プルーストの創作方法をどこかに探し求める場合、どこに探し求めるか。作品の外をどれほど探し回ってみたところで見つかるはずはない。それはいつだって作品の中に組み込まれている。「習慣」についての考察にこうある。
「人がその日その日を生きてきたのは、たとえ辛くてもそれが耐えられる日々であったからで、平凡な日常につなぎとめられていたのは、習慣のバラストのおかげであり、翌日がどんなに過酷であろうとそこには愛する人の存在が含まれるはずだという確信のおかげである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.369~370」岩波文庫 二〇一七年)
「習慣のバラストのおかげ」。その場合、中心点は動かない。なるほど安心安全でいられる。ただ、それは単に自分の気分だけのことでしかない自惚れに過ぎない。周辺は凄まじい速度で速かったり逆に遅かったりを繰り返している。
次いでプルーストは「習慣という支え」について言及する。
「どんなはったりを利かせようと、だまそうとする相手がどう出るかについては、やはり一抹の不安が残るものだ。この別離の芝居がほんとうの別離へとゆき着いたらどうしよう!起こりそうもないこととはいえ、そんな可能性を考えるだけで胸が締めつけられるような想いがする。そのとき人は二重に不安になる。というのもそんな別離が生じるのは、えてしてそれがとうてい耐えられないときであるうえ、女に苦しめられたばかりのときで、当の女はこちらの苦痛を癒すことも、せめてその苦痛を鎮めることもなく、去ってゆくからだ。要するにわれわれは、悲嘆に暮れているときでさえ拠りどころにする習慣という支えまで失うのである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.370~371」岩波文庫 二〇一七年)
ということは「習慣」に慣れ親しんで始めて、人間は自分自身の生を営んでいくことができる、とそう言うのだ。ところが<私>はこれまで大変苦労して身につけてきた「習慣」が、今度は、こっそりと反作用、あるいは錯覚を起こし出していたことに気づく。しかし気づいたときすでにそれは「途方もなく巨大化し、ほかでもない、もはやかならずしも当てにできなくなった人の存在をわれわれにとって必要不可欠なものたらしめる」。
「われわれはみずから進んでその拠りどころを捨て去り、きょうの一日のみを例外的に重視して、前後の日々からその日だけを切り離したせいで、その日はまるで旅に出る日のごとく根なし草のようにただよい、想像力が習慣によって麻痺させられることをやめて目を覚ましたからか、われわれが日常的な愛情にいきなり感傷的な夢想をつけ加える結果、夢想がその愛情を途方もなく巨大化し、ほかでもない、もはやかならずしも当てにできなくなった人の存在をわれわれにとって必要不可欠なものたらしめるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.371」岩波文庫 二〇一七年)
プルーストがこの箇所で使っている「想像力」というのは、例えば、今日の文化・芸術業界におけるポストモダン的巨大化を惹起させるに十分余裕のある態度変更から生じる<力>を指す。そしてそれは決して「マッチョ」なものとはまるで関係がない。だがこの、態度変更から生じる<力>なくして、人間は、ある種の家畜として育てられ身体を通して叩き込まれ、思わず知らずのうちに<誘導・洗脳>され、骨身に染み込み、もはや根絶しがたいレベルにまで達した「習慣」と訣別することはできない。まったく別の、とともにまったく新しい価値体系へ移動することはできない。結局のところ、できるのかそれともできないのか。少なくともプルースト作品は<できる>と告げている。何度か引用してきた。繰り返そう。
「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
どうしてそう言えるのか。言えるとして、それはどこまで確かか。ここまで読んでくれば慌てる必要はほとんどない。人間は人間以外の何ものにもなれない。間違ってもきりぎりすにはなれない。逆に蟻の側に近い。きりぎりすにしても蟻にしても、どちらもいずれ力尽きる。新しい人々が新しい世界をつくっていく。だが新しい人々がつくっていくに違いない新しい世界が、どこからどう見ても今より少しはましなユートピアであるとは必ずしも限らない。
というより、古い言葉に喩えると、加速的に「一寸先は闇」の世界に舞い戻ってきつつある気配を察してやれば、それも大人がそうしてやらねば、今の「未来の子どもたち」の将来はたちどころに暗雲立ち込めるディストピアへ転がり落ちていくしかない。
とりわけ問題なのはテレビCM。NHKにはCMがない。それはテレビ放送自体が全面的にテレビCMと化しているからである。<テレビCMのポストモダン的巨大化としてのNHK>ということができる。かといって民放がすべて安全かといえばそうでもない。民放の場合、或る特定の情報番組自体、何食わぬ顔でポストモダン的巨大化をとっくに果たしてしまっているからである。その一例が、邪魔だ邪魔だと非難殺到の「ワイプ芸」。そう、いかにも何食わぬ顔で。何一つ知らぬ顔でーーー。