きょうは「猫の日」だそうだ。朝刊を見ると猫にかんする書籍広告がたくさん並んでいた。ほとんどが絵本とか写真集とか。それはそれでいいのだろう。しかし違和感を覚えないでもない。なぜなら猫は、人間が捏造した安物の<物語>とは今なお無縁でありつづけているように思うからだ。
猫の飼主として、絵本や写真集より遥かに猫に近いように見えるものがある。詩。例えば、萩原朔太郎の詩。
「海面のやうな景色のなかで
しつとりと水気にふくらんでゐる。
どこにも人畜のすがたは見えず
へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。
さうして朦朧とした柳のかげから やさしい待びとのすがたが見えるよ。
うすい肩かけにからだをつつみ
びれいな瓦斯体の衣裳をひきずり
しづかに心霊のやうにさまよつてゐる。
ああ浦 さびしい女!
『あなた いつも遅いのね』
ぼくらは過去もない未来もない
さうして《現実のもの》から消えてしまつた。ーーー
浦!
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ」(萩原朔太郎「猫の死骸」『萩原朔太郎詩集・P.385~386』岩波文庫 一九五二年)
逆に、飼主のことを猫はどう思っているのだろう。たぶんこんな感じだ。
「まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの屋根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』」(萩原朔太郎「猫」『萩原朔太郎詩集・P.129』岩波文庫 一九五二年)
ちなみにライオンは猫の仲間である。ライオンも猫も、地球上でどのような循環を営んでいるのだろう。バタイユはいう。
「動物の生においては、主人とその命令下にある奴隷という関係を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものもなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒すより高い波に過ぎない。ある動物が他の動物を食べるということは、根本的な情況を変えるものではまずないのである。全て動物は、《世界の内にちょうど水の中に水があるように》存在している」(バタイユ「宗教の理論・第一部・一・P.23」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)
「猫の日」。それはライオンの日でもある。だから今日は獅子の日なのだ。ニーチェはいう。獅子になること。獅子は猛獣として強奪する。かといって、獅子ですら不可能なことをやすやすとやってのけることのできる人間がいる。子どもだ。
「新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得することーーーこれは重荷に堪える敬虔(けいけん)な精神にとっては、身の毛のよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行なうことである。
精神はかつて、『汝なすべし』を、自分の奉ずる最も神聖なものとして愛していた。いまかれはこの最も神聖なもののなかにも、迷妄(めいもう)と恣意(しい)を見いださざるをえない。そして自分が愛していたものからの自由を強奪しなければならない。この強奪のために獅子を必要とするのだ。
しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、『然り』という聖なる発語が必要である。そのとき精神は《おのれの》意欲を意欲する。世界を離れて、《おのれの》世界を獲得する」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫 一九七三年)
ところで、あの泥猫の死骸は今、どこでどうしているだろうか。