アルベルチーヌが<私>を待つ部屋について。家に到着した時、「下から見あげたこの光の縞模様」と説明される。幽閉されているアルベルチーヌ。いつも<私>の身体に紐づけられていて離れてくれなくなってしまっったアルベルチーヌ。<監禁する>とはそういうことでもある。熟視すればするほど逆に向こう側からますます熟視し返してくる。しかし<私>とアルベルチーヌとの境界は<未知の女>という言葉で決定的に仕切られている。鏡の効果。鏡像の側へ簒奪された<私>。<私>はアルベルチーヌなのだろうか。アルベルチーヌの側が<私>なのだろうか。アルベルチーヌは監禁された「宝物」であると同時に「その宝物と引き換えに、私はおのが自由と孤独と思考とを捨て去っていた」。
「下から見あげたこの光の縞模様、他人にはただそれだけのものに見えただろうこの縞模様に、私が極端なほどの実体性、充実感、堅牢性を付与したのは、その背後の宝物というべきもの、他人には想いも寄らない宝物、私がひそかに隠していて、そこからこの光の横縞が出てくる宝物に、もちろん私があらゆる意味をこめていたからであるが、だがその宝物と引き換えに、私はおのが自由と孤独と思考とを捨て去っていたのだ。もしあの上の部屋にアルベルチーヌがいなかったら、また私の望みが快楽を得ることだけであったなら、私はもしかしたらヴェネツィアで、それが無理ならせめて夜のパリの片隅で、未知の女たちにその快楽を求めに行っただろうし、その女たちの生活のなかにはいりこもうとしたことだろう。ところが愛撫の時がやって来た今、私がしなければならないのは旅に出ることではなく、いや、外出することでさえなく、家に帰ることだった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.322」岩波文庫 二〇一七年)
単純に見ただけではあたかもフロイトのいう「ほれこみ」状態へ陥ったのかと錯覚してしまう。
「ほれこみの現象の中で、最初からわれわれの注意をひいたのは性的な過大評価という現象である。つまりそれは、愛の対象にたいしてある程度批判力を失ってしまって、その対象のすべての性質を、愛していない人物やあるいはその対象を愛していなかった時期に比べて、より高く評価するという事実である。感覚的な追求の抑圧、ないしその制御が少しでも効果があると、対象はその精神的な長所のために、感覚的にも愛されているというような錯覚が起こるが、事実はその反対で、感覚的な魅力がその対象にそんな長所をあたえたのかもしれないのである。
この場合、判断をあやまらせるものは《理想化》の努力である。もしそうだとすると、理論的な見とおしがつけやすくなる。われわれは対象が自分の自我と同じように扱われているために、ほれこみの状態では自己愛的リビドーが大量に対象にそそがれることを認めている。愛の選択の多くの場合に、その対象は自分が到達できない自我理想の代役をしていることさえあるのである。対象が愛されるのは、自分の自我のために獲得しようとつとめた完全さのためであって、この迂り路をへて自分から自己愛の満足のために、この完全さを得たいと願っていたのである。
性的な過大評価とほれこみがさらにすすむと、上記の解釈はますますはっきりしてくる。直接の性的満足をめざす追求は完全に押しこめられるが、それは、たとえば若者の熱狂的な愛にいつも見られるものである。そして、自我はますます無欲で、つつましくなり、対象はますます立派に、高貴なものになる。最後には、対象は自我の自己犠牲が、当然の結果として起こってくる。いわば対象が自我を食いつくしたのである。謙遜と自己愛の制限と自己の損傷、これらの特徴は、どんな場合のほれこみにもつきものなので、極端な場合にも、もっぱらこの特徴がつよめられ、感覚的な要求は後退してしまうために、ただそれだけが支配するようになる。
不幸な、満たされぬ愛の場合とくにそのようになりやすい。というのは、性的満足のたびごとに性的な過大評価は、いつも減じてゆくからである。対象にたいする自我の『献身』と同時にーーーもはやそれは、抽象的理念にたいする昇華された献身と区別されえないがーーー自我理想によって方向づけられていた機能は完全に働かなくなる。自我理想の機能が行使するはずの批判は沈黙し、対象がなすこと欲することは、すべて正当で非難の余地がないものになる。良心は、対象の利益になる一切のものごとには全然適用されなくなる。そのために、愛に目がくらんだ者は犯罪をおかしても悔いをのこさない。このような事態は、すべて、あますところなく次の公式に要約される。すなわち、《対象は自我理想のかわりになったと》」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.228~229』人文書院 一九七〇年)
フロイトが「判断をあやまらせるものは《理想化》の努力である」とか「愛に目がくらんだ者は犯罪をおかしても悔いをのこさない。このような事態は、すべて、あますところなく次の公式に要約される。すなわち、《対象は自我理想のかわりになったと》」とかの言葉で名指しているのは二つ。(1)宗教教団と(2)軍隊とである。あるいは<宗教的軍隊・軍事的信仰・カルト主義的ナショナリズム>というべきか、ナチスドイツは、フロイトによるこの指摘を、(1)(2)ともにごた混ぜにしつつほとんどそのまま地で行ったタイプなのかも知れない。
ところがプルーストの場合、いかにもありそうなその種の読解はひとまず置いて、あえて逸れてみる。文章はこう続いている。
「しかも家に帰るのは、自分の思考に外から栄養を与えてくれる他人と別れ、ひとりきりになって少なくともその栄養を否応なく自分自身のうちに求めるためではなく、それどころかヴェルデュラン家にいたとき以上に孤独でなくなるためであって、いまや私を迎えてくれる人に自分の人格を隅々まで譲り渡してしまい、いっときたりとも自分のことに想いを馳せる暇もなく、相手が私のそばにいるからには、相手のことも考える必要がなくなるのだ。それゆえ私は、最後にもう一度目をあげて、はいってゆこうとしている部屋の窓を外から見やったとき、その光の鉄格子のなかへいまや自分自身が閉じこめられるのを見る想いがしたうえ、その鉄格子の黄金色の頑丈な柵は、わが身を永遠の隷属状態に置くために私がみずから鍛造したものである気がした」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.322~323」岩波文庫 二〇一七年)
アルベルチーヌを「隷属状態」に置くこと。ずっと前に果たされている。
「アルベルチーヌの隷属状態のおかげで、私はそんな女たちから苦しめられることがなくなり、女たちは美の世界へ復帰したのだ。心に嫉妬を突きさす毒針を失って無害になったその女たちを、私は思うがままに賛美し、まなざしで愛撫しているわけで、いつかもっと親密に愛撫することもできるかもしれない。アルベルチーヌを閉じこめると同時に、私はさまざまな散歩道や舞踏会や劇場で羽ばたくこれら玉虫色の翼をことごとく世界へ返したわけで、アルベルチーヌがもはやその誘惑に屈するはずがない以上、そうした翼がふたたび私の心を誘発するのだ。それらの翼こそ世界の美をつくっているのだ。それはかつてアルベルチーヌの美をつくり出していたものである。私がかつてアルベルチーヌに目を奪われたのは、相手を神秘の鳥とみなしたからで、ついで皆の欲望をそそって誰かのものになっているやもしれぬ浜辺の大女優とみなしたからにほかならない。ある夕方、どこから来たのかも定かでないカモメの群れのような娘の一団にとり巻かれて堤防のうえをゆっくり歩いてくるのを見かけた、そんな鳥であったアルベルチーヌも、ひとたびわが家の籠の鳥と化すと、ほかの人のものになる可能性をいっさい喪失するとともに、あらゆる生彩を喪失してしまった。かくしてアルベルチーヌはすこしずつその美しさを失ったのである。私の嫉妬はたしかに想像上の楽しみの減退とはべつの道をたどりはしたが、それでも浜辺の輝きにつつまれたアルベルチーヌをふたたび目にするためには、アルベルチーヌが私を抜きにしてほかの女性や青年から話しかけられているすがたが想像される昔日のような散歩を必要とした。しかし、そんなふうにほかの人たちの欲望の対象となってアルベルチーヌが私の目にふたたび不意に美しさをとりもどす飛躍がこれまで何度もあったとはいえ、私はアルベルチーヌがわが家に滞在していた時期をふたつに分けることができた。アルベルチーヌが日増しに衰えてゆくとはいえいまだに浜辺の玉虫色にかがやく女優であった最初の時期と、灰色の囚われの女となり、冴えない自分自身と化して、生彩をとり戻してやるには私が過去を想い出すときの稲妻のような光が必要になった第二の時期である。アルベルチーヌが私にとってなんの興味も惹かなくなってからでも、ときにふと昔のひとときの想い出がよみがえることがあった。それは私がまだアルベルチーヌと面識がなかったころ浜辺で、私とは犬猿の仲であったある婦人、いまの私にはアルベルチーヌと関係をもっていたことがほとんど確実に思われるその婦人のそばにいたアルベルチーヌが、私を横柄に見つめながらはじけるように笑ったことだ。まわりには滑らかな青い海がさざめいていた。浜辺の日射しのなかで、友人の娘たちに囲まれたアルベルチーヌはとび抜けて美しかった。くだんの婦人が心酔しているかけがえのない出色の娘が、あのいつもの大海原を背景に、私をそんなふうに侮辱したのだ。その侮辱がとり消せなくなったのは、当の婦人がもしかするとバルベックへ戻ってきて、光あふれ波音さざめく浜辺にアルベルチーヌがいないことに気づいたかもしれないが、その娘がいまや私と暮らしていて私だけのものになっていることは知らなかったからだ。広く青い大海原、その娘へと向かいつぎにべつの娘たちへと向かった婦人の愛情の忘却、それらはアルベルチーヌから受けた侮辱を前に崩れ去って、まばゆく壊れない宝石箱のなかにいその侮辱だけが閉じこめられた。すると私の心は、その婦人にたいする憎悪に駆られた。アルベルチーヌにたいする憎悪も同様であったが、こちらの憎悪には、ちやほやされた美しい娘、すばらしい髪を備え、浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持も混じっていた。このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与したのである。こんなふうにアルベルチーヌのそばで感じるいささか重苦しい倦怠と、輝かしいイメージと哀惜の念にみちた身震いするほどの欲望とが交互にあらわれたのは、アルベルチーヌが私の部屋でそばにいるかと思えば、ふたたび自由を与えられ、私の記憶のなかの堤防のうえで例の陽気な浜辺の衣装をまとって海鳴りの楽奏に合わせて振る舞うからで、あるときはそうした環境から抜け出し、私のものとなって、さしたる価値もなくなり、あるときはその環境へ舞い戻り、私の知るよしもない過去のなかへ逃れて、恋人である例の婦人のそばで、波のしぶきや太陽のまばゆさに劣らず私を侮辱する、そんなアルベルチーヌは、浜辺に戻されるかと思えば私の部屋に入れられ、いわば水陸両棲の恋の対象だったのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.386~389」岩波文庫 二〇一六年)
この長いセンテンスで語られていること。それはアルベルチーヌの横断性についてだ。「アルベルチーヌは、浜辺に戻されるかと思えば私の部屋に入れられ、いわば水陸両棲の恋の対象だった」とあるように。またそのような状況下で<私>が見るアルベルチーヌは「植物」にも「音楽」にも<なる>。生成変化を生きる。
「なにかを取りにゆく口実を設けていっとき部屋を出て、そのあいだアルベルチーヌを私のベッドに横にならせておいた。戻ってみるとアルベルチーヌはもう眠っていて、私が目の当たりにしたのは、本人が完全に正面を向くとそうなるべつの女性であった。といってもアルベルチーヌはたちまちその個性を変えてしまう。私がそのそばに横になって、ふたたび横顔を見るからだ。私がその手をとったり肩や頬のうえに私の手を置いたりするのも自由自在で、アルベルチーヌはあいかわらず眠っている。その顔をかかえて乱暴に向きを変え、その顔を私の唇に押しあてたり、その両腕を私の首に巻きつけたりしても相も変わらず眠っているさまは、まるで止まらずに時を刻みつづける時計のようでも、どんな姿勢をとらせても生きつづける動物のようでも、どんな支柱を与えてもそこに蔓(つる)を伸ばしつづける蔓性植物マルバアサガオのようでもあった。私が手を触れると、そのたびに寝息だけが変化する。まるでアルベルチーヌ自身が一つの楽器で、演奏する私がその弦のひとつひとつから異なる音をひき出して楽器にさまざまな転調を奏でさせているかのようである。私の嫉妬は鎮まってゆく。その規則正しい寝息がはっきり示しているように、アルベルチーヌがただ息をする存在以外のなにものでもなくなったように感じられるからである。この寝息をつうじて表現されているのは純粋に生理的な機能であって、この機能は、さらさらと流れるだけで、ことばの厚みも沈黙の厚みを持たず、いかなる悪も知らないがゆえに、人間から出てきたというよりも葦(あし)のうつろな茎から出てきた息吹というべきか、それに耳を傾けているとアルベルチーヌが肉体的のみならず精神的にもあらゆるものから守られていると感じる私にとっては、文字どおり天国の息吹であって、まさに天使たちの汚れなき歌声であった。とはいえふと私は、この寝息のなかには、記憶がもたらす多くの人間の名前が奏でられているのかもしれないと思った。この音楽にときに人間の声が加わることもあったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.243~244」岩波文庫 二〇一六年)
横断的であるばかりか何ものにでも変身可能なのだ。「その鉄格子の黄金色の頑丈な柵」とあるけれどもその中にいるのは逆に<私>だ。かといってアルベルチーヌは解放されたわけでは決してない。何が起こっているのだろう。
「ヴェルデュラン家にいたとき以上に孤独でなくなるためであって、いまや私を迎えてくれる人に自分の人格を隅々まで譲り渡してしまい、いっときたりとも自分のことに想いを馳せる暇もなく、相手が私のそばにいるからには、相手のことも考える必要がなくなる」。
アルベルチーヌと同一化するわけでもまたない。限りなく薄くそぞろに漂うばかりの<私>という存在。<私>はアルベルチーヌにまとわりつきつつその身体をすうっと吹き抜ける「すきま風」のようだ。
「私としては、夫妻から指摘される美しいものには心を動かされず、わけのわからぬおぼろげな回想に陶然としていたのだ。ときに私は、その名から想像していたものが目の前の実物には見出せないと言って、私の幻滅を夫妻に打ち明けたこともある。ここはもっと田舎だと思っていたと言って、カンブルメール夫人を憤慨させもした。それにひきかえ戸口からはいってくるすきま風にはふと立ちどまり、その匂いを嗅いで陶然とした。『すきま風がお好きなんですね』と夫妻は私に言った」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.217~218」岩波文庫 二〇一五年)
報告者<私>はただ単なる報告者であるばかりでなく報告者としての条件を常に分かち与えられている、或る種の<共鳴・共振>を生きる。その場にいることもあり、なおかつ、いないこともある、というような<すきま風>に似ている。不意に、どこにいるのか曖昧この上ない位置決定不可能性としてしか感じ取れなくなる。だが確かに<共鳴・共振>する報告者ではある。<私>は「すきま風」に<共鳴・共振>する。<私>は遠く、もっと遠く、それでもなお<共鳴・共振>する。ただひたすらーーー。
そしてまた「エゴン・シーレ特集」。シーレ作品という<共鳴・共振>の「特権性」はもはや複製可能・反復可能な残骸としてしかあり得ないということについて。阿部真弓はシーレの絵画の履歴書に対し、一九一二年<動く大気の中の秋の樹木>を筆頭とした「抽象的傾向」を推し進めることができたにもかかわらず、なぜそうしなかったのかと問う。「反=因襲的瞬間」という「特権性」。そこに位置することができた。なのになぜ、これもまたフロイトの匂いをまとった言葉ではあるのだが、晩年の作品群は逆に「退行」ではないだろうか。問われている事情はこうだ。
「けっして反復できないはずの、反=因襲的瞬間の絵画。だが、そのイメージは複製可能である。絵もまた、紙に刷られることで、鞄(かばん)につめて持ちはこぶことができるようになった。詩のように」(阿部真弓「絵画の反=因襲的瞬間」『ユリイカ・2023・02・P.86』青土社 二〇二三年)
この点について、現代社会の「消費対象としての文化」を問う形で、ホルクハイマー=アドルノはいう。二箇所。
(1)「ことさらに『美しき心』などを強調するのは、社会が自ら創り出した苦しみを自認する場合のやり口なのだ。誰だって現体制のうちでは、もはや自分自身を救うことはできないのを知っている。そしてそのことをイデオロギーは考慮に入れておかねばならない。そういう苦しみをその場しのぎの友愛のヴェールをかけて気軽に糊塗したりするどころか、それを雄々しく直視し、からくも平静を保ちつつ認めることに文化産業は自らの企業の誇りをかけているのだ。覚悟を決めようとするパトスは、否応なく覚悟を決めさせる世界を正当化する。人生とはしょせんこういうものだ。きびしくはあるが、だからこそ素晴らしくも健康なものなのだ。この手の欺瞞は悲劇の前でもたじろぎはしない。全体社会がその成員たちの苦しみを廃棄するどころか、それを登録し設計したりするのと同じように、大衆文化は悲劇を取り扱う。だから性懲りもなく芸術を盗用するのだ。大衆文化は、純粋な娯楽ものが自前では調達できないが、それでいて世相を正確に映しとるという原則にいくらかでも忠実であろうとすれば、どうしても欠くことのできない悲劇的な内容を提供するものなのだ。悲劇もすでに勘定に入れられ肯定された世界の要素にされてしまえば、それは世界に祝福の鐘を鳴らすものとなる。そういう悲劇ものは、じつは人がシニカルにいかにも残念そうに真理とはしょせんこういうものだと勝手に思い込んでいるだけなのに、〔お前は〕真理を充分に直視していないという非難から彼を守ってくれる。悲劇ものは検閲済みの幸福の味家なさを興味深いものにし、興味深さを手軽なものにする。悲劇ものは、文化的によりよき日々を見たことのある消費者には、長らく打ち捨てられていた『深さ』の代用品を、常連の客には、体裁をつくろうためには身につけなければならない教養の屑を提供する。それはすべての人に対して、厳として真正の人の運命(さだめ)というものもまだありうるのであり、その仮借ない叙述は人当たりのいいものではないという慰めを与えてくれる。すき間なく閉じこめられた現実の生(ダーザイン)、今日ではイデオロギーがその二重化にやっきとなっているのだが、それがますます根本的にどうにもならない苦しみによってふさがれるにつれて、それはますます壮大で輝かしく力強い力を発揮するようになる。現実の生が運命という相貌をおびてくる。悲劇はかつては神話的な脅威に対する希望なき抵抗のうちにその逆説的意義を持っていたのだが、今やそれは同調しない者は滅ぼされるというレベルへと水平化される。悲劇的運命は『当然の罰』へ移行する。悲劇的運命を『当然の罰』へ変えることが、昔から市民的美学の憧れの的だったのだ。大衆文化のモラルは、一昔前の少年読物のモラルの廉価版である」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・P.309~311」岩波文庫 二〇〇七年)
(2)「若い女の子がお義理でデートを約束してはそれを済ませるやり方、電話口での〔よそ行きの〕口のきき方とぐっとくだけた場でのおしゃべりの仕方、会話にあたっての言葉の選び方、いやさらに、落ち目になった深層心理学の整序概念によってすっかり区分けされた全内面生活を含めて、それらすべてが証示しているのは、自分自身を、情動の内部に至るまで文化産業が提供するモデルに見合った効率的装置に仕立てようとする試みなのだ。人々のもっとも親密な反応さえも自分自身に対して完全に物象化しているために、もはや人間に固有なものという理念は極端に抽象的な形でしか生き残っていない。パーソナリティとは、彼らにとっては、ほとんど白く輝く歯以外の、腋の下の汗や感情の動きからの自由以外の、何ものをも意味しない。これこそ文化産業における広告の勝利であり、同時に〔その正体が〕透けて見える文化商品に対する、消費者たちの強制されたミメーシスなのだ」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・P.338」岩波文庫 二〇〇七年)
さらに阿部真弓から引こう。
「およそ無味乾燥な機械的複製のプロセスと、感情的要素をかぎりなく排したアプロプリエーションと、あらたな命名と署名とをとおして、救いがたいほどのナルシシズムの表象さえもが、無化されてしまいうる。反=因襲的瞬間という特権性は、コピーの反復のなかに、雲散霧消する。あらゆる型破りなイメージは、複製可能なイメージとして、ありふれたものと化す」(阿部真弓「絵画の反=因襲的瞬間」『ユリイカ・2023・02・P.87』青土社 二〇二三年)
ニーチェはいつもその危険性について敏感に反応している。
「《機械文化への反作用》。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫 一九九四年)
そしてドゥルーズはいう。
「現在の資本主義は過剰生産の資本主義である。もはや原料を買いつけたり、完成品を売ったりするのではなく、完成品を買ったり、部品を組み立てたりするのである。いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである。だから現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場が企業に席をあけわたしたのである。家族も学校も軍隊も工場も、それが国家でも民間の有力者でもかまわないなら、とにかくひとりの所有者だけで成り立つ同じひとつの企業が、歪曲と変換を受けつける数字化した形象にあらわれるようになるのだ。芸術ですら、閉鎖環境をはなれて銀行がとりしきる開かれた回路に組み込まれてしまった。市場の獲得は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。コストの低減というよりも相場の決定によって、生産の専門化よりも製品の加工によって、市場が獲得されるようになったのだ。そこでは汚職が新たな力を獲得する。販売部が企業の中枢ないしは企業の『魂』になったからである。私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す。規律が長期間持続し、無限で、非連続のものだったのにたいし、管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度の貧困にあるという状態を、みずからの常数として保存しておいたということも、やはり否定しようのない事実なのである。借金させるには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。管理が直面せざるをえない問題は、境界線の消散ばかりではない。スラム街のゲットーの人口爆発もまた、切迫した問題なのである」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・追伸ー管理社会について・P.363~364」河出文庫 二〇〇七年)
もはや「米中」問題というだけでは全然済まされない問い。放置しておいていいのだろうか。