プルーストは自分で自分自身を実験台の上に置く。<私>が<私>の感情の側を「隠しておき、それゆえ読者が私の発言だけを知ることになれば」、どうなるだろうかと。「その発言とはまるで辻褄の合わぬ私の行為は、読者にしばしば異様な豹変との印象を与えかねず、読者は私をほとんど気が狂ったかと思うだろう」
「しかし私がかりに読者に私の感情を隠しておき、それゆえ読者が私の発言だけを知ることになれば、その発言とはまるで辻褄の合わぬ私の行為は、読者にしばしば異様な豹変との印象を与えかねず、読者は私をほとんど気が狂ったかと思うだろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.355~356」岩波文庫 二〇一七年)
どこか仰々しい文章。その仰々しさが、こっそりとだが、考えられうるもう一つの試みを覆い隠すのに役立つことはプルーストがほかの誰よりもよく知っている。もう一つの試みとは何か。
例えばそれだけを独立させて作品化することはない。それは差し当たり<作品の外>のことであって、後になって作品の部分として組み込まれることもあれば組み込まれないこともある。それはいつも<諸断片>としてのみ存在するもので、この機会に発表するしかないと思うことがもしあれば、いつどのようにでも利用可能だ。それは何か。日記である。
先日新聞の新刊広告を見たら、キム・ナムジュ「82年生まれ、キム・ジヨン」(ちくま文庫)が紹介されていた。文庫化。もうそんな時間が経ったのだろうか。忘れていたわけではないが文庫化にはまだ早い気がした。もっとも、底辺生活者層にとってはうれしいわけだが。
とはいえ今回新聞広告を見て改めて目に入ったのは作家キム・ナムジュ、ではなく、翻訳に当たった斎藤真理子の名だ。去年の梅雨頃、一九四五年八月十五日について、三人の文筆家(吉沢久子、野上弥生子、田辺聖子)の日記を取り上げこう書いている。
「八月十五日。吉沢久子は『陛下の放送を、街中できき』たいと思い、神田駅近くの電気屋の前に立ったという。そして『放送が終わってまわりの人を見たら、やはり泣いている人はいたが、あげた顔に、戦争は終わったのだという明るさが見えたと思った』と書いた。野上弥生子は、『いづれにしても、これで五年間の大バクチはすつからかんの負けで終つたわけである』と記した」(斎藤真理子「三人の女性の『敗戦日記』」『図書・2022・7・P.63』岩波書店 二〇二三年)
八月十五日の受け止め方について、吉沢久子や野上弥生子が記した日記の場合、言葉の側から逆に、ずいぶん落ち着きのある態度をすでに身につけていたことがよくわかる。その二人の言葉と、当時、樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)に在学中で十八歳だった田辺聖子が日記に残した言葉との間には、明白な質的開きが認められる。田辺文学の是非は別として、八月十五日の当事者として、余りにも多感過ぎたのか嫌でも露呈してくる心の揺れを大きく感じる。斎藤真理子も前者の二人と田辺聖子との間にひと呼吸置いてみて、こう述べる。
「田辺聖子の八月十五日以後の日記は、一ページごとに『がんばって!』と声をかけたくなるような、『多感』そのものの毎日だ。敗戦の二日後には校長から『これからは、男子は戦争から帰ってくるから、女子は元のように家庭へ帰るべきである』という訓示がある。それについては何の感想も書かれていないが、かえってそこに田辺聖子の失望や虚脱が見えるような気がする。
『かつての日の感激と、大言壮語を私はさびしく思いかえし』という自己省察、『理由なき支那蔑視は排すべきであった』という覚醒、亡くなった父への思い、学びたい意欲、文学への夢。そして一九四七年三月四日、卒業式を目前にした日記には『さあこれから、経験を積み、人生観を高め、深く考えて、勇ましく人生の海へ乗り出してゆこう』と書かれていた」(斎藤真理子「三人の女性の『敗戦日記』」『図書・2022・7・P.63』岩波書店 二〇二三年)
キム・ナムジュ「82年生まれ、キム・ジヨン」文庫化に際して翻訳家としての斎藤真理子が気になったのはこの短文に目を通していたからである。としても、どんな女性も吉沢久子、野上弥生子、田辺聖子のようになれるわけではまるでない。上野千鶴子はいう。二箇所。
(1)「女性の職場進出がこんな暗いハナシばかりでいろどられていたら、そこまで犠牲を払って得られる自立なんてまっぴら、と女たちが思っても無理はない。けれど戦後三〇年余、女たちは強くなりつづけて、『仕事も家庭も』らくらくこなす女たちが現われた。
今では、バリバリのキャリアウーマンが、結婚して子どもを持っていても誰も驚かないし、女っぽい粧いであらわれたら、かえってセンスの良さをほめるくらいだ。たとえば『仕事か家庭か』の時代の私たちのヒーロー──ヒロインと言うべきだろうか?──は、結婚もせず、子どもも持たず、この道一筋に歩んだ大先輩、市川房枝さんのような人だが、今日、『仕事も家庭も』の時代のモデルは、主婦としての役割をこなした上で、なおかつ、男顔負けの仕事をこなすスーパーウーマンである。
もちろん、こんな生活は、誰にもまねできるものではない。家庭と仕事と、いずれの領域においても一人前の仕事をこなす女たちは、つまり二人前以上の能力のあるスーパーウーマンたちで、彼女らは、能力と、何より体力と、そしてそれに劣らず運に恵まれている。こういう女性の周囲には、たいがい姑か実家の母がいて子育てを助けてくれているものだし、本人自身が何より肉体的にタフである。自分も、そして夫も子どもも、健康でなくては、こんな生活はもつものではない。
いつの時代にも、こういうずば抜けたスーパーウーマンは、人口の何パーセントかはいて、彼女たちの姿は女たちの希望の星になってきた。だが能力も体力もないふつうの女がこのまねをしようと思ったら、まずただちにカラダをこわすのがオチだ。無理をしてへこたれる女たちを、責めるのは酷である。無理をしてもへこたれない方が、とくべつなのである。
なるほど、仕事も家庭もさっそうとこなすわれらがスーパーウーマンの姿はきらきらしい。もちろん能力に劣らず努力もしていることだろうが、女だってがんばれば、あんなふうに自立と解放をかちとることができる、というモデルを提供してくれそうに見える。仕事も家庭も、と欲ばって、それを全部実現してしまう、女の自己実現のお手本のように思える。
だが、概してこういう女性たちは、自分の能力と努力のレベルを標準にものを考えるから、自分なみに力もがんばりもないふつうの女たちに対して厳しい。彼女たちは、ダメな女の甘えを批判するが、その裏には、できる女のおごりがある。アメリカの社会学者は、これをうまく名づけて『女王蜂症候群』と呼んだ。
スーパーウーマンは、万人のモデルにはならない。彼女らのかがやかしい姿を見れば見るほど、できる女はやればいい、わたしは足を引っ張るようなことはしたくない、でも自分にはとても無理だわ、とただの女は思ってしまう。それを見たできる女は、『だから女は』とくやしがる。女同士のちがいは開く一方だ」(上野千鶴子「女という快楽・P.218~220」勁草書房 一九八六年)
(2)「女の集りで話をするたびに、真剣で熱気を帯びた彼女たちに向かって、口がさけても言いたくないことばがある。それは『がんばって』という一言だ。私は『がんばって』と他人に言うのもイヤだし、他人から言われるのもイヤだ。がんばりたくなんか、ないのだから。それでなくても、女はすでに十分にがんばってきた。がんばって、はじめて解放がえられるとすれば、当然すぎる。今、女たちがのぞんでいるのは、ただの女が、がんばらずに仕事も家庭も子どもも手に入れられる、あたりまえの女と男の解放なのである」(上野千鶴子「女という快楽・P.226」勁草書房 一九八六年)
なお、一九四五年八月十五日を思い出すことは、同時に、今現在進行中のウクライナ戦争について触れないわけにいかなくさせる。主に「自称テレビ-マス-メディア」を通してだが、何十年もロシア研究者としてロシアを愛すればこそ、今のロシアにはもう絶望しか見出せないと本音を言い出した専門家による告発が相次いできた。読者としてはもっと暴露して欲しい気はする。
と同時に常に混み入った戦争報道/報道戦争の中で、ロシアかさもなくばアメリカかという極めて狭い二者択一の罠へ動員する同調圧力によって、途轍もない精神的苦痛に喘いでいる当事者がいることを知っておくことも、「専門家」の発言と同じか、あるいはそれ以上に重要なのであって、ややもすればそんなことまるでないかのように無視されてしまいがちな日本の「空気感」への慎重かつ批判的態度を忘れず怠らない必要がある。一九七〇年ユーゴスラヴィア生まれの作家・写真家・舞台女優でもある高橋ブランカはいう。
「あの時と同じです。NATOが一九九九年にユーゴスラビアを空爆した時です。あり得ないと思ったことが、七八日間続きました。軍人のみならず、子供を含む一般人も数多く死亡しました。国際社会(弱々しい!)反対を意に介さず自分とは何の関係もない国を空爆しました。その結果、圧倒的に弱いユーゴスラビアは負けて、領土の一部(コソヴォ)をあきらめなければいなけくなったのです。
そのアメリカの行為を強く非難したロシアは、何と、同じことをしています!今度はアメリカがウクライナへの侵攻を避難しています。ロシアは非難に対して悪びれもせずアメリカがやってよい事をロシアはダメだと言うんですか』と反論してします。
常に東と西の間にいる私はと言うと、開いた口が塞がらないまま《幼稚園児》が武器で遊んでいる様子を眺めるしかありませんーーー」(高橋ブランカ「婆さんと蛙の足し算」『図書・2022・7・P.21』岩波書店 二〇二二年)
常に切実な小文字の言葉あるいは言葉にならない複雑な心境。にもかかわらずヤルタ-ポツダム体制という桎梏(しっこく)から自由になる方法を自分自身の手でほとんど絶ちきった日本政府とその「自称テレビ-マス-メディア」は、こぞって自国の国民だけでなくせっかく日本へ移住してきてくれた外国人をも、議論抜きの圧殺主義的政治暴力によってばんばん戦時体制へ加速的に巻き込んでいく。危機の時代の生贄として国際社会の中から(ロシアも中国も望んでいるように)まんまと選抜された日本。公式に「死の欲動」まる出しの意志を承認され背中を押されて名誉だと喜んでいるふしさえ見受けられる日本とその「世論」。