白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて260

2023年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。途中で降ってきた雨は帰宅する頃止みました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

日の入が近づきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

二〇二三年二月十九日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・繰り返す際プルーストが付け加えたこと/武田砂鉄「『近過去』としての平成」について

2023年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

続く文章へ行きたいのだが、ほぼ類似の文章がすでに書かれている。

 

「シャルリュス氏は自分の想像のなかで誇り高い青年ばかりを想い描いているせいで、自分まで誇り高い青年になったように想いこみ、自分がますます気取って笑止千万な人間になってゆくだけになおさらそう想いこむ始末だったが、このような事例はもっと普遍的なもので、たとえば恋する男の不幸なところは、自分が目の前の美しい顔を見ているとき、自分の顔がふだんよりも美しくなるどころか、美人を眺めて生じた歓びに歪んでいるのを相手の女が見ていることに気がつかない点にある。しかしこのような普遍的事例は、なにも恋愛だけに限られるものではない。われわれはふつう自分の身体を見ないが、他人はそれを見ているし、われわれは自分の前にあるかのように自分の考えを『たどる』ことができるが、その考えは他人には見えない対象である。この見えない対象たる考えを、芸術家はときに作品のなかで目に見えるものにしてくれる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.404~405」岩波文庫 二〇一六年)

 

異なる部分はほんの僅か。こうある。

 

「滑稽なことに男らしさを気取って逆にますます女っぽく見えてしまう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.350」岩波文庫 二〇一七年)

 

シャルリュスの女性への生成変化は<私>の<覗き見>によって<暴露>されている。

 

「まばゆい日射しに目をしばたたく氏は、微笑んでいるようにも感じられ、こうして眺められた氏のくつろいだ自然な顔は愛情あふれる無防備なものに見えたから、もし人に見られていると知ったらシャルリュス氏はどれほど腹を立てただろうと考えないではいられなかった。というのも、あれほど男らしさに憧れ、おのが男らしさを鼻にかけていたこの男が私に想像させたもの、猫も杓子(しゃくし)も女みたいになよなよして耐えがたいと嘆いていたこの男がふと私に連想させたもの、その顔つきや表情や微笑みが一時的にかいま見せたもの、それはひとりの女だったからだ!」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.27」岩波文庫 二〇一五年)

 

さらに次の事情が重なる。二点。

 

(1)「氏の声そのものが、このような微妙な考えを表明するときには高音となり、中音域を充分に鍛えていないために青年と女が交互に歌う二重唱のように聞こえるコントラルトの声に似て、許嫁(いいなづけ)の娘たちや修道女たちの合唱隊を内にふくむ意外なやさしさを帯びるがゆえの愛情がにじみ出るように思われた。とはいえ自分の声のなかにこんなふうに若い娘の一団を宿していると聞こえることは、あらゆる女性化に怖じけづくシャルリュス氏にとっては、どんなに遺憾なことだったであろう。しかもこの娘たちの一団は、感情にまつわる曲目を演奏したり転調したりするときにあらわれるだけではない。シャルリュス氏が話しているあいだ頻繁に聞こえてくるのは、寄宿舎の女生徒やコケットな娘の一団の甲高(かんだか)く無邪気な笑いで、それが悪意にみちた歯に衣(きぬ)着せぬ抜け目のないもの言いによって、そばにいる氏の声を調整してしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.271」岩波文庫 二〇一二年)

 

(2)「それは氏独特の笑いであった。それはおそらくバイエルンなりロレーヌなりの祖母から受け継いだ笑いで、その祖母も同じ祖先の女性から受け継いでいたので、ヨーロッパのあちこちの古い小宮廷では何世紀にもわたり変わらぬ笑い声が同じように響いて、人びとはその声の貴重な特徴を、めったにお目にかかれないある種の古楽器の特徴のように味わうことができたはずである。ある人物の全体像を余すところなく描くには、そのすがたの描写に加えて声の模写が必要になるはずで、この繊細にして軽やかな小さな笑い声を欠いてはシャルリュス氏という人物の描写は不完全になりかねない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.213」岩波文庫 二〇一五年)

 

その上でプルーストが述べる、鏡の効果としての芸術家。「われわれはふつう自分の身体を見ないが、他人はそれを見ているし、われわれは自分の前にあるかのように自分の考えを『たどる』ことができるが、その考えは他人には見えない対象である。この見えない対象たる考えを、芸術家はときに作品のなかで目に見えるものにしてくれる」。

 

プルーストのいう「翻訳者としての芸術家」。

 

「あることがらがなんらかの印象を与えるとき、そのとき実際に生じていることを私が把握しようと努めていたならば、本質的な書物、唯一の真正な書物はすでにわれわれひとりひとりのうちに存在しているのだから、それを大作家はふつうの意味でなんら発明する必要がなく、ただそれを翻訳すればいいのだということに、私は気づいたはずである。作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480」岩波文庫 二〇一八年)

 

プルーストはそれができるという。やってみたところ実際できた。ただその作業はいつも困難な条件付きだ。とはいえ、困難とはいっても、大変稀だとはいっても、少なからず成就できる場合があるのはなぜだろう。人間が生まれ落ちる瞬間からつき纏われる主体の非同一性という問題にかかわる。主体というのは生まれ落ちたばかりの幼児の頃すでに鏡像<他者>の側から逆に主体化への過程を与えられるという不可避的条件。ラカンから三箇所。(1)は鏡像段階について。(2)と(3)とは<他者>としての言語を生きる過程へ接続されるほかない人間というかなり哀れな過程について。

 

(1)「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。

 

この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします。

 

重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです。

 

このように、主体が幻影のなかでその能力を先取りするのは身体の全体的形態によってなのですが、この形態は《ゲシュタルト》としてのみ、すなわち、外在性においてのみ主体に与えられるものであって、そこではたしかにこの形態は構成されるものというより構成するものではありながら、とりわけこの形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体験するところの騒々しい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性のもとであらわれるのです。したがって、この《ゲシュタルト》について言えば、そのプレグナンツは、たとえその運動様式が無視できるにしても、種に関連していると考えなければならないわけで、ーーーその出現のこれら二つの局面によってこのゲシュタルトは、《わたし》の精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示するものです。さらにその《ゲシュタルト》はさまざまの対応をはらんでいますが、これによって、《わたし》は、いわば人間が彼を支配する幻影にみずからを投影する立像と一体化するわけであり、結局は、曖昧な関係のなかで世界がみずからを完成させようとする自動人形と一体化するわけなのです。

 

じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます。

 

鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。

 

《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~129』弘文堂 一九七二年)

 

(2)「いかなる場においても、人間の欲求は、その意味を他者の欲求のうちに見いだすーーーそれは、前者が欲求の対象の鍵となっているものを保持しているからというよりも、むしろ、彼の最初の対象が他者によって認められるものに属しているからなのである」(ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」『エクリ1・精神分析における言葉と言語活動の機能と領野・P.366』弘文堂 一九七二年)

 

(3)「私が言葉の中で探すものは、他者の応答である。私を主体として構成するものは、私の問である。私を他者に認知させるためには、私は、やがてそうなるであろうという観点に立ってのみ、すでに起こったことを話し出すのである。彼を見つけるためには、私はその名を呼ぶが、その名は、彼が私に応答するために引き受けるか、あるいは拒絶するかしなければならぬものである。

 

私は、私自身を、言語活動において同一のものとしているが、そうすることは、私自身を、一個の対象物として失うことに過ぎない」(ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」『エクリ1・P.408~409』弘文堂  一九七二年)

 

プルーストのいう「翻訳者としての芸術家」。そのような芸術家は別の価値体系に身を置く世界の住人であり、いつも<他者>として到来する。ヴァントゥイユのように。

 

「ある音調というのは、きょうの午後、私がふと気づいた後天的に獲得された独創性とか、音楽評論家ならさまざまな音楽家のあいだに見出しうる類縁関係とかをたとえ考慮に入れたとしても、独創的な音楽家たる偉大な歌い手たちが、なにはともあれ思わずそこまでわが身を高めそこへ立ちもどるほかない、ある唯一無二の音調であり、その音調こそ、魂がなにものにも還元できない個性的存在である証拠だからである。たとえヴァントゥイユが、もっと盛大なもの、もっと壮大なものを創ろうとか、あるいは生きのいい愉快なものを創ろうとか、あるいはわが目に見えたものを美化して聴衆の心に映し出そうとか試みたとしても、その同じヴァントゥイユが思わずそれらすべてを大波の下へ沈めてしまうのだ。この大波こそ、ヴァントゥイユの歌を永遠のものたらしめ、ただちにそれを本人の歌と認識させてくれるものである。この歌、ほかの人たちの歌とは異なり、本人のどの歌とも似通ったこの歌を、ヴァントゥイユはどこで学び、どこで聞いたのだろう?そう考えると芸術家はだれしも、ある未知の祖国、自分でも忘れている祖国、いずれべつの偉大な芸術家がこの地上をめざしてそこから船出する祖国とは異なる、そんな祖国に住まう人かと思われる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.151~152」岩波文庫 二〇一七年)

 

<私>の報告はこう続く。

 

「いったんそのことに気がつくと、人はもはや『本心をさらけだす』のをやめてしまう。私はその日の午後、アルベルチーヌがトロカデロから途中で戻ってきてくれたことにどれほど感謝しているかを口には出さないようにしていた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.351」岩波文庫 二〇一七年)

 

プルーストは観察しているだけでは決してわからない事情に通達している。「いったんそのことに気がつくと、人はもはや『本心をさらけだす』のをやめてしまう」。かといって、人間はただちに嘘をつき出す、ということを言っているわけではない。もっと便利な方法を採用する。別の言葉へ置き換えて、たった今出現したばかりの問題をとっとと覆い隠してしまう、という方法を。

 

それなら、覆い隠された問題はどこへ行くのか。場所を変えてゾンビ化する。「失われた時を求めて」はそもそもゾンビ的な作品である。読者の多く、世界中の多くの読者が、ずっと前から知っている。覆い隠された問題は、手の込んだ覆い隠しにもかかわらず、覆い隠される前に受け取っている人々の手に入ったままずっと留め置かれ注意深く吟味されている。

 

地味で目立たないながらも、粘り強くその作業に取り組み続けている一人、例えば、武田砂鉄。こう問いかける。

 

「本当にそうなのだろうか」(武田砂鉄「『近過去』としての平成」『群像・2023・03・P.585』講談社 二〇二三年)

 

「文章読本」という著作もある丸谷才一の言葉への鋭い問いかけ。丸谷才一はあちこちでいろいろ言っていて粗雑な評論が多いことでも有名。「おもしろい文章」とか「新味のある文章」とかは、文章の側から立ち上がって見えてくる、と言っていた人々の一人。使いならされ家畜化され習慣づけられた文法とその文章とを身につけている人間以外の人々が用いる見慣れない言葉は見るに堪えないというに等しい、とっとと廃棄処分するのがいい、という主旨の排除の論理を公然と匂わせ振りかざしていた。その点で武田砂鉄が丸谷才一へ遡及するのはまったく正しい。

 

武田砂鉄はLGBT関連で「結果的に休刊となった」雑誌の原稿に触れている。拾い上げられた評論家の言葉。「LGBTという概念」について。

 

「『ポストマルクス主義の変種に違いあるまい』」(武田砂鉄「『近過去』としての平成」『群像・2023・03・P.585』講談社 二〇二三年)

 

なんと懐かしい言葉だろう。ポストマルクス?そんな言葉遣いで原稿料を受け取っていたとは。そもそもマルクス全集の編纂は世界中からドイツに集まった大量の研究者たち(政治的立場を問わず)がまだまだ引き続き継続中の作業だというのに。武田砂鉄が引っ張ってきた評論家の文章を見ると「LGBTという概念」についてこうも言っているらしい。

 

「『馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが』」(武田砂鉄「『群像・近過去』としての平成」『2023・03・P.585』講談社 二〇二三年)

 

この言葉は「LGBTという概念」にのみ限って書かれた言葉に違いあるまい。それと「生きづらさ」全般とを一緒くたにして語るという粗雑。それを一定期間放置した読者の側の粗雑。だがしかし、「LGBTという概念」は知らないとしてもなお、「ポストマルクス主義の変種に違いあるまい」というからには、ともかく「ポストマルクス主義の変種」とは何か、少なくともそれだけは実によく知っているに違いあるまい。

 

「違いあるまい」というフレーズにしても、全盛期の蓮實重彦が使っていた頃は、なるほど辛辣な皮肉がありユーモアも見られた。だが逆にマイノリティ全般が抱え込んでいるストレスやこれまでに受けてきた精神的打撃に向けて連発されるや否や、それは言葉の暴力をますます増殖させ加速させる巨大拡声器として作用する。

 

武田砂鉄の指摘は目立たないかもしれない。地味ですらあるのだろう。けれども、そういうものだ、批評というのは。武田砂鉄の指摘は<批評>としてなかなか上手い線を行っているのだが、今度は、名指しされた相手側から逆に「悪口だ、逆差別だ!」と言い出す評論家がいるのかもしれない。その種の御用言論家はイラン、中国、北朝鮮などの差別主義的全体主義国家へ行けばもっと重宝してもらえると思うわけだがなぜかそうしない。なぜだろう。それこそ今の日本の「空気感」が最も快適だということなのだろうか。

 

それはそうと、なぜ「群像」が手元にあるのか。買物ついでに近くのスーパーの中の書店を覗いたところ、目についた。「地元関連書籍コーナー」にも欲しいと思った文庫があった。が、とてもではないけれど二冊も買う余裕はない。情報量と羽田圭介の新連載が始まるという二点で「群像」(2023.3)だけ選ぶしかなかった。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて259

2023年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は雨。湿度は6時で92パーセントの予想。湖東方面は雨。鈴鹿峠も雨のようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.19)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.19)

 

二〇二三年二月十九日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。