白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・ジャン=リュック・ゴダールつまみ食い宣言

2023年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

思い出した。学生時代。大学の図書館の棚に「GS」という分厚い雑誌が置いてあった。手に取ってみるとジャン=リュック・ゴダールについて浅田彰との対談で松浦寿輝が言っていた。「不断の半勃起」。今度は場所を変えて菊池成孔が浅田彰との対談で引っ張り出してきた。

 

「85年に出た『GS』だけなんですよね。詩人でもあり、ゴダールの研究家でもある松浦寿輝さんと浅田さんの対談。ここで出たのが有名な『不断の半勃起』という言葉」(浅田彰/菊池成孔「こんなかっこいい人はいない」『ジャン=リュック・ゴダールの革命・P.20』Pヴァイン 二〇二三年)

 

今なお対談に意義があるすれば、対談というやりとりの中からふいに出現する新しい言葉との出会いに立ち会うことができるかどうか、という点にかかっている。そうでない対談というのはただ単なる暇つぶしの「座談あるいは無意味な猿芝居」でしかない。時間の無駄、お金の無駄。

 

それはそれとして。ゴダール作品を前期/中期/後期と三分割してみる。すると後期作品が「不断の半勃起」状態に当たる。ゴダールは昨年死去した。学生時代はその他もろもろのことでいろいろ混みいった事情を抱えていたため、ゆっくりゴダール作品に触れる機会がなかった。その後も逸し続けてきた。けれどもようやく、何だか動き出せそうかなと思っていた矢先、去年の死去報道に接することになった。

 

もっと観ておくべきだった。もう遅い。とはいえ、もともと映画を見たい気持ちはある。で、差し当たり二作品(「勝手にしやがれ」、「気狂いピエロ」)のDVDを手にいれた。今日届いたばかり。ほかの作品も手に入り次第、順番はばらばら、前期とか後期とか関係なく、極めてランダムに並べ換え、観ていこうと思う。

 

三月一杯ではとても無理。七、八月あるいは今年一杯はたっぷり費やす必要があるかもしれない。その間、統一地方選、春の人事異動、火祭り、夏休み、謎めいた帰省、秋祭り、安倍元首相一周忌、そして再び真冬の琵琶湖。さらに謎めいた年末年始の帰省。「いつも冬」。

 

DVDを購入しようにも手元にあるのは雀の涙ほどもない当面の、必要最低限を下回る、生活費のみ。しかしラディカルな意味で極めて<ポップ>なジャン=リュック・ゴダール作品にとって、今の日本の基本的人権などという、あってないに等しいにもかかわらず、実際にあるかのようなせいぜいご立派な首相発言、島国全体に満遍なく行き渡っていて一つも問題ないかのような、この上ない瞞着にしてただ単なる「思わせぶり」に過ぎない<身振り>ほど不必要なものもそうないだろう。

 

 

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて276

2023年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れた一日でした。日の入の位置もすこしずつ移動しています。春分まであと半分くらいというところです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

日の入時刻に近づきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.27)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

二〇二三年二月二十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが5/NHK問題のポストモダン的巨大化としての民放情報番組

2023年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストの創作方法をどこかに探し求める場合、どこに探し求めるか。作品の外をどれほど探し回ってみたところで見つかるはずはない。それはいつだって作品の中に組み込まれている。「習慣」についての考察にこうある。

 

「人がその日その日を生きてきたのは、たとえ辛くてもそれが耐えられる日々であったからで、平凡な日常につなぎとめられていたのは、習慣のバラストのおかげであり、翌日がどんなに過酷であろうとそこには愛する人の存在が含まれるはずだという確信のおかげである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.369~370」岩波文庫 二〇一七年)

 

「習慣のバラストのおかげ」。その場合、中心点は動かない。なるほど安心安全でいられる。ただ、それは単に自分の気分だけのことでしかない自惚れに過ぎない。周辺は凄まじい速度で速かったり逆に遅かったりを繰り返している。

 

次いでプルーストは「習慣という支え」について言及する。

 

「どんなはったりを利かせようと、だまそうとする相手がどう出るかについては、やはり一抹の不安が残るものだ。この別離の芝居がほんとうの別離へとゆき着いたらどうしよう!起こりそうもないこととはいえ、そんな可能性を考えるだけで胸が締めつけられるような想いがする。そのとき人は二重に不安になる。というのもそんな別離が生じるのは、えてしてそれがとうてい耐えられないときであるうえ、女に苦しめられたばかりのときで、当の女はこちらの苦痛を癒すことも、せめてその苦痛を鎮めることもなく、去ってゆくからだ。要するにわれわれは、悲嘆に暮れているときでさえ拠りどころにする習慣という支えまで失うのである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.370~371」岩波文庫 二〇一七年)

 

ということは「習慣」に慣れ親しんで始めて、人間は自分自身の生を営んでいくことができる、とそう言うのだ。ところが<私>はこれまで大変苦労して身につけてきた「習慣」が、今度は、こっそりと反作用、あるいは錯覚を起こし出していたことに気づく。しかし気づいたときすでにそれは「途方もなく巨大化し、ほかでもない、もはやかならずしも当てにできなくなった人の存在をわれわれにとって必要不可欠なものたらしめる」。

 

「われわれはみずから進んでその拠りどころを捨て去り、きょうの一日のみを例外的に重視して、前後の日々からその日だけを切り離したせいで、その日はまるで旅に出る日のごとく根なし草のようにただよい、想像力が習慣によって麻痺させられることをやめて目を覚ましたからか、われわれが日常的な愛情にいきなり感傷的な夢想をつけ加える結果、夢想がその愛情を途方もなく巨大化し、ほかでもない、もはやかならずしも当てにできなくなった人の存在をわれわれにとって必要不可欠なものたらしめるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.371」岩波文庫 二〇一七年)

 

プルーストがこの箇所で使っている「想像力」というのは、例えば、今日の文化・芸術業界におけるポストモダン的巨大化を惹起させるに十分余裕のある態度変更から生じる<力>を指す。そしてそれは決して「マッチョ」なものとはまるで関係がない。だがこの、態度変更から生じる<力>なくして、人間は、ある種の家畜として育てられ身体を通して叩き込まれ、思わず知らずのうちに<誘導・洗脳>され、骨身に染み込み、もはや根絶しがたいレベルにまで達した「習慣」と訣別することはできない。まったく別の、とともにまったく新しい価値体系へ移動することはできない。結局のところ、できるのかそれともできないのか。少なくともプルースト作品は<できる>と告げている。何度か引用してきた。繰り返そう。

 

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

 

どうしてそう言えるのか。言えるとして、それはどこまで確かか。ここまで読んでくれば慌てる必要はほとんどない。人間は人間以外の何ものにもなれない。間違ってもきりぎりすにはなれない。逆に蟻の側に近い。きりぎりすにしても蟻にしても、どちらもいずれ力尽きる。新しい人々が新しい世界をつくっていく。だが新しい人々がつくっていくに違いない新しい世界が、どこからどう見ても今より少しはましなユートピアであるとは必ずしも限らない。

 

というより、古い言葉に喩えると、加速的に「一寸先は闇」の世界に舞い戻ってきつつある気配を察してやれば、それも大人がそうしてやらねば、今の「未来の子どもたち」の将来はたちどころに暗雲立ち込めるディストピアへ転がり落ちていくしかない。

 

とりわけ問題なのはテレビCM。NHKにはCMがない。それはテレビ放送自体が全面的にテレビCMと化しているからである。<テレビCMのポストモダン的巨大化としてのNHK>ということができる。かといって民放がすべて安全かといえばそうでもない。民放の場合、或る特定の情報番組自体、何食わぬ顔でポストモダン的巨大化をとっくに果たしてしまっているからである。その一例が、邪魔だ邪魔だと非難殺到の「ワイプ芸」。そう、いかにも何食わぬ顔で。何一つ知らぬ顔でーーー。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて275

2023年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で77パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.27)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.2.27)

 

二〇二三年二月二十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。