シャルリュスによるオデットの浮気相手の名の<暴露>。それは「部外者の目にのみ歴史のような正確さを備えて長いリストとなる」。
「その名の列挙をはじめ、そこには歴代フランス王のリストを暗誦するときのように間違いはないという確信がこめられていた。実際、嫉妬する男は、同時代人にも似て、あまりにも近くにいるせいでなにひとつ知ることができず、不義密通のゴシップは、部外者の目にのみ歴史のような正確さを備えて長いリストとなるのだ。もっともそのリストはさしたる関心を惹くようなものではなく、それに悲しみをそそられるのは、私がそうであったようにべつの嫉妬する男、つまり自分のケースを話題になっている人のケースと比べずにはいられず、自分が疑っている女にも同様の悪名高いリストが存在するのではないかと自問する男だけである。ところがその男も、それについてはなにも知ることができない。まるで世間全体の陰謀、みなが荷担する残忍ないじめに巻き込まれ、自分の愛する女が男から男へと渡り歩いているあいだ目隠しをされたようなもので、たえずその目隠しをはぎ取ろうと必死になるがうまくゆかない。というのもだれもかれもが、善人は善意から、悪人は悪意から、卑しい人は卑劣ないたずら心から、育ちのいい人は礼儀正しさと躾(しつけ)のよさから、とどのつまり全員がこうした原理原則と呼ばれる約束ごとのいずれかから、この不幸な男の目を見えなくしているからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.252~253」岩波文庫 二〇一七年)
どんな仕方で「長いリスト」は可能なのか。オデットは「ある男とねんごろになったかと思うと、つぎにはまたべつの男とくっついていた」。それが<コード化・脱コード化・再コード化>の運動として機能することで始めて、この種の「リスト」は連結されうる。二点述べよう。
1「嫉妬する男は、同時代人にも似て、あまりにも近くにいるせいでなにひとつ知ることができ」ない。ではそこで考えるためのヒントをニーチェから二箇所。
(1)「《古代》というものは、事実上はいつも、《現在からして》のみ理解されたのであるーーーしかして実は、《古代からして現在が》理解されるべきではないのか?」(ニーチェ「哲学者の書・P.460」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫 一九九三年)
2「自分の愛する女が男から男へと渡り歩いているあいだ目隠しをされたようなもので、たえずその目隠しをはぎ取ろうと必死になるがうまくゆかない。というのもだれもかれもが、善人は善意から、悪人は悪意から、卑しい人は卑劣ないたずら心から、育ちのいい人は礼儀正しさと躾(しつけ)のよさから、とどのつまり全員がこうした原理原則と呼ばれる約束ごとのいずれかから、この不幸な男の目を見えなくしているからである」。
すべての人間といっても「善人は善意から、悪人は悪意から、卑しい人は卑劣ないたずら心から、育ちのいい人は礼儀正しさと躾(しつけ)のよさから、とどのつまり全員がこうした原理原則と呼ばれる約束ごとのいずれかから」の働きかけによって或る嫉妬まみれの一人の人間をますます迷走させていく。なぜそうなるのか。それぞれの立場から与えられる<習慣・因習>の道徳が一人の人間を破滅へ破滅へ誘導する。そのような場合、ほとんどは無意識的に採用されているがゆえになおさら危険な、事実上、殺人的破壊力を持つ「風習の道徳」とは何か。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)
幾つかの<言語ゲーム>から一度に高度な圧力がかかるような場合、どんな強靭なメンタルの持ち主であれ呆れ返るほどもろい。ぼきぼき複雑骨折する。<言語ゲーム>とは何か。ウィトゲンシュタインはいう。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)
ここで問われている事情に通じておりなおかつ対応できる一つのグループを指す。或る一つの言語共同体。それが世界中に無数にある。様々な<言語ゲーム>がある。したがって様々に異なる<価値体系共同体>がある。世界は様々な多元的<言語ゲーム>が絡み合う動的運動体である。
また「この不幸な男の目を見えなくしている」前提条件のうち大変深刻な事情が横たわっている。<慣習・因習><虐殺・排除><網目・管理>に関する。
「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ。ーーー私たちは私たちの先祖たちの感覚の遺物のうちで、いわば感情の化石のうちで生きているのだ。先祖たちは虚構し空想した、ーーーしかし、こういう虚構され空想されたものが生きつづけて差しつかえないかどうかの決定は、そういうものによって《生きる》ことができるか、それともそういうものによって破滅するかに関する経験によって、与えられたのだ。誤謬でも真理でもよかったのだ、ーーー《もし》これらによって《生》が可能でありさえ《すれば》!次第に或る貫通しがたい《網》がそこに発生したのだ!この網に《巻き込まれて》私たちは生まれてくるのであり、そして科学もまた私たちをその中から解放してくれない」(ニーチェ「生成の無垢・下・八九・P.63~64」ちくま学芸文庫 一九九四年)
シャルリュスが<暴露>するオデットの浮気相手のリスト。それは中心を失った諸商品の無限の系列のようにどこまでも無限に引き延ばされていく。この巨大な<暴露>。それはなるほど<暴露>ではある。と同時にそれは巨大な<隠蔽>でもあるのだ。