考えなければならない」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・新旧の表・P.333」中公文庫 一九七三年)
恐ろしく古いステレオタイプ(紋切型)評論を切り離してしまうとそこに「分身」というテーマが出現する。鈴木創士はアルトーの「分身」とシーレの「分身」との違いへ言及している。もっとも、「分身」というテーマの線上で語るためにはラカンを呼び出さなければならないわけだが。
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