プルーストの欲望。記号作用もまた欲望なしに起動しない。記号作用はいつも欲望の全方向性に突き動かされてきた。
「ある種の欲望は、ひとたび膨れあがらせてしまうと、ときに口元で抑えこんだとしても、その結果がどうなろうとあくまで満たされることを求めるものだ。あらわな肩をあまりにも長いこと見つめていると、それに接吻せずにはいられなくなり、鳥がヘビのうえに落ちるように唇はその肩のうえに落ちる。激しい空腹に襲われると、歯はケーキにかじりつかずにはいられない。意外な情報を仕入れた人は、それを口に出すのを我慢できず、相手の心に驚きや、混乱や、苦痛や、陽気さをひきおこさずにはいられない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.273~274」岩波文庫 二〇一七年)
欲望について、プルーストの身体へのこだわりは鮮明だ。だがその少し前に<私>はさっさと「ヴェルデュラン家から退散する」ことを考えている。
「子供のころコンブレーで、祖父がコニャックを勧められ、それを飲まないように祖母が懇願する空しい努力を見るに見かねて逃げ出したときと変わらず卑怯な私が、いまや考えることはただひとつ、シャルリュスの処刑が執行される前にヴェルデュラン家から退散することだった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.272」岩波文庫 二〇一七年)
にもかかわらず読者へ報告することができたのはなぜか。どちらの文章も報告者<私>によるからである。しかしなぜ「卑怯な私」なのか。次の一節に見られるように「卑怯なところだけはすでに大人だった私」と報告するしかないのだろうか。「失われた時を求めて」第一篇のほぼ冒頭部分。こうある。
「このような大叔母の祖母への仕打ちといい、祖母が祖父の手から蒸留酒のグラスをとりあげようとして懇願しても甲斐がなく、のっけから諦める無力な対応といい、それらは大人になれば見慣れた光景で、ふつうなら笑ってすませたり、迷うことなく喜んでいじめる側についたりして、これはいじめではないと自分を納得させるだけのことである。だがそのときの私は、とても恐ろしくなり、大叔母をひっぱたいてやりたい気持だった。とはいえその後は『バチルド!早く止めに来ないと、旦那さんがコニャックを召し上がっちゃいますよ!』という声が聞こえると、卑怯なところだけはすでに大人だった私は、苦痛や不正を目の当たりにした大人がだれしもするようにした。つまり、それを見ないふりをしたのである」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・一・P.42~43」岩波文庫 二〇一〇年)
プルーストが言っていること。「迷うことなく喜んでいじめる側についたりして、これはいじめではないと自分を納得させる」=「苦痛や不正を目の当たりにした大人がだれしもする」=「見ないふり」。身振りに関わる。そこでーーー。
ユリイカ「エゴン・シーレ特集」。ただ単なる「身体論」とは異なる紛れもない<身体>は、そこで揺れ、うごめき、そこから呪詛と死とについて語りかけねば、気が収まりそうな気配一つ見せない。そもそも身体とはダイナミックな運動状態でしかありえない。一九一〇年作品《死んだ母》を見た岡田温司はいう。
「ここでも子どもはさながら胎児のように描かれているが、《聖家族》の胎児とは打って変わって、どこかふてぶてしい表情をしていて、まるで母体の死と引き換えに自分の命を得ているようにもみえる」(岡田温司「受肉するシーレ」『ユリイカ・2023・02・P.131』青土社 二〇二三年)
<置き換え>装置の使用。新しい絵画や音楽はいつも同時代の人々から理解されにくいという困難を背負いつつ誕生する。シーレもそうだが、そうした<先取り>という態度に対し、多くの観客は言葉を失うか無関心を装うか、あるいはまるで全然わからない位置へ突き飛ばされてしまう。突き飛ばされた側は逆に突き飛ばした絵画や音楽の側を突き飛ばし返し地底深くへ葬ってしまう。だが葬り去ろうとすればするほど、置かれた条件が整えられるやただちに、この種の芸術は何度も繰り返し反復する。
「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院 一九六九年)
今なぜ「シーレなのか」という問いには、戦争とパンデミックとが反復を起動させる諸条件を成している、と答えることができる。
ラカン「鏡像段階」については前回述べた。生まれたばかりの幼児は周囲を取り巻く<形象の側・言語の側>=<他者>から先に与えられ、なおかつその摂取へ欲望するため、価値内容の側はいつも後回しにされる。だからどれほど喚こうが叫ぼうが自分と自分自身とは永遠に一致することがない。理想像という<神話>との同一化は決して達成されない受苦にも似た終わりなきプロセス。だがラカン以前、岡田温司は「一九〇〇年も先駆けるように」として「使徒パウロ」の言葉を引いている。
「かつて使徒パウロは、ジャック・ラカンの『鏡像段階』を一九〇〇年も先駆けるように、こう述べていた。『わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせてみることになる』」(岡田温司「受肉するシーレ」『ユリイカ・2023・02・P.128』青土社 二〇二三年)
なるほどその通り。さらにシーレの場合<揺れ>がもっと激しいというより、例えば「男女ペア」を描いた絵画で、鏡は透き通っているのだが、性別は男女のいずれとも固定されず逆に次々入れ換わる。<光と水面>という極めてナルシスなもの、余りにもナルシスなものであるがゆえ、いつも流動性に取り憑かれており、一体何ものなのかという問いに対してもはや位置決定不可能性を宣告せずにはおかない。岡田温司は三島由紀夫にも言及している。
「画家は、聖人や予言者や隠遁者の姿に何度も自己を置き換えているのだ。たとえば、《聖セバスティアンとしての自画像》がそれである。ここで彼は、幾多の矢に射られ貫かれる名高い殉教の聖人にみずからをなぞらえるのだが、その惨めさは、たとえば同じ聖人に成り代わる三島由紀夫の写真(篠山紀信撮影)がみせる甘美な恍惚感とは好対照をなす」(岡田温司「受肉するシーレ」『ユリイカ・2023・02・P.126』青土社 二〇二三年)
従ってこの箇所はバタイユへ接続しないわけにはいかない。それはそれでいいのだろう。だがこの論文だけではシーレ得意の身体分断について何一つ言ったことにはならない。せいぜい「タブー」がどうしたこうしたという、いつものステレオタイプ(紋切型)が待ち受けているばかりだ。切り貼りに関する論考は小澤京子へ譲った形になっている。打ち続く<戦争とパンデミックと>の渦中が呼び出したシーレ。それは三島由紀夫の言葉をも同時に呼び出したことに間違いはない。紙数に限りがある中で岡田温司は三島とバタイユとに言及した。三島はいう。
(1)「『もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆえ陛下ただ御一人(ごいちにん)は、辛く苦しき架空を護らせ玉わざりしか』」(三島由紀夫「英霊の聲」『英霊の聲・P.69』河出文庫 二〇〇五年)
(2)「『そを架空、そをいつわりとはゆめ宣(のたま)わず、(たといみ心の裡深く、さなりと思(おぼ)すとも)』」(三島由紀夫「英霊の聲」『英霊の聲・P.70』河出文庫 二〇〇五年)
(3)「神のおんために死したる者らの霊を祭りて ただ斎(いつ)き、ただ祈りてましまさば、何ほどか尊かりしならん」(三島由紀夫「英霊の聲」『英霊の聲・P.70~71』河出文庫 二〇〇五年)
にもかかわらず三島といえば「ハラキリ」ばかり注目されてもう呆れ返ってしまう。「ハラキリ」はバタイユ「エロティシズム」理論の有効性の実践だった。それはとても奇妙な風景の転倒であり、ゆえに世界の注目をかっさらったとも言える。しかし問題はそうではなくて。
赤坂真理「東京プリズン」。主人公は思う。
「英霊たちは、天皇に殉じたことを、他ならぬ天皇に裏切られたと感じる存在たちである。そのことは私にも理解できる。しかし英霊たちは同時に、天皇の統治した国家と天皇の治世というべきものを『架空(フィクション)』と言っている。これは天皇を架空と言っているのか、およそ神話というものはフィクションであると言っているのか?」(赤坂真理「東京プリズン・最終章・P.462」河出文庫 二〇一四年)
なお、家族のあり方に関して不用意にも(あるいは決定的準備不足からか)<天皇制>(天皇とはまた違う意味での<制度>)に触れた日本の首相。伝統の濫発は逆に何ものをも伝統化<しない>という丸山眞男の言葉にもかかわらず。そしてさらに「クィアな」ものとは何なのか。一九九〇年代後半すでに大量の「同性愛文学」が生産され流通しただけでなく欧米では定着さえして久しい。二次元芸術という形式であってももうそこまで先取られていた。ところがそこでーーーまたしてもーーーいつもの逆説が生じた。近藤銀河はシーレ作品に一定の機能を認めつつこう述べている。
「そのエロティックさ、クィアな目線と体感による逸脱と快楽は、確かに尊重すべきものであるが、しかしエロティックであることには限界があるのではないか。非異性愛的なセクシャルな幻想による賭けは、それがセクシャルである点で性愛的な規範にとどまり続ける。クィアなものが性愛という同質性に絡めとられ、そのラディカルさ、あるいは政治的要求が、薄められてしまう。私の疑問とはこのことだ。そのセクシャルなパワーが消費の材料として、資本主義に包摂されていったのがこの十数年の光景だったのではないか。あるいは、セクシャルなパワーが誰にも消費できるものとして提供される限りにおいて、存在が《許されて》きた。そのような例は各種の性産業から物語を伴う作品に至るまで、枚挙にいとまが無い」(近藤銀河「震えるエゴン・シーレ」『ユリイカ・2023・02・P.113』青土社 二〇二三年)
ばんばん利潤を上げまくる「消費財」としてしか「存在が《許されて》」こなかった「クィアな」ものとその<力>。問いは今なお宙吊りされたままだ。
