白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて270

2023年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。一日中すっきりしないお天気でした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“鴨”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“鴨”」(2023.2.24)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

二〇二三年二月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが2/ウクライナ戦争と戦後日本「形式民主主義」

2023年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

別れ話はあらぬ方向へどんどん逸れていく。微分化され積分化されるアルベルチーヌの顔の問題。アルベルチーヌの顔だけをその周囲から切り離し取り出すことは可能だろうか。可能だ。プルーストはいう。

 

「アルベルチーヌの顔立ちのひとつひとつは、いまやその顔立ちのべつの要素と関連しているだけであった。その鼻にせよ口にせよ両目にせよ完璧な調和をつくっているが、他のものから切り離されているせいでアルベルチーヌは、さながら一点のパステル画となり、まるで人がラ・トゥールの肖像画の前で話をしているかのように、人が今しがた言ったことも聞こえなかったように見えた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.359」岩波文庫 二〇一七年)

 

それに先立ち、逆方向へもっと細かく、アルベルチーヌの顔の各種パーツを個々別々に切り離し取り出す操作も可能だとプルーストはいう。<私>が報告していたように。

 

「私は接吻するに先立って、アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘にあらためて満たされ、それ以前に暮らしていた土地までが本人のなかに見出せたらどんなにいいだろうと思った。私の知らない土地は無理だとしても、すくなくともその代わりに共にすごしたバルベックのありとあらゆる想い出、私の窓の下で砕ける波の音や子供たちの叫び声などをアルベルチーヌのなかに入れこむことができた。だがアルベルチーヌの頬という美しいバラ色の球体のうえに視線を走らせ、やさしく湾曲した頬の表面がみごとな黒髪の最初の褶曲(しゅうきょく)の麓のところで消え去ったり、黒髪がいくつもの山脈となって躍動しては険しい支脈を屹立させたかと思うと波立つ谷間をつくるのを目の当たりにすると、私はこう思わずにはいられなかった。『バルベックでは失敗したが、今度はいよいよアルベルチーヌの頬という未知のバラの味を知るんだ。人生のなかで事物や人間にたどらせることのできる地平はそう多くないのだから、あらゆる顔のなかから選びとった咲きほこる晴れやかな顔を遠くの額縁から取り出し、この新たな地平に連れてきて、その顔をついに唇によって知ることができたら、私の人生もいわば完了したとみなせるかもしれない』。私がそう思ったのは、唇による認識が存在すると信じこんでいたからである。私は肉体というこのバラの味をこれから知ることになると思いこんでいたが、それはウニと比べて、いやクジラと比べても明らかに一段と進化した生物である人間でも、やはり肝心の器官をいくつか欠いていること、とりわけ接吻に役立つ器官をなんら備えていないことに想い至らなかったからだ。人はこの欠けた器官を唇によって補っているので、愛する女性を角質化した牙で愛撫せざるをえない場合よりは、いくらかは満足できる成果が得られているのかもしれぬ。だが唇というものは、食欲をそそる対象の風味を口蓋(こうがい)に伝えるには適した器官であるが、頬を味わうにはそこには入りこめず、囲いの壁につき当たってその表面をさまようのに甘んじるほかなく、対象を間違えたとは理解できず、当てが外れたとも認めはしない。そもそも唇は、たとえはるかに熟練して上達した唇も、肉にじかに触れているその瞬間でさえ、自然が現段階では捉えさせてくれない風味をそれ以上に味わうことはできないだろう。というのも唇がその糧をなにひとつ見出しえないこの地帯では、唇は孤独で、ずいぶん前から視線にも、ついで臭覚にも見放されているからである。まずは視線から接吻するよう勧めれれた私の口が頬に近づくにつれて、移動する視線はつぎからつぎへと新たな頬を目の当たりにした。ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして、顔の性格を一変させてしまった。写真という最新の技術ーーーそれは、近くで見ると往々にして塔ほどに高いと思われた家並みをすべて大聖堂の下方に横たえたり、いくつもの史的建造物をまるで連隊の訓練のよういつぎつぎと縦隊や散開隊形や密集隊形にさせたり、さきほどはずいぶん離れていたピアツェッタの二本の円柱をぴったりくっつくほどい近づけたり、近くにあるサルーテ教会をかなたに遠ざけたり、蒼白くぼやけた背景のもと、広大な水平線を、ひとつの橋のアーチ内や、とある窓枠内や、前景に位置する溌剌(はつらつ)とした色合いの一本の木の葉叢(はむら)のあいだに収めたり、同じひとつの教会の背景としてつぎつぎと他のあらゆる教会のアーケードを配置したりする技法である。私からするとこの技法だけが、接吻と同じく、一定の外観をもつ一個の事物と信じていたものから、それと同一の多数のべつのものを出現させることができるのだ。いずれもある視点から生じたものだが、どの視点もいずれ劣らぬ正当性を備えているからである。とどのつまり、バルベックにおいてアルベルチーヌが私の目にしばしば違って見えたのと同じで、今や、ひとりの人間がわれわれとの多様な出会いにおいて見せる風姿や色合いの変化の速度を桁外れに早めることによって、私がそんな出会いのすべてを数秒のなかに収めては、その人の個性を多様化する現象を実験的に再創造しようとしたかのように、私の唇がアルベルチーヌの頬に達するまでの短い行程のあいだに、その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう。接吻のためには、唇が適していないのと同じく鼻孔と目の位置も不適切であるーーー突然、目が見えなくなり、ついで鼻が押しつぶされて何の匂いも感じなくなり、だからといってあれほど望んだバラ色の味をそれ以上に深く知ることもなく、こうした不愉快な徴候によって私は、とうとう自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているのだと悟った」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.59~63」岩波文庫 二〇一四年)

 

さて。ウクライナ戦争について。戦火のない場所として<見えない>戦火に晒されている日本で。何ができるだろう。だが余り単純にそう言ってしまうのは危険が伴う。というのは、ややもすればウクライナ戦争勃発の前提条件はもうかなり以前から整っていたことを忘れ去せてしまう効果があるからだ。

 

ドゥルーズ=ガタリのいう「戦争機械」とは何か。国家間戦争のことではない。核ミサイルとか最新鋭戦闘機とかになるともう全然違う話になってしまう。そういうことではなくて、ありとあらゆる「経済-世界」を支配し、そのすべての流れを公理系へ流し込み整序し、グローバル資本のもとで再編成して止まない動きのことをいっているからである。諸国家の対立の下で戦争機械が用いられているのではなく、逆に、戦争機械が諸国家を所有している。今や戦争機械が世界-全体であって、諸国家はもはや戦争機械の様々な役割を分担分業しつつ形成している体裁を取っているに過ぎない。

 

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

 

だからどんな些細に見える売買であっても、戦争機械と接触していない売買は地球上のどこにもない。例えば、東京都のある町角で子どもたちが与えられた小遣いを運用して遊ぶ百円の「がちゃがちゃ」でさえ、戦争機械と接触している。そんなことはないと言いたい人々がいるかもしれない。「経済-世界」についてほとんど何一つ知らない場合、そんなことが平気で言えてしまう。そのままずるずる話がずれていく。その繰り返しがウクライナ戦争という現状を招き込み、加速させしまっているにもかかわらず。

 

けれどももし、本当にそうでなかったとしよう。するとたちまちグローバル資本主義は地球のどこをどう探してもさっぱり見当たらないということになってしまう。逆におかしな話になりはしないだろうか。だからといって、もう絶望的だと割り切ってニヒリストを気取るのはこれまた早過ぎる。そんなやさき、ネグリ=ハートのいう「マルチチュード」概念の持つ射程は大変有効な<別の方法>として登場してきた。この二人は評判にもなった「マルチチュード」概念を練り直しながら、さらなる磨きをかけている。

 

「主権権力を抑制するための近代的戦略の一つは、それを法の支配に従属させることであった。つまり、主権者の意思決定権力を、確立された規範体系の内部に制限するのである。これはたしかに効果的な防御策となってきたが、実際のところそれは、問題を解決するというより問題をずらすものでしかない。いかなる習慣、伝統、あるいは自然権の概念も政治的意思決定の必要性を否定することはできず、法の支配はオルタナティヴな意思決定権力を提供するものではない。もう一つの近代的戦略は、支配者から主権を奪取すること、つまり、構造の内部で地位を逆転し、新たな主権権力を打ち立てるものであった。つまり第三身分が主権者となり、国民が主権者となり、そして人民が主権者となりさえするのだ。プロレタリアート独裁ーーーこれは、既存のブルジョワジー独裁に反撃するために発明された概念であるーーーは、主権によって定義される関係性の内部で立場を逆転させようという近代的試みの長い道筋の中に位置している。支配の諸構造は、そうしたオルタナティヴな主権概念によって維持されるだけでなく、すでに述べたように、主権者の統一性と同質性、また意思決定を行う主体を必要とする。人民、国民、あるいはプロレタリアートは、一つの声で話すときにだけ主権者でありうるのだ。対照的に、マルチチュードは一者ではなく多数者であるがゆえに、決して主権者ではありえない」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第三章・P.49~50」岩波書店 二〇二二年)

 

この文章の中で「第三身分が主権者となり、国民が主権者となり、そして人民が主権者となりさえするのだ。プロレタリアート独裁ーーーこれは、既存のブルジョワジー独裁に反撃するために発明された概念である」とある。マルクスの読み違えから転がり出てきたソ連とか中国共産党とかを指す。少なくとも世界はそう考えている。と同時に世界は日本について実に曖昧なまま放置してきた。なぜなら、国連が自分で作って日本にだけ妥当させた枠組みの中では、「形式民主主義」という形で得票数だけで「主権者」を決める日本は、「第三身分が主権者となり、国民が主権者となり、そして人民が主権者となりさえするのだ。プロレタリアート独裁ーーーこれは、既存のブルジョワジー独裁に反撃するために発明された概念」の適応によって成立している表向き「民主主義国家」/実質「限りなく独裁に近い国家」に他ならないからである。

 

ただ、主権者がプロレタリアートではなく、ほとんど労働しなくても済まされるエリート官僚ばかりだという点で大いなる違いが認められる。二重三重に屈折した状態を自分で選んだ日本。国連加盟国の中で日本ばかりが常に浮いて見える。国連に加盟する他の諸外国がスマートだというわけでは決してないが、日本の屈折度がそれを上回るほど余りにもあからさまなため、そう見える。世界の中でおそらくただ日本だけが、戦後、異次元の「形式民主主義」という足枷に繋がれたまま「問題を解決するというより問題をずらすものでしかない」政治様式を今後もずっと背負っていくしかない。全世界を敵に回した戦争のつけは今なお限りなく大きく響き渡っているのである。

 

グローバル社会に対するネグリ=ハートの認識はまるで異なる。一極支配の消滅(アメリカの凋落)。二極化(東西冷戦のような)の終わり。そして今、世界を舞台に演じられつつあるのは<多極化>だというわけだ。絶対的主人などどこにもいない。続ける前にアルトーを引こう。

 

「私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、

 

神、

そして神とともに

その器官ども。

 

私を監禁したいなら監禁するがいい、しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

 

人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.44~45』河出文庫 二〇〇六年)

 

ネグリ=ハートはいう。

 

「主権者の決断とは、つねにある意味で神の裁きである。つまり、君主、党、人民のいずれであれ、それは地上の神なのである。アントナン・アルトーが同タイトルのラジオ放送で宣言したように、神の裁きと決定的に訣別しようではないか。主権と訣別するためには、政治的意思決定により注意を向ける必要がある。私たちは、集団的意思決定を維持しうる過程と構造により強く焦点を合わせなければならない。こうした仕方で主権に対抗することこそ、私たちの分析にとっての中心的課題を設定する。その課題とはすなわち、多数者が意思決定する方法を発見することーーーそして、多数者が主人なしで共に統治する方法を発見することである」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第三章・P.50」岩波書店 二〇二二年)

 

NHKで一部放送解説された岸田首相演説を聞いていたところ、ふと思い出したに過ぎないわけだが。ところがNHKにはまた別の、まるで解消されていない大問題がある。いずれ触れたい。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて269

2023年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で95パーセントの予想。湖東方面も曇り。鈴鹿峠も曇りのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.24)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

二〇二三年二月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。