白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて239

2023年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れ渡っています。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“西近江路”」(2023.2.9)

 

午後四時五十分になりました。

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.9)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

二〇二三年二月九日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・プルーストが問う<「素顔」の無効化>/「パフォーミング・アーツ」としてのエゴン・シーレ

2023年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

当てのはずれた間抜けづら。さすがのシャルリュスももうどうかしてしまったのだろうか。しかし問題は耄碌するとかしないとか、そんなところにありはしない。衝撃としてのモレルの言葉(態度・身振り)に注目しよう。そもそも傲岸不遜なシャルリュス。そんなシャルリュスの仮面をモレルの言葉(態度・身振り)は一旦引き剥がすとともに間抜けづらというもう一つの仮面を貼り付け置き換えたというべきだ。

 

「シャルリュス氏は、唖然として口も利けず、わが身に降りかかった不幸の大きさには見当がつくもののその原因がわからず、答えに窮し、その場に居合わせた人たちのほうを順ぐりに見やったその顔には、問いただすような、憤然とした、すがるような表情がうかび、その表情はなにがおこったのかと訊ねるよりも、なんと答えるべきかと訊ねているようであった。もしかすると氏が(ヴェルデュラン夫妻が目をそらし、だれひとり助け船を出してくれそうもないのを見てとって)黙りこんでしまったのは、現在の苦痛のせいばかりではなく、とりわけそのあとの苦痛をひどく恐れたせいかもしれない。あるいは憤怒の用意が整っていたりはせず(というのも氏は傷つきやすく、神経過敏で、ヒステリックな、正真正銘の衝動的人間であったが、勇敢に見えてそうではなく、私がつねづねそう思っていたように、またそれゆえ好感をいだいたように、悪人に見えてそうではなく、名誉を傷つけられた人なら普通に見せる反応をしないからである)、いわば無防備な状態で襲われ、いきなり袋だたきに遭ったせいかもしれない。あるいは自分の馴染んだ環境ではないがゆえに、フォーブールよりも居心地が悪く、勇敢に振る舞えない気がしたせいかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.290~291」岩波文庫 二〇一七年)

 

あくまで記号論的な歩みを進めるプルースト。

 

(1)「記号学(セミオロジー)。記号体系を言語活動の諸法則との関係から研究するトランス-言語学的学問領域としてのもの(ロラン・バルトの立場)」(ガタリ「機械状無意識・第1部・第1章・P.19」法政大学出版局 一九九〇年)

 

(2)「顔面性のある構成要素は、その標準偏差は大目に見て、記号内容および表現特徴の全体のコントロールを規制したり、ゆるめたりする。顔面性のゲシュタルトー記号は、あらゆる知覚およびあらゆる行動の体系的フレーミング作業をしたり、欲望の拘束ストラテジーを固定したりすることに成功したり、失敗したりする。それは顔の真ん中に第三の目として、どんなシニフィアン的表象作用にも内在する目、その走査運動と永久調節運動は指向対象の全表面に広がる目を固定する。諸表現素材の『凹凸物』は一つ一つ中和される一方、他方では、円形ホワイト・スクリーンが記号学的三角形、自我、客体の間の共鳴効果を波及させる。かくして、《顔面性化された意識》が、さまざまな記号論的諸成分を出現させうるブラックホール全体の共鳴の中心を構成し、それは発話行為の固体化された主体のまわりに記号学的蓄積作業を行い、極めてマニ教的二元論的やり方で一人の『人物』を自己同一性化する」(ガタリ「機械状無意識・第一部・第四章・P.78」法政大学出版局 一九九〇年)

 

ただこの時のシャルリュスはいつものような傲岸不遜な仮面をすっかり忘れ去ってしまっていた。としても得意の仏頂面を拾い上げるわけではなく他ならぬ間抜けづらとして出現した。シャルリュスはいつも必ず得意技ばかり繰り出すとは限らない。逆に例外があること、例外としての仮面もまた複数取り揃えられていること、なおかつすべての読者、とりわけ知識人への問いである<「素顔」の無効化>、諸商品の無限の系列と化した<素顔-仮面>、それもまたプルーストによる<暴露>の一つだ。

 

絵画でいえば「モナリザ」という<素顔>の出現はいつ頃だったろうかという問題系へ接続される。十六世紀初頭。フーコーによれば人類史上始めて<人間>というものが出現した時代に当たる。「十八世紀末以前」とある。

 

「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語(ランガージュ)の歴史的厚みもまた同様だった。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない」(フーコー「言葉と物・第九章・P.328」新潮社 一九七四年)

 

ではいつ頃からなのか。十六世紀。「一五九六年に創設されたアムステルダムの<研磨の獄舎>」。

 

「こうした<拘禁施設の>見本の最古のもの、遠近のちがいはあれ他のすべての見本に着想を与えたと考えられるものは、一五九六年に創設されたアムステルダムの<研磨の獄舎>である。原則上それは乞食や未成年の犯罪者に充てられていた。それの運用は三つの主要な原則にしたがっていた。すなわち、刑期は被監禁者の行ないいかんに応じて、少なくとも或る範囲内では行政機関そのものが決定することができた(しかもその期間は判決のなかで前もって定めることができたのであって、たとえば一五九七年に、拘留中の男が十二年の刑に処せられ、その行ないが満足すべきものであればその刑期は八年にちぢめてよいとされていた)。またこの施設では労働は義務とされ、共同で行なわれていて(しかも独房は単に補足的な処罰としてのみ用いられていた。被監禁者は四人ないし十二人を収容する小部屋のなかで寝台ごとに二、三人が眠っていた)、完了した仕事については給金が与えられていた。第三には、きびしい時間割、禁止や義務の体系的な諸事項、絶えざる監視、激励、宗教中心の読書など、『善へ導き、悪から遠ざける』ための一連の措置が、被監禁者の日常を規制していた。このアムステルダムの<研磨の獄舎>こそは、一つの基本的形象と見なしうるものである。歴史的にはそれは、絶え間のない訓練による、教育面と宗教面における個々人の作り替えという、十六世紀独特の理論と、他方、十八世紀後半期に想定されていた罪人懲治技術(つまり行刑技術)との結び目をなしている」(フーコー「監獄の誕生・第二部・第二章・P.124~125」新潮社 一九七七年)

 

フーコーのいう「結び目」としての<拘禁施設>。<一望監視施設>(パノプティコン)へはもうひと息だ。

 

「ベンサムの考えついた<一望監視施設>(パノプティコン)は、こうした組み合わせの建築学的な形象である。その原理はよく知られているとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕えられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。要するに、土牢機能ーーー閉じ込める、光を絶つ、隠すーーーのうち、最初のを残して、あとは解消されている。(この新しい仕掛では)充分な光と監視者の視線のおかげで、土牢の暗闇の場合よりも見事に、相手を補足できる。その暗闇は結局は保護の役目しか果していなかったのだから。今や、可視性が一つの罠である」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.202」新潮社 一九七七年)

 

そして何が達成されたか?素顔の仮面化あるいは仮面としての素顔。バルザックにならって言うしかないのだろうか。これは<人間喜劇>だと。ところが今や喜劇でも悲劇でもその両方をもってしても満足できる人間は大変少なくなった、ほとんど見あたらない、という非常事態がマス-レベル(大文字の言葉)で連日連夜放送されている。だからもし満足したいというのなら、とにかく新型へ買い換えろ買い換えろと、金を使え金を使えと、金遣いは粗ければ粗いほどいいとでも言いたげな様子で情報宣伝競争ばかり繰り広げられている。空しい。買うためには貨幣を手に入れなければならない。「ばらまき依存」が始まる。だがこの種の「ばらまき」の罠の怖さは誰もが知っている。「受け取っただろう。では<黙秘せよ>」。なんと懐かしい響きだろう。この脅迫。あからさまな脅迫。

 

稀に見るシャルリュスの絶句。言葉を失う。

 

「激昂したシャルリュス氏は、あたかも神経の発作にのたうつばかりで、見た者はだれしも震えあがってしまう。しかしそうなるのは、この場合、氏が機先を制してみずから攻撃を仕掛け、言いたい放題をぶちまけるからである(ブロックが、率先してユダヤ人をからかう言辞を弄するくせに、目の前でだれかがユダヤ人という語を口にすると赤面するのに似る)。氏がこうした人たちを憎むのは、その人たちから軽蔑されていると想いこむからだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.291~293」岩波文庫 二〇一七年)

 

瞬時に到来する「赤面」への言及。プルーストはブロック特有の二重の態度について述べている。二箇所。

 

(1)「ある日、サン=ルーと私が砂浜に座っていると、すぐ横のテントから、バルベックにはイスラエルの民がうじゃうじゃとはびこっているという呪詛(じゅそ)のことばが漏れ聞こえてきた。『一歩あるくだけでヤツらに出くわすんだ』とその声は言っていた、『俺だって原則としてユダヤの民に絶対反対というわけじゃないが、ここは過剰だ。聞こえてくるのは<ねえ、アプラハム、ぽくシャコプにてあったよ>てな声ばかり。まるでアブキール通りにいるみたいだ』。ヤコブの子孫を糾弾していた男がようやくテントから出てきたので、私たちは目をあげてその反ユダヤ主義者を見た。私の友人のブロックだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.218」岩波文庫 二〇一二年)

 

(2)「『失礼ながら、あなたは、』とブロックは、ほかの人たちといっしょに紹介されたアルジャンクール氏のほうを向いて言った、『あなたはきっとドレフェスを支持しておられますね、外国じゃみんなドレフェス派ですから』。『それはフランス人同士のあいだでしか問題にならない事件だ、とおっしゃりたいのでしょ?』と答えたアルジャンクール氏には、相手が今しがた口にした意見とは逆の見解、つまり相手がとうてい同意できないのが明らかな見解、それを相手の意見にしてしまおうとする特殊な横柄さが認められた。ブロックは赤面した」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.169~170」岩波文庫 二〇一三年)

 

しかし昨今、(2)のような場面に遭遇することはほとんどない。というのは化粧するしない以前の問題、「赤面」するともしないともつかない<顔貌性という問題>が圧倒的多数を占めるに立ち至ったことが主要因をなす。<制度としての顔>。先ほどガタリから引いたばかりだが、ドゥルーズ=ガタリという二人の取り組みになってもなお記述に変化が見られるため、ここではまだ一概に言えない。もっと後に立ち返ってくることになるのでその時に述べる。なのでもし今なお「赤面」するとしたら、また別に、次のようなサン=ルー(ロベール)のケースがむしろ逆に多く見られるだろう。

 

「頭のいい友人のだれかが社交上の失態を演じてみっともない羽目におちいるたびにサン=ルーは、自分のほうはそんなことを気にしなくても、友人のほうがそのみっともなさに気づいたら赤面するにちがいないと察し、相手の感情を傷つけるのではないかと怖れてぎこちなくなる。すると自分があやまちを犯したかのごとくロベールのほうが赤面する」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.219」岩波文庫 二〇一二年)

 

サン=ルー(ロベール)の「赤面」は記号論的<切断=接続>との著しい一致を示している。モダンである。だがーーー、話を戻そう。シャルリュスの絶句。プルーストは「パントマイム」と呼んでいる。ユーモアの発露。

 

「いわれなき不意の驚愕をあらわす不朽のパントマイムは古来ほとんど変わりがないから、パリのサロンで不愉快な災難に遭遇したこの老紳士が知らず知らずのうちに再現していたのは、牧神(パン)に追われるニンフたちの恐怖を初期のギリシャ彫刻が様式化したいくつかの図式的姿勢であった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.293」岩波文庫 二〇一七年)

 

しかしこの比喩はいささかステレオタイプ(紋切型)めいている。研究素材としては面白いのかも知れないが。とはいえ「パントマイム」の<不朽性>という点で近現代的な地平を際立たせずにはおかない。

 

「エゴン・シーレ特集」。「ヌード」ではなく「ネイキッド」。破壊的な、実に破壊的な、その可能性。

 

「パントマイムに限らず、世紀転換期のドイツ語圏でモダン・ダンスのようなパフォーミング・アーツが世の人々に、そして美術家たちにもたらした新しい身体意識の衝撃は大きかった」(香川檀「<ネイキッド・ポートレイト>の黎明期」『ユリイカ・2023・02・P.165』青土社 二〇二三年)

 

時間が来た。もう外へ出ないといけない。今日の読書は村上春樹「一人称単数」(文春文庫)

 

話が違うのでは、と思う読者はどこか<ずれ>ているに違いない。もっとも、どこにでもいる<市民としての力>は、この、<ずれ>ないではいられない日常とともに、<ずれ>ることを怖れない<力>にあると言えるだろう。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて238

2023年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で69パーセントの予想。湖東方面も曇り。鈴鹿峠は晴れのようです。

 

午前六時二十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.9)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.9)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.2.9)

 

二〇二三年二月九日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

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