回覧されるベルゴットの本。
「『すまないけど』と私はかぎりない哀しみをたたえて言った、『きみの叔母さんのところにあるベルゴットの本を送りかえしてくれないか。ちっとも急ぎはしない、三日後でも一週間後でも都合のつくときでいいんだが、忘れないでほしい、こちらから督促しなければならなくなると、とても辛いからね。ぼくたちは幸せだったけれど、今後はぼくたちは不幸になる気がする』」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.343~344」岩波文庫 二〇一七年)
ベルゴットの本は或る価値体系の場所から別の価値体系の場所へ、手から手へ交換されていく。それがここでのプルースト的記号論である。
「エゴン・シーレ特集」から。作品<壊れた水車小屋(森の水車)>について金田佳子はこう書いている。
「壊れかけている水車小屋が破壊や死を表すとすれば、生命力溢れる川は生を暗示している。破壊と再生が繰り返される生と死の循環図である。一九一四年に始まった第一次世界大戦においてシーレは開戦当初、虚弱体質のため軍務に適さないという医師の証明書により兵役を免除されていたが、一九一五年エディット・ハルムスとの結婚後四日目に兵士として招集され、戦争の悲惨な一面を目にしなければならないこととなった。幸いにも前線に駆り出されることはなく、一九一六年春にはミューリングにある捕虜収容所の書記官に配属され、作品を制作する時間も与えられた。戦争の暗い影の中、こういった風景も自然の恩恵を生きる希望としてシーレは散歩の途中などにも見逃さず、作品に残していた。妹ゲルティに送った手紙の中にもシーレの当時の心境が生き生きと表されている。
一九一四年十一月二十三日/愛するゲルティ!/ぼくらは世界がかつて見たいちばん暴力的な時代に生きているんだ。〔ーーー〕/ぼくらはだから常に未来に目を向けるのだ、〔ーーー〕/ぼくらは生命をもたらすすべてのことに耐える用意がなければならない。/嵐のあとに太陽がきらきらと光り輝くように、ぼくたちもまたその太陽を見るだろう。/その幸せを兄として願っているよ」(金田佳子「エゴン・シーレ主要作品解題」『ユリイカ・2023・02・P.257~258』青土社 二〇二三年)
水車小屋をあっけなく決壊させる破壊力。それなくして再生もない身も蓋もない圧倒的破壊力。ドゥルーズが「反復」されるほかないと指し示す<力>がそれだ。
「私は、抑圧するがゆえに反復する、というのではない。私は、反復するがゆえに抑圧するのであり、私は、反復するがゆえに忘却するのである。私は、或る種のものごと、あるいは或る種の経験を、まずはじめに、反復という様態でしか生きることができないがゆえに、抑圧するのである。私は、それらのものごとや経験を私がそのようにしか生きられないという事態の妨げとなるようなものを、抑圧するように決定されている」(ドゥルーズ「差異と反復・序論・上・P.63」河出文庫 二〇〇七年)
だから一度にすべてを反復して破滅へ向かう<力>を「抑圧」し、世界的規模の<公理系>として慣らし整える<整流器>が整備されるに至った。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)
ところがしかし、シーレを論じつつ福間加代子がその「プリミティズム」あるいは<アニミズム>に気づいているように、人間は破滅へ向かうようにも決定づけられている。フロイトのいう<死の欲動>。
「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.174』人文書院)
一気に死ぬこと。それはできない。フロイトのいうように「迂路」を経ていかねばならない。「迂路」というのはすべての生物が地球上で生きていくための諸条件、わけても太陽と水、地球という環境である。<死の欲動>は太陽と水、地球という環境のもとで、ありったけの生命力を分かち与えられ、日常生活という「迂路」へ誘導されることになる。そして子どもは大きくなる。それが「迂路」だ。しかしこの「迂路」はいつも<公理系>による徹底的管理下に置かれている。息苦しさのあまり自殺者が絶えない。
古代共同体の場合、<死の欲動>の定期的な解放装置が設定されていた。古代ギリシアのディオニュソス祭がその典型例だ。溜まりに溜まったエネルギーをその場限りで噴出させるが目指されている。そういう方法を用いることで共同体の全的壊滅は免れることができる。
ところがシーレたちが生きた時代。そのような<アニミズム>志向は欧米からすっかり姿を消し去ってしまっていた。残されていたのはかつての植民地の奥深くでしかなかった。それも今やほとんど商品化されてしまい、その結果、当時の強度を見ることはもはやできない。しかし<反復>はいつどこで何をきっかけに噴出するか誰にもわからない。それは止むことを知らない。
「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院 一九六九年)
例えば、火。岡本太郎は「火」についてこういう。
「ベトナム戦争の焼身自殺が世界的に大問題になっていた頃、アメリカの一婦人が日本の新聞に投書して意見をのべていた。『イメージは凄いけれど、毒を飲むとか、ガスで死ぬのと同様な、自殺の一方法としてしか私には考えられない。なぜわざわざあんな残酷な死に方をするのだろう』という趣旨だった。いかに西欧の一般が火に対する神秘感を失っているか、を表わす典型的なリフレクションだと思った。しかし一方、だからこそ逆に強烈に引きつけられるという面もあるのだ。あのあと、ベトナム戦争に抗議する投身自殺がアメリカでも、またフランスでも、幾つかおこった。いずれにしても深刻なショックを受けた人々は多かったに違いない。確かに、いわゆる西欧の小市民感情にはピンとこないのだろう。しかしその市民的惰性に、若者たちがいらだち、全身で抵抗する。失われた火の神聖さを、その戦慄(せんりつ)をとりもどそうとするのだ。焼身自殺も、あるいは単なる政治的な憤(いきどお)り、アクションだけではないかもしれない。もっと根源的な社会に対し、世界全体に対する告発の象徴だとも考えられるのである」(岡本太郎「美の呪術・P.184~185」新潮文庫 二〇〇四年)
自分の身体の「火」への生成変化。ニーチェを援用しつつこうもいう。
「ある日、炎の意味を悟る。この社会の惰性、卑しさに対して、『否』(いな)というべきなのだと、絶望的に模索していた生身のまわり、偽りの皮がメリメリとはがれはじめるのだ。心の内なる炎が突然、殻を突き破り、総身にメタモルフォーゼし、世界に躍り出る。そして否を叫び続ける。世界・宇宙全体が炎に還元する。その激しい姿は当然、他からは『犯す者』として映るだろう。
ニーチェの晩年の著作『ツアラトゥーストラはかく語りき』は、彼の思想の一極点を示す啓示の書だ。ニーチェの全存在がここで爆発している。だが、なぜニーチェは『ツアラトゥーストラ(ゾロアスター、拝火教の教祖、予言者)』の名をかりて語ったのだろう。誰もそれについて明確な説明をしていないが。彼もまた巨大な聖火を抱き、それに賭(か)け、耐え抜いた故にか」(岡本太郎「美の呪術・P.188」新潮文庫 二〇〇四年)
ここで岡本太郎の頭にあるのは民俗学の分野で<アニミズム>と呼ばれる。岡本太郎がバタイユたちから吸収したポストモダン的な創作態度も多分に<アニミズム>の影響下にある。しかし岡本太郎は決して焼身自殺しない。岡本太郎は芸術という方法とその取り扱い方に熟達していたからだ。前に引いた。
「先ほど言ったように怒りをエネルギーの放射・発散であるとすれば、たしかに『ゲルニカ』は稀(まれ)に見る純粋な表現であると思う。ナチによるゲルニカの無差別攻撃というものがモチーフになっているが、そういうものへの直接的憤りが、絵を描いているうちに昇華され、芸術表現による遊びが浮び出てくる。もちろんその遊びは言いようのない緊張感だ。激しい怒りそのものが遊んでいるのだ。
その点、戦争中、ナチ占領下の制作、牛の首だのミノトールなどを描いた一連の作品などは、暗く、冷たい。底の方に沈潜した発散されない憤り、むしろ孤独な呪(のろ)いの表情がよみとれるが。
いずれにしてもピカソの作品はあくまでも激しいと同時に冷たく、微妙な計算の上で炸裂(さくれつ)している。そこに同時に遊びがあるのだ。怒りながら、瞬間に自分を見返している。常に見返していなければ本当の芸術ではない。自分を失い、我を忘れた狂奔は怒りではない。芸術ではない。憤りというのは、今も言ったように、セッパつまっているようでありながら実は遊んでいるのである。憤りこそ最高の遊びだ。
あの冷酷・残虐な猛牛はピカソ自身のような気もする。そこに高次の遊びの表情がある。だが、やっぱりポジションは被害者側、つまり傷口の告発である。どちらも被害者の側である。ただ憤りをもって冷たく見返している遊びがゴヤにはないのである。
私は言いたい。全体をもって爆発し、己れを捨てることだ。捨てるということは一番自分をつかまえることなのである。ああオレは怒ってるな、と腹の底でにっこり笑いながら、真剣に憤っている。それが人間的なのである。表現の側から言えば、目をつりあげて怒りながら、同時にそれが笑いである。またその逆であるというような表現そこ、人生そのものの表情であり、また芸術だと思う」(岡本太郎「美の呪術・P.114~115」新潮文庫 二〇〇四年)
にもかかわらず現状はどうか。
「人間の生活はいつも全体であり、幅いっぱいにあふれ、ふくらんでいるはずなのに、その一部だけを引き抜いて固定し、形式化して味わうのだ。白々しい。また芸術論とか美術史とか称して体系づける空(むな)しさ。今日、芸術自体が壁にぶつかってしまっている。人間生活に『芸術』がほとんどなんの力も持っていないことは誰でも感じているだろう。この芸術の疎外感(そがいかん)はいったいどうしたのだろう。進歩進歩でひたすら流れてゆく社会体制の中にありながら、芸術こそ、社会の部品である空虚感を脱し、時空を超えて人間再発見をしなければならない役割にあるのに」(岡本太郎「美の呪術・P.12」新潮文庫 二〇〇四年)
その意味で<太陽の塔>はまだ役割を終えていない。それどころか<戦争・パンデミック・大地震・原発再稼働>の連鎖によって逆に再び呼び出されてきた。
と同時に<アニミズム>的な「先祖返り」だが、人間はなぜそうするのか。そうしたがるのか。そうせずにはおれないのか。といっても大きな歴史書を引っ張り出して調べ直してこなくていい。たいそうに考えるまでもない。大日本帝国がそうだった。
赤坂真理「東京プリズン」は<アニミズム>が一つの大きなテーマでもある。なぜ「ヘラジカ」が出てきて主人公にしかわからない謎の言語で語りかけるのか。それこそ<アニミズム>だ。ではなぜ「ヘラジカ」と主人公との<アニミズム>的な言語的交換がテーマとして要請されてきたのか。そもそも天皇制の来歴に一つも<アニミズム>的要素がないとでも思っていたらまったくの大間違いだからだ。フレイザーから三箇所。
(1)「彼(ミカド)は、自分の足を地面につけることが、自らの権威と聖性を大いに侵害するものであると考えている。このため、どこへ外出するにも、男たちの肩に乗せて運ばれなければならない。ましてや、戸外の空気にこの聖なる人間を曝すなどもってのほかであり、日の光はその頭に降り注ぐ価値などないと考えられている。身体のあらゆる部分に聖性が宿ると考えられているため、あえて髪を切ることも髭を剃ることも爪を切ることもしない。しかしながら、あまりに不潔にならないよう、彼は夜眠っている間に体を洗われる。なぜなら、眠っている間に身体から取り去られたものは、盗まれたものであって、そのような盗みは、その聖性や権威を害することにはならないからである。太古の時代には、彼は毎朝数時間玉座についていなければならなかった。皇帝の冠をかぶり、ただ像のようにじっと座っている。手足も頭も目も、それどころか身体のいかなる部分も動かすことはない。これは、自らの領土の平和と安定を保つことができるのは彼自身と考えられたからで、不運にも体の向きをどちらかに向けたりすれば、あるいはまた領地のいずこかの方角を長時間眺めていたりすれば、国を滅ぼすほどの不作や大火もしくはなんらかの大きな災いが間近に迫っている、と解釈されたからである」(フレイザー「金枝篇・上・第二章・第一節・P.165~166」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)
(2)「早くから日本のミカドたちは、至上の権力という栄誉と重荷を自分の幼い子どもに譲り渡すという、便宜的な手段に訴えていたらしい。この国で長く俗世の権力を握ることになる大君〔将軍〕が登場したのも、あるミカドが三歳の息子のために自ら退位したことが原因である。ひとりの簒奪者が、ミカドとなった幼い皇子からその主権をもぎ取った。そこでミカドの大義を擁護したのは、気骨と実行力に富む男、〔源〕頼朝であった。頼朝はその簒奪者を倒し、ミカドにその『影』を回復してやった。つまりは権力という『実体』を、頼朝自身が確保したのである。頼朝は自らが勝ち取った権威を子孫に譲り、こうして代々に亘る大君の創始者となった。十六世紀後半にもなると、大君は実行力のある有能な統治者となった。だが大君たちも、ミカドのそれと同じ運命に見舞われる。大君が、同様に慣習と法の入り組んだ網の目に捕らえられ、単なる傀儡に堕し、城から動くこともなくなり、永遠に続くかのごとき空虚な宴に明け暮れる一方で、実質的な行政は、国策会議によって執り行われたのである」(フレイザー「金枝篇・上・第二章・第一節・P.173~174」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)
(3)「ミカドの食べ物が毎日新しい鍋で調理され、新しい皿に盛られたことは、先に述べたとおりである。鍋も皿も、一度使われただけで割られるか捨てられるため、平凡な陶器であった。大概の場合は割られたが、これはもし他のだれかがこの聖なる皿で食事をすれば、その口と喉は膨れ上がり燃え上がる、と信じられていたからであった。ミカドの衣類も、その許可なくして袖を通した者には、同様の悪しき結果が及ぶと考えられていた。体じゅうが膨れ上がり痛みだすというのである。このような、ミカドの器や衣類を用いることで降りかかると考えられた忌まわしい結果を考えると、われわれには、これまで注目してきた神なる王もしくは人間神としての性質について、もうひとつ別の側面が見えてくる。神なる人間は、祝福の源であると同時に、危険の源でもあるのだ。つまり、それは守られなければならない存在であるのみならず、避けられるべき存在でもある。あまりに繊細であるため触れられただけで変調をきたしてしまうその聖なる有機体は、強い霊力によって充電されている存在でもあるから、それに触れたものはなんであれ、放出される霊力によって致命的な結果に晒される。したがって人間神の隔離は、それ自身のためであると同時に、他の人々の安全にとっても、是非とも必要なことなのである。その神性は火と同じく、適度に抑制されている限りは絶え間ない祝福を与えてくれるものの、軽はずみに触れるものや境界を踏み越えるものがあれば、なんでも焼き尽くし破壊してしまう。それゆえ、タブーを破れば悲惨な結果が待っていると考えられることになる。違反者とは、聖なる火に手を突き出してしまった者なのであり、火は違反者をその場で縮みあがらせ、焼き尽くすのである」(フレイザー「金枝篇・上・第二章・第三節・P.233~234」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)
また一九六八年パリの「五月革命」は<太陽の塔>に大変近い。<太陽の塔>は隠喩化された<パリ「六十八年」>とでもいえようか。
「六十八年がもたらしたのは、現実界の一義性を目のあたりにするという強烈な体験だった。私はそう信じています。六十八年を憎む人や、六十八年は否認されて当然と思っている人に言わせると、あれは象徴界か想像界の問題だったということになります。しかし象徴界も想像界もまったく問題なかった。純粋な現実界が闖入してきたというのが六十八年の実像ですからね」(ドゥルーズ「記号と事件・4・哲学・P.292」河出文庫 二〇〇七年)
ピカソに戻る。「キュビズム」。「立体性」。プルーストもまた「立体」という言葉を用いている。いずれ立ち返ってくることにしよう。