白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シャルリュスによるオデットの浮気相手の名のリスト/引き延ばされる巨大な<暴露>=引き延ばされる巨大な<隠蔽>

2023年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

シャルリュスによるオデットの浮気相手の名の<暴露>。それは「部外者の目にのみ歴史のような正確さを備えて長いリストとなる」。

 

「その名の列挙をはじめ、そこには歴代フランス王のリストを暗誦するときのように間違いはないという確信がこめられていた。実際、嫉妬する男は、同時代人にも似て、あまりにも近くにいるせいでなにひとつ知ることができず、不義密通のゴシップは、部外者の目にのみ歴史のような正確さを備えて長いリストとなるのだ。もっともそのリストはさしたる関心を惹くようなものではなく、それに悲しみをそそられるのは、私がそうであったようにべつの嫉妬する男、つまり自分のケースを話題になっている人のケースと比べずにはいられず、自分が疑っている女にも同様の悪名高いリストが存在するのではないかと自問する男だけである。ところがその男も、それについてはなにも知ることができない。まるで世間全体の陰謀、みなが荷担する残忍ないじめに巻き込まれ、自分の愛する女が男から男へと渡り歩いているあいだ目隠しをされたようなもので、たえずその目隠しをはぎ取ろうと必死になるがうまくゆかない。というのもだれもかれもが、善人は善意から、悪人は悪意から、卑しい人は卑劣ないたずら心から、育ちのいい人は礼儀正しさと躾(しつけ)のよさから、とどのつまり全員がこうした原理原則と呼ばれる約束ごとのいずれかから、この不幸な男の目を見えなくしているからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.252~253」岩波文庫 二〇一七年)

 

どんな仕方で「長いリスト」は可能なのか。オデットは「ある男とねんごろになったかと思うと、つぎにはまたべつの男とくっついていた」。それが<コード化・脱コード化・再コード化>の運動として機能することで始めて、この種の「リスト」は連結されうる。二点述べよう。

 

1「嫉妬する男は、同時代人にも似て、あまりにも近くにいるせいでなにひとつ知ることができ」ない。ではそこで考えるためのヒントをニーチェから二箇所。

 

(1)「《古代》というものは、事実上はいつも、《現在からして》のみ理解されたのであるーーーしかして実は、《古代からして現在が》理解されるべきではないのか?」(ニーチェ「哲学者の書・P.460」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫  一九九三年)

 

2「自分の愛する女が男から男へと渡り歩いているあいだ目隠しをされたようなもので、たえずその目隠しをはぎ取ろうと必死になるがうまくゆかない。というのもだれもかれもが、善人は善意から、悪人は悪意から、卑しい人は卑劣ないたずら心から、育ちのいい人は礼儀正しさと躾(しつけ)のよさから、とどのつまり全員がこうした原理原則と呼ばれる約束ごとのいずれかから、この不幸な男の目を見えなくしているからである」。

 

すべての人間といっても「善人は善意から、悪人は悪意から、卑しい人は卑劣ないたずら心から、育ちのいい人は礼儀正しさと躾(しつけ)のよさから、とどのつまり全員がこうした原理原則と呼ばれる約束ごとのいずれかから」の働きかけによって或る嫉妬まみれの一人の人間をますます迷走させていく。なぜそうなるのか。それぞれの立場から与えられる<習慣・因習>の道徳が一人の人間を破滅へ破滅へ誘導する。そのような場合、ほとんどは無意識的に採用されているがゆえになおさら危険な、事実上、殺人的破壊力を持つ「風習の道徳」とは何か。

 

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)

 

幾つかの<言語ゲーム>から一度に高度な圧力がかかるような場合、どんな強靭なメンタルの持ち主であれ呆れ返るほどもろい。ぼきぼき複雑骨折する。<言語ゲーム>とは何か。ウィトゲンシュタインはいう。

 

「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。

 

ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。

 

ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)

 

ここで問われている事情に通じておりなおかつ対応できる一つのグループを指す。或る一つの言語共同体。それが世界中に無数にある。様々な<言語ゲーム>がある。したがって様々に異なる<価値体系共同体>がある。世界は様々な多元的<言語ゲーム>が絡み合う動的運動体である。

 

また「この不幸な男の目を見えなくしている」前提条件のうち大変深刻な事情が横たわっている。<慣習・因習><虐殺・排除><網目・管理>に関する。

 

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ。ーーー私たちは私たちの先祖たちの感覚の遺物のうちで、いわば感情の化石のうちで生きているのだ。先祖たちは虚構し空想した、ーーーしかし、こういう虚構され空想されたものが生きつづけて差しつかえないかどうかの決定は、そういうものによって《生きる》ことができるか、それともそういうものによって破滅するかに関する経験によって、与えられたのだ。誤謬でも真理でもよかったのだ、ーーー《もし》これらによって《生》が可能でありさえ《すれば》!次第に或る貫通しがたい《網》がそこに発生したのだ!この網に《巻き込まれて》私たちは生まれてくるのであり、そして科学もまた私たちをその中から解放してくれない」(ニーチェ「生成の無垢・下・八九・P.63~64」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

シャルリュスが<暴露>するオデットの浮気相手のリスト。それは中心を失った諸商品の無限の系列のようにどこまでも無限に引き延ばされていく。この巨大な<暴露>。それはなるほど<暴露>ではある。と同時にそれは巨大な<隠蔽>でもあるのだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて225

2023年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。ずいぶん曇っていましたが風はとても穏やかでした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

 

午後四時三十分を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

何事もなかったかのような曇りの夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“湖西道路高架下”」(2023.2.2)

 

二〇二三年二月二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・プルーストからのプレゼント/その「巨匠の芸」=超絶的《技術》について

2023年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストが読者へ向けて分かち与えるプレゼント。贈りもの。贈与。わけても大事なのは<贈り与える方法>だ。その困難さについてニーチェはいう。

 

「そこでおまえは学んだのだ。ーーー正しく与えることは、正しく受けるよりも、むずかしいということを。また、よく贈るということは、一つの《技術》であり、善意の究極の離れ業(わざ)、狡知(こうち)をきわめる巨匠の芸であることを」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・進んでなった乞食(こじき)・P.433」中公文庫 一九七三年)

 

プレゼントを贈られた側が贈られたということさえすっかり忘れ去ってしまえるような「巨匠の芸」=超絶的《技術》。まるで太陽のようなそれ。としてもなおニーチェ以前、ラ・ロシュフコーは言っている。

 

「太陽も死もじっと見つめることはできない」(ラ・ロシュフコー「箴言集・26・P.18」岩波文庫 一九八九年)

 

ではどうすればいいのか。あくせくしないでよく眠ること。平均的睡眠時間(六時間から八時間)を守ること。そしてそれが忘却であることを忘れないこと。プルーストは眠ることに切断論的意味づけを行っている。自分で自分自身が何ものなのかさっぱりわからないところまで行く。といっても身体はそっくりそのままほぼ動かない。

 

「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)

 

プルーストが身体性を重視したのには訳がある。産業革命以降、破竹の勢いで台頭しまたたく間に世界中を席巻した機械社会とその総運動。人間の機械化と機械の人間化。その加速。さらなる加速。そして機械化された社会機構と実際に使用される機械類は、便利であればあるほど労働力商品をどんどん機械と置き換え街頭へ投げ出し放置する。一方、投げ出された労働力商品は、人間身体への限りない郷愁と<他者>の身体に対する虐殺へ掻き立てられずにはいられないという深刻なルサンチマン(復讐欲望)に満ちた反動をもたらす。その中でも最も悪趣味な実験に終わったのがナチスドイツとスターリンのロシア。ナチス解体と同時に今度はそれをイスラエルがやり始めた。スターリン型全体主義の実態もまた一国資本主義でしかなかった。一国資本主義が可能だったのはそもそもロシアとその周辺とが豊富な資源と第一次産業の発展拡充とに恵まれていたからである。

 

だがプルーストは「身体」についてもっと根本的な流動性が備わっていることに気づいた。ニーチェの場合、その根本的な部分に「中心のなさ/可変性」と「多元性」とを見て取っている。二箇所。

 

(1)「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下・三四三・P.192」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

それらの条件が整っていて始めてプルーストは、シャルリュスの一連の言葉を不意に切り裂くとともに開かれた余白へすぐさま括弧付きで次の文章を割り込ませることができた。

 

「オデットはある男とねんごろになったかと思うと、つぎにはまたべつの男とくっついていたのに、嫉妬と愛情に駆られて我を忘れたスワンはそのどの男についてもなにひとつ知らず、わが身の幸運の可能性を見極めようとするかと思えば、女の矛盾した発言よりも断定的に言う誓いのことばを信じる始末で、じつをいえば罪深い女が自分では気づいていないその矛盾した発言は、誓いのことばよりも捉えがたいとはいえはるかに意味があって、嫉妬する男は、自分が手に入れたと勘違いしている情報よりもその矛盾した発言をずっと理詰めに利用すれば、愛人を不安に陥(おとしい)れることもできるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.251~252」岩波文庫 二〇一七年)

 

オデットの性的欲望について。「ある男とねんごろになったかと思うと、つぎにはまたべつの男とくっついていた」。性行為という陳腐な言葉を放ってしまうやたちまち意味を取り逃してしまいそうになる。見たにもかかわらず見えていない。スルーしたに等しい。そうではなく逆に<性的欲望>は<分節できる>あるいは全然別のものと<置き換え>できる<力>だと承知している限りで、このような文体を意識的に使いこなすことができる。また「ある男とねんごろになったかと思うと、つぎにはまたべつの男とくっついていた」という切断論めいたフレーズ自体が作品読解のためのキーワードの一つとして読者の目の前に置かれている。

 

オデットの嘘について。スワンはそれが嘘だとわかったにもかかわらず放置する。

 

「オデットはいた。さきにスワンが呼び鈴を鳴らしたときは、家にはいたが寝ていたと言う。呼び鈴の音に目が覚め、スワンにちがいないと思ってあとを追ったが、もう帰ったあとだった、窓ガラスを叩く音も聞こえた、と言う。すぐにスワンは、この言い分のなかに、正確な事実の断片が含まれているのに気づいた。不意を突かれた嘘つきが、偽りのない事実をでっちあげるにあたり、気休めにそんな事実の断片を組み入れ、その効力で嘘がいかにも『真実』らしく見えるのを期待するのと同じである。たしかにオデットは、なにか明らかにしたくないことをした場合、それを心の奥底にひた隠しにする。ところが嘘をつくべき相手が目の前にあらわれると、動転するあまり考えていたことはすべて瓦解し、創意工夫をしたり論理的に考えたりする能力は麻痺してしまう。もはや頭のなかは空白なのに、それでもなにか言わなくてはならない。そのときに出くわすのが、手の届くところにあった、ほかでもない隠しておきたいと考えていたことがらで、それは真実であるがあゆえにその場に残っていたのである。オデットは、そこからそれ自体なんら重要でない小さな断片をとり出すと、結局これでいいのだ、本物の断片なのだから嘘の断片のような危険はない、と考える。『すくなくともこれならほんとうだわ。どう転んでもこっちのものよ。あの人が調べたってほんとうだとわかるだけで、これであたしが裏切られることは絶対にありえないわ』。ところがそれはオデットの考え違いというべきで、それに裏切られるのだ。オデットには理解できなかったが、この本物の断片なるものの四隅がぴったり合わさるのは、恣意的にそれをとり出した本物の事実と隣接する他の断片だけであり、いかにその断片を嘘でかためた他の断片にはめ込もうとしても、つねにはみ出す部分や足りない部分が残り、その断片がとり出されたのはそこからではないことがばれてしまうのである。スワンはこう思った、『呼び鈴を鳴らす音がして、それから窓ガラスを叩く音も聞こえ、俺だと思って会おうとしたと言っている。ところがそれは、ドアを開けさせなかった事実と辻褄が合わない』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.212~213」岩波文庫 二〇一一年)

 

尋問するつもりならすぐさまできた。にもかかわらず、しかしなぜスワンは問い詰めようとしなかったのか。嫉妬なくして愛はなく、愛なくして嫉妬はない。嫉妬し苦痛にのたうちまわるスワン。ところがスワンはこの苦痛を延々引き延ばしていく。スワンがマゾヒストだというわけではない。精神分析の場ではない。逆にそうした領域の専門用語で単純に片づけきれない余剰あるいは余白について述べているのである。マゾヒズムという性的嗜好が不可避的にもたらす逆説についてプルーストは間違いなく通じていた。それもまた読者へ向けたプレゼントなのだ。

 

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫 二〇一八年)

 

このようにプルーストの身振りはいとも軽やかに横断性への扉を開いてくれる。それまでは誰一人気づかなかった扉を出現させ、そこに扉があると教え、わざわざ扉を開けてくれる。読者は驚愕しながらも切り開かれた新空間へ歩みを進めることができる。

 

さて先日触れた赤坂真理「東京プリズン」。三島由紀夫からの引用がある。

 

「『などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし。などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし。などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし』」(三島由紀夫「英霊の聲」『英霊の聲・P.71』河出文庫 二〇〇五年)

 

このリフレインは有名。天皇の「人間宣言」に対する呪詛の言葉。赤坂真理はそこにではなく、ともすれば忘れられ見捨てられがちな箇所を棚卸しつつ焦点化する。三箇所。

 

(1)「『もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆえ陛下ただ御一人(ごいちにん)は、辛く苦しき架空を護らせ玉わざりしか』」(三島由紀夫「英霊の聲」『英霊の聲・P.69』河出文庫 二〇〇五年)

 

(2)「『そを架空、そをいつわりとはゆめ宣(のたま)わず、(たといみ心の裡深く、さなりと思(おぼ)すとも)』」(三島由紀夫「英霊の聲」『英霊の聲・P.70』河出文庫 二〇〇五年)

 

(3)「神のおんために死したる者らの霊を祭りて ただ斎(いつ)き、ただ祈りてましまさば、何ほどか尊かりしならん」(三島由紀夫「英霊の聲」『英霊の聲・P.70~71』河出文庫 二〇〇五年)

 

そして主人公は思う。

 

「英霊たちは、天皇に殉じたことを、他ならぬ天皇に裏切られたと感じる存在たちである。そのことは私にも理解できる。しかし英霊たちは同時に、天皇の統治した国家と天皇の治世というべきものを『架空(フィクション)』と言っている。これは天皇を架空と言っているのか、およそ神話というものはフィクションであると言っているのか?」(赤坂真理「東京プリズン・最終章・P.462」河出文庫 二〇一四年)

 

一九八〇年代後半の中曽根内閣時代。日本全国の大学で大いに議論されていた。大いに。「不沈空母」発言だけでなく「臨時教育審議会」(臨教審)という物騒な組織が打ち立てられている真っ只中だった。逆にその種の議論の場をせっせと潰して回っていた組織が今の「日本会議」に連なるメンバー、そして「統一教会」だった。だが先日その死去が報じられた一水会の鈴木邦男は堂々と議論の場に顔を出していた。廃刊になって久しい「朝日ジャーナル」でもいろんなテーマでしばしば発言していた。ただ単なる暴力装置などでは決してなかった。これまた先日その死去が報じられた「本の雑誌」創刊者・目黒考二とその盟友・椎名誠。彼らの仕事や記事を手に取り目を通してみればそれだけで済む。にもかかわらずなぜ安倍内閣時代ほとんどすべての課題が、棚上げされたままになっていたこの種の重要極まりない課題が、棚上げどころか逆にもうなかったことのように処理されようとしてしまっているのだろう。

 

ところがそうなることを見越してなのかどうかは知らないけれども、赤坂真理はごく普段着姿で出現し、不可解にも棚上げされていた諸問題を文学というフィールドへ改めて引き据え直した。読者としてはそこを買うのである。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて224

2023年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で72パーセントの予想。湖東方面は晴れ。鈴鹿峠の晴れのようです。

 

午前六時二十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.2)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

日が覗きました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.2)

 

二〇二三年二月二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。