遅くはないだろう。プルースト作品の中で描かれる記号論的作用と鏡の乱反射が生み出す効果との<相同性>について。両者は手に手を取り合いながら絡まり合い、なおさら事態をますます膨張させずにおかない。
「それゆえおそらく私の内部に息づいていたのは、私の理性がおよその見当をつけたアルベルチーヌ像とはまるで正反対のアルベルチーヌ像だったのだろう。とはいえ、まるっきり作りもののアルベルチーヌ像というわけでもなかった。なぜならその像は、私がヴェルデュラン家へ出かけたことで不機嫌になったように、アルベルチーヌの内心に生じたある種の動揺をわが心に反映する鏡のようなものだったからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.353」岩波文庫 二〇一七年)
差し当たり二点、拾っておこう。
(1)「まるっきり作りもののアルベルチーヌ像というわけでもなかった」。
なぜそうなるのか。プルースト自身が述べている。「あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びてい」る、と。
「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)
(2)「アルベルチーヌの内心に生じたある種の動揺をわが心に反映する鏡」。
よくあることだ。精神的苦痛を身体的症状へ<置き換え>ること。あるいは<転移>。フロイトはいう。
「ヒステリーでは、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を《身体的なものに置きかえた》結果としてできるが、これについて私は《転換》という名前を提案したい」(フロイト「防衛-神経精神病」『フロイト著作集6・P.10』人文書院 一九七〇年)
さて。連日連夜騒々しい戦争報道。歴史考察のきっかけにはなる。けれどもただ単なる「きっかけ」だけなら、もっと遥か身近なところで、しょっちゅう起こっている。ニーチェはいう。「夢を見よ」と。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)
戦争報道と報道戦争とがごちゃ混ぜにされて視聴者に提供され続け、そしてだんだん形成されてくる「世論」という問題。それについて最も注意深い検討と反省とを加え続けていかねばならない日本のすべての政治政党。ところが、議論が急所に差しかかるやいつも乱用される雑駁この上ない方法が今なお平然と流通している。「持ち帰って検討する」という方法。だがしかし余り「持ち帰って」ばかりいると今度は「住宅難」という問題が発生してくる。
「《古い家に住む新しい意見》。ーーー意見の革命のあとに制度の革命が必ずしもすぐ続くものではない。むしろ新しい意見は長い間その先輩たちの荒廃した無気味になった家に住みつづけ、住宅難から自分でもそれを保管する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四六六・P.401」ちくま学芸文庫 一九九四年)
政治的課題の「住宅難」事情について、何をどうしたいのか、その作業はいつまでに達成されなくてはいけないのか。そうすれば何がどうなるのか。ドゥルーズのいう<政治-管理>の問題。
政治的課題を取り扱う不動産業者とでも呼べそうな人々が、うろちょろしている光景が視界の隅を横切らない日はもはやない。