白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・アルベルチーヌ発「割る」という言葉/<制度としてのエロティシズム>からの逃走あるいは「永遠の子供」

2023年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

報告者<私>はいう。「アルベルチーヌは、いくつもの人格を備えていた」。いまさら、と思うに違いない。プルーストはニーチェをよく読み、その内容によく通じよく知っていた。四箇所。

 

(1)「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「《良心の中味》。ーーーわれわれの良心の中味は、幼少時代のわれわれに、われわれのかつて尊敬しあるいは恐れた人びとが理由なく規則的に《要求》したものの一切である。したがってこの良心からあの義務の感情(「これを私はなさねばならない、これをやめねばならない」という)がひき起されたのであるが、しかしこの感情は、《なぜ》私はなさねばならぬのか?を問わない。ーーーしたがって、或ることが『ーーーだから』とか『なぜーーー』という理由づけや理由の詮索とともになされる場合にはすべて、人間は良心《なしに》行動するわけである。しかしだからこそまだ良心に反してではない。ーーーさまざまな権威に対する信仰が良心の源泉である。したがって良心は人間の胸中の神の声ではなく、人間の内部にいる何人かの人間の声である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・五二・P.315~316」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(3)「《自分自身を見失う》。ーーーようやく自分自身を発見したならば、時々自分を《見失い》ーーーそれからまたあらためて発見することを心得ねばならない、ただし、彼が思索家であることを前提とした上で。つまり思索家にとっては、しょっちゅう《ひとつの》人格に結わえつけられていることは害になるからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・三〇六・P.487」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(4)「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫 一九七三年)

 

また<私>はアルベルチーヌにこうもいう。「好きなところでシックな婦人を気取るなり」。しかしそれはプルーストが出入りしていた「社交界」に対する単なる嫌味に過ぎない。問題は身振り(言葉・振る舞い)から到来する。アルベルチーヌはいう。「『そんなものいらないわよ!あんな老いぼれたふたりに一文でも使うぐらいなら、一度でも自由にさせてもらうほうがいいわ、そうしたら割ってもらえーーー』。そう言ったとたん、アルベルチーヌは顔を真っ赤にして困惑した表情になり、私にはさっぱり意味のわからなかったその出てきたばかりのことばを口のなかへ押し戻そうとするかのように、片手を口に押しあてた」。そこですかさず<私>は滑り込む。「『なんだって?アルベルチーヌ』」。

 

「私は、アルベルチーヌがかくも謙虚に、ヴェルデュラン家の仲間内で相手にされていないと想いこんでいることに心を動かされ、やさしくこう言った、『ねえ、きみ、ぼくだって考えてるんだ、何百フランでも喜んであげるから、好きなところでシックな婦人を気取るなり、ヴェルデュラン夫妻を立派な晩餐に招待するなりしたらいい』。ところが遺憾なことにアルベルチーヌは、いくつもの人格を備えていた。そのとき、このうえなく不可思議で、なんの飾りけもない、きわめて残忍なアルベルチーヌがあらわれ、いかにも不愉快という顔で返事したが、じつをいえば私にはそのことばが(最後まで言わなかったので最初のことばさえ)よく聞きとれなかった。私がそのことばを復元できたのは、すこし経って、ようやくアルベルチーヌの言いたかったことを悟ったときにすぎない。過去に言われたことも、理解したときにはじめて聞こえてくるものだ。『そんなものいらないわよ!あんな老いぼれたふたりに一文でも使うぐらいなら、一度でも自由にさせてもらうほうがいいわ、そうしたら割ってもらえーーー』。そう言ったとたん、アルベルチーヌは顔を真っ赤にして困惑した表情になり、私にはさっぱり意味のわからなかったその出てきたばかりのことばを口のなかへ押し戻そうとするかのように、片手を口に押しあてた。『なんだって?アルベルチーヌ』。『なんでもないの、半分うとうとしてたの』。『とんでもない、ちゃんと目を覚ましてるじゃないか』。『ヴェルデュランさんたちとの晩餐のことを考えてたの、あなたが親切に言ってくださったので』。『そうじゃない、きみがなんて言ったのか訊いてるんだよ』。アルベルチーヌは私に、ああ言ったのこう言ったのと答えはしたが、そのどれひとつとしてぴったり一致しなかった。さきの発言は途切れて、判然としなかったから、その発言と合致しないと言うつもりはないが、そのように途切れたこと自体や、そのあと急に顔を赤らめたことと合致しないのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.335~336」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌの身振り。(1)「割る」という言葉。(2)「顔を真っ赤にして困惑した表情になり、私にはさっぱり意味のわからなかったその出てきたばかりのことばを口のなかへ押し戻そうとするかのように、片手を口に押しあてた」という振る舞い。

 

「私は執拗に問いつめた。『もういい加減に、なんとかさっきのことばを終わりまで言ってごらん、確か《割る》とか言ってたけどーーー』。『ああ!やめて、お願い!』『どうしてだい?』『おそろしく下品だから、あたし、その意味さえわからないんだけど、いつか通りでとってもいやらしい人たちが言ってたのを聞いていたことばが、わけもなく口から出てきたのかしら。あたしにも、ほかのだれにも関係ないことで、寝言を言っただけよ』。アルベルチーヌからはこれ以上なにも聞きだせそうになかった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.337」岩波文庫 二〇一七年)

 

黙り込むアルベルチーヌ。<私>の記憶が起動する。「割る」はこれまで罵倒の言葉として何度も使用されてきた。それならわかる。だが「なぜいきなり口をつぐみ、あれほど真っ赤になり、口を手でふさぎ、言ったことをあれやこれやと言い換えたうえ、こちらがはっきり『割る』という語を聞きつけたのを知ったとたん、嘘の解釈をしたのだろう?」。

 

「いずれにせよ今はこれ以上問い詰めても無駄だろう。とはいえ私の記憶には、あの『割る』という語がとり憑いていた。しばしばアルベルチーヌはだれかについて『木を割る』とか『砂糖を割る』とか『こっぴどく割ってやったわ!』とか言って、これを『こっぴどく罵倒してやった!』という意味で使っていた。しかしアルベルチーヌはこれを私の前でごく当たり前に口にしていたのだから、言いたかったのがこれなら、なぜいきなり口をつぐみ、あれほど真っ赤になり、口を手でふさぎ、言ったことをあれやこれやと言い換えたうえ、こちらがはっきり『割る』という語を聞きつけたのを知ったとたん、嘘の解釈をしたのだろう?」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.337~338」岩波文庫 二〇一七年)

 

(1)と(2)との間の距離に余りにも開きがあり、その余白を埋めに来るはずの理由が一つも見あたらない。それが不審だ、と。

 

問題は<身振り>、またしても<身体>なのだ。理由は徐々に明るみにだされていく。

 

さて、「シーレ特集」から。

 

バルトへ言及したところだ。<制度としてのエロティシズム>という問題。その前にシーレに付いてまわってもはや引き剥がしようのないだけでなく、あえて引き剥がす必要のない形容詞「永遠の子供」というフレーズについて、ニーチェとフロイトから。

 

(1)「《永遠の子供》。ーーーわれわれは、お伽噺や遊戯は小児時代に属するものと思っている、われら近視眼の者たちは!われわれは、まるで(いつか)どこかの年齢でお伽噺や遊戯なしに生きることを願っているみたいなのだ!もちろんわれわれは、事物の(子供とは)別な呼び方、感じ方をしてはいる。だがまさにこのことこそがかえって、それが同じものであることの証拠である、ーーーなぜなら、子供もまた、遊戯を自分の仕事、お伽噺を自分の真理と感じているからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二七〇・P.192」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院 一九六九年)

 

子どもにとって現実社会というものは、なにか用意周到に組み立てられた舞台上のパロディめいて感じられる。だから「王様は裸だ」ということができる。

 

「新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得することーーーこれは重荷に堪える敬虔(けいけん)な精神にとっては、身の毛のよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行なうことである。

 

精神はかつて、『汝なすべし』を、自分の奉ずる最も神聖なものとして愛していた。いまかれはこの最も神聖なもののなかにも、迷妄(めいもう)と恣意(しい)を見いださざるをえない。そして自分が愛していたものからの自由を強奪しなければならない。この強奪のために獅子を必要とするのだ。

 

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、『然り』という聖なる発語が必要である。そのとき精神は《おのれの》意欲を意欲する。世界を離れて、《おのれの》世界を獲得する」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫 一九七三年)

 

そして、<制度としてのエロティシズム>とはどういうことか。ステレオタイプ(紋切型)なエロティシズムは種も仕掛けもある、そして今なお問題含みの、ただ単に捏造された<神話>でしかない。制度化されたエロティシズムというただ単なる<猿芝居>にはもはや何一つ悦楽するものがない。近現代の作り話に過ぎない、というわけだ。逆にそうではない<エロティック>なもの、テクストの快楽とは何か。(1)「それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない」。(2)「すべての物語(すべての真相暴露)が(不在の、隠れた、あるいは、三位一体をなす)『父』を登場させることにあるとすれば、それは(起源と結末を裸にする、知る、認識する)オイディプース的な快楽なのであるーーーこのことは説話形式と家族構造と裸体の禁忌の密接なつながりを説明するだろう」。

 

「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である。

 

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない。順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスをみたいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)《希望》に包含される。逆説的にいえば(それが大量消費されるからそういうのだが)、それはテクストの快楽よりずっと知的な快楽である。もしすべての物語(すべての真相暴露)が(不在の、隠れた、あるいは、三位一体をなす)『父』を登場させることにあるとすれば、それは(起源と結末を裸にする、知る、認識する)オイディプース的な快楽なのであるーーーこのことは説話形式と家族構造と裸体の禁忌の密接なつながりを説明するだろう。われわれの文明においては、この三つは、息子たちに覆いを掛けられたノアの神話の中にすべて集約されているのである。

 

しかし最も古典的な物語(ゾラやバルザックやディッケンズやトルストイの小説)には、いわば薄められた合成語分離法とでもいうべきものがある。われわれは全体を同じ緊張度で読みはしない。テクストの《完全性》をあまり大事にしない、無造作なリズムで読む。知りたい一心で、なるべく早く物語の白熱する部分(それは常に物語の関節であり、謎や運命の暴露を進行させる部分だ)に到ろうとして、(《退屈》そうに思われる)ある箇所を斜め読みしたり、抜かしたりする。描写や説明や考察や会話はとばしても罰は受けない(誰も見ていないから)。その時、われわれは、舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客に似ている。《急がせるといっても、順序に従って》、だ。つまり、一方では、儀式の挿話(エピソード)を尊重し、他方では、それを早めるのである(ミサを《はしょる》司祭のように)。快楽の源泉であり、技法である合成語分離法は、ここで、散文的な二つの縁を向い合わせる。秘密を知るのに有用であるものと有用でないものを対立させる。それは単なる機能性の原理から生じた断層である。それは直接言語活動の構造からは生れない。言語活動の消費の時にだけ生れるのである。作者はそれを予見できない。すなわち、《読まれないであろうこと》を書こうとすることはできない。しかし、偉大な物語のもたらす快楽は、読むことと読まないことの織りなすリズムそのものだ。プルーストやバルザックや『戦争と平和』を逐語的に読んだ者がいるだろうか(プルーストの幸せ、それは、誰も、読むたびに、決して同じ箇所はとばさないだろうということだ)」(バルト「テクストの快楽・P.18~21」みすず書房 一九七七年)

 

第一の問題提起。大文字の「父」。それは大文字の<他者>=<言語>のことだ。かなり悲しいことなのだが、専制君主としての<シニフィアン>の導入(言語獲得過程の不可避的導入)によって、人間は生まれるや否や去勢された。ラカンはいう。

 

「もし、エディプス・コンプレックスがシニフィアンの導入でないと言うのなら、エディプス・コンプレックスということについて何らかの考え方を示していただきたいと思います」(ラカン「精神病・下・14・P.14」岩波書店 一九八七年)

 

第二の問題提起。ただ単なる<神話>でしかない<家族のあり方>。オイディプス神話への政治的封じ込め。多様性に対する陰湿かつ暴力的排除。この点についてはドゥルーズ=ガタリから。

 

「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社 一九八六年)

 

そこから出てきた「自閉症」というケース。

 

「分裂症者が苦しむのは、自我が分裂することでも、オイディプスが爆破されることでもない。そうではなくて、逆にまさしく自分が棄て去ってきたものに連れもどされるということなのである。強度がゼロである器官なき身体にまで堕落すれば、これが自閉症である」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・P.155」河出書房新社 一九八六年)

 

ただ注意したい。「自閉症」は一時避難という意味に限れば大変有効な方法である。人間にはそもそも「生の戦略」というものが備わっている。とりわけ世界的規模の戦争中(第一次・第二次・ベトナム戦争、等々)、あるいは「カルト、DV・いじめ・社会的排除、等々」を通して、よく取り上げられ研究されてもきた。数知れぬほど大量の殺戮現場での臨床研究がもたらした資料と蓄積とからなる精神医療の実績がある。

 

人間の限界と可能性。これ以上耐えがたいという環境下に置かれた場合、人間は、とっさにそれまでとはまた異なる思考回路へ開かれ、差異化された別の価値体系へ場所移動することで死を免れることができるよう、あらかじめ出来ていることがしばしばある。<生への意志>が起動する。ただそれは「統合失調症」だったり「自閉症」だったりと、「症状」という形態で出現するケースが大変多い。どこか<ずれ>て見える。負のイメージに取り憑かれている。ところがそれこそ自己破滅してしまわないための「生の戦略」の一つだ。<ずれ>ていいのである。余裕を作ること。余裕を生きるための場所を見つけること。「待つ」という態度が取れることの大切さ。ところが逆に今の世界はどんどん<死ぬこと>、それも<もっと大量の死>ばかり加速させているのはなぜだろう。唖然とさせる狡猾な空気にまとわりつかれ、覆いかぶさられないよう注意深くありたいものだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて248

2023年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。分厚い雲の下をひと回りしてきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

日の入時刻と思われます。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“外来魚回収ボックス”」(2023.2.13)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“湖西道路高架下”」(2023.2.13)

 

二〇二三年二月十三日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

 


Blog21・アルベルチーヌの一体何がどのように<有罪>なのか、へ行くこと/漫画によるシーレ体験と「いつも冬」であることの魅力と限界

2023年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>のいう「けしからぬ交友」。全篇を通してプルーストが問いかける<有罪性>とは何なのか。そこへ架かる橋まですでにもう一歩しかない。それを言ってしまえば後がないという「最後の言葉」。待っているのは決定的「別離」。<私>には見えていた。だがアルベルチーヌはもっと遠くまでしっかり見据えていた。ところが<私>はアルベルチーヌの嘘を告発しつつ、ここでもまだ見通しが甘いのである。

 

「ところが、ほかでもない、アルベルチーヌが別離を妨げようとして口にしたその文言が、別離を不可能にする以上の効果を即刻もたらしたのである。ただしアルベルチーヌは解釈を誤っていた。つまり、その文言がもたらす結果はたしかに思惑どおりであったが、その文言がなぜそんな結果をもたらすのかという原因の解釈は間違っていたわけで、その原因とは、アルベルチーヌの音楽にかんする教養を知ったことにあるわけではなく、そのけしからぬ交友を知ったことにあったのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.334」岩波文庫 二〇一七年)

 

<私>は嘘をつく。その嘘はその場限りの嘘として空回りするしかない。だがアルベルチーヌの嘘はいつも社会的広がりを得て複合している。

 

「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしも万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)

 

どのようにして可能になるのか。

 

「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・序論・P.62~63」河出文庫 二〇〇七年)

 

というわけだ。

 

さらにフランソワーズたち、方言を用いる身振り(言葉・振る舞い)としての<女中たち>の場合、こんな事情も加わってくる。「ぴったり閉ざされた扉よりもはるかに越えがたい障壁をつくった。つまり方言で話すこと」。

 

「フランソワーズの娘がもしも母親と方言で話すのに甘んじていたら、母親の古典的なことば遣いを訳のわからぬ最低のものへ堕落させることはなかったであろう。娘は完全に方言を使わなくなったわけではなく、私のそばにいて母親との内緒の話があるときは、ふたりは台所に閉じこもるのではなく、私の部屋の真ん中に、ぴったり閉ざされた扉よりもはるかに越えがたい障壁をつくった。つまり方言で話すことにしたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.345」岩波文庫 二〇一六年)

 

この種の「ぴったり閉ざされた扉よりもはるかに越えがたい障壁」。それを可能にする条件について。別の言語体系の使用によってもたらされる異なる価値体系の創設。

 

「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)

 

しかし、考えさせられるに違いない。アルベルチーヌの一体何がどのように<有罪>なのかと。プルーストは僅か数行先でもう取り返しがつかなくなるしかない場面を設定している。とはいえ、取り返しがつかなくなるのは<私>とアルベルチーヌとの同棲の破綻、「別離」という切断にのみ限られている。世界中の多くの、極めて多くの読者がすでに知っているように。

 

さて、「エゴン・シーレ特集」。あまり後回しにしていると差別では?との疑いがかけられそうなのでそろそろ取り上げたい。漫画によるシーレ批評。板垣巴留は自作の漫画を通してシーレとの出会いあるいは「出会い損ない」について語っている。

 

「有名な『死と乙女』とかまさしく両者が抱き合ってるわけだ(絵画分析ぽくなってきましたよ)」(板垣巴留「エゴン・シーレについて」『ユリイカ・2023・02・P.91』青土社 二〇二三年)

 

漫画としての面白さはかなりある。けれども文字通り「抱き合ってる」としか言えないし、シーレ自身、そういうふうにしか描いていない点に注目したい。

 

話は戻ってしまうがラカン。

 

「性欲動の終着点は死であることに驚くことはありません。生命体における性の現前は死へと結びついているのですから」(ラカン「精神分析の四基本概念・14・P.235」岩波書店 二〇〇〇年)

 

だから世界の大多数の人々は「小さな死」がもたらす快楽に耽り込むことで、いずれ必ず訪れる一度きりの死をできる限り先延ばしすることにしている。性的快楽の繰り返しはなるほど悦ばしいには違いない。井岡詩子が引用しているようにバタイユはこう述べる。

 

「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる。適切に言えば、これは定義ではない。しかし、私はこの言い方が何よりもよくエロティシズムの意味を伝えていると思う」(バタイユ「エロティシズム・序論・P.16」二見書房 一九七三年)

 

ラカンもバタイユも恐ろしいくらいヘーゲルの影響下にあることを確かめた上でいうと、古代はそれを儀式/祭祀という形式で消化することができていたと言わねばならない。ギリシアのディオニュソス祭がその典型例だ。とともに他の様々な地域を見てみる。するとディオニュソス祭に極めて近い儀式を定期的に執り行うことで自分たち共同体の同時崩壊を寸前回避する知恵を持っていた。底知れぬ破壊的エネルギーは外部ではなく内部から湧き起こるものだからである。その最小限度の利用と全面的破滅からの回避とにまたがる諸々の古代共同体の知恵。<野生の教養>とでも呼ぶべきか。

 

ところが近現代の出現とともに何かが起こった。軍事というべきだろうか。ではなく、問題は今なお「軍事<秩序>」だ。あるいは「軍事」の「秩序化」という問題。常にすでに現在進行形を取りつつ押し進められ加速化される「軍事行為」のさらなる<合理化への意志>が、その都度次々取り換えていくその仮面こそが、問題なのだ。

 

「軍事秩序は、消尽が大饗宴(オルギア)さながらに頻繁に繰り返される情況に応じていたあの漠然たる不安感や不満の感情に終止符を打った。それは諸力を合理的に用いるよう命じ、そうすることで権力の絶え間ない増大を計ったのである。征服という方法的な精神は、供儀の精神とは正反対なものであり、そもそも初めから軍事社会の王たちは供儀に捧げられるのを拒むのである。軍事秩序の原則は、暴力性を方法的なやり方で外部へと方向転換することである。もし暴力性が内部で猛威をふるっているとすると、軍事秩序は可能な限りそれに対立しようとする。そして暴力の方向を外へとずらしながら、ある現実的な目標へとそれを服従させる。このようにして軍事秩序は一般的に暴力を服従させるのである。だから軍事秩序は派手に人目をひく戦闘の諸形態とは、つまりそういう戦闘は有効性を合理的に計算することよりも狂熱の堰を切ったような爆発によりよく応じているのだけれども、そのような戦闘形態とは正反対のものなのである。軍事秩序はもはや、かつて原始的な社会体制が戦闘や祝祭においてそうしたように、諸力の最も大きな濫費を狙うことはない。諸力を蕩尽する活動は残っているけれども、ある効率的生産性の原則に最大限に服従しているのである。力が濫費されるとしても、それはもっと大きな力を獲得する目的でそうされるのである。原始的な社会は、戦争においても、奴隷を掠奪することに限定していた。そしてその社会の原則に応じて、こうした獲得物を祭礼において虐殺することでその埋め合せをしていたのである。ところが軍事秩序は戦争から得た収益を奴隷へと編成し、奴隷という収益を労働へと編成する。征服という活動をある方法的な操作、つまり帝国の拡大を目ざした操作とするのである」(バタイユ「宗教の理論・第二部・一・P.85~86」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

 

言葉の上では同じ「競争」ではあるものの、動物は、人間のやらかす「戦争」とはまったく違っている。

 

「動物の生においては、主人とその命令下にある奴隷という関係を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものもなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒すより高い波に過ぎない。ある動物が他の動物を食べるということは、根本的な情況を変えるものではまずないのである。全て動物は、《世界の内にちょうど水の中に水があるように》存在している」(バタイユ「宗教の理論・第一部・一・P.23」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

 

動植物が繰り広げる循環。その害のなさ。にもかかわらず人間の傲慢さは、それを無視する態度、見ようとしない態度、根っから弱いメンタルにある。

 

「抱き合ってる」としか言えないし、シーレ自身、そういうふうにしか描いていない。シーレもまた直面することから逃げたと言える。どこまでも抽象化へ加速することは、とてもではないが、できなかったシーレ。その絵画がまともに語りかける「退行」の履歴。とはいえ余りにも早く死んでしまったわけで、その後、何をどう描いたのだろうという問いは宙吊りのままだ。

 

板垣巴留は「絵画分析」という。有効な手段だ。けれど、今の精神医療の現場ではそれができない。なぜなら、阪神淡路大震災の被害者の一部がそうであり東日本大震災の被害者の一部がそうであり、なおかつJR福知山線脱線事故の被害者の一部もまたそうであったように、無理に絵を描かせると凄惨な事件現場がフラッシュバックしてしまい、気を失う人々が続出したからである。なので今は、類似性が認められる事件事故(戦争・言葉の暴力・自称マス-メディアによる仰々しい煽動・いじめ・DV・社会的排除、等々)の被害者に接する場合、受け入れる側は、被害者が自分から絵を書いたり詩を書き始めたりし出すのを、辛抱強く「待つ」という態度が重要になった。

 

また絵画の場合、「彩色」ということに注意を払うのも重要だ。シーレの絵画は彩色されている。だがそれはとても寒い光景である。「いつも冬」。そこに魅力も限界もある。どんな彩色であれ抽象化であれ、中井久夫の言葉を借りれば、「クレーはその成就、統合失調者はその失敗」を、指し示す。詩ならリルケは成就させて見せた側だろう。

 

「もとよりただならぬことである 地上の宿(やど)りをはや捨てて、学び覚えたばかりの世の慣習(ならわし)をもはや行なうこともなく、バラの花、さてはその他の希望(のぞみ)多いさまざまの物に、人の世の未来の意義をあたえぬことは。かぎりなくこまやかな配慮の手にいたわられることも もはやなく、おのが名さえも こわれ玩具(おもちゃ)のように捨て去ることは。この世の望みを望みつづけることも絶え、たがいにかかわりあい結びあっていた一切が、木の葉のように飛び散って行くのを見ることは」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第一・P.12~13」岩波文庫 一九五七年)

 

なお、バタイユのエロティシズム論とはまた別の場所で<エロティック>という<制度>について語ったバルトを忘れるわけにはいかない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて247

2023年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は雨。湿度は6時で97パーセントの予想。湖東方面も雨。鈴鹿峠も雨のようです。

 

午前六時二十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.13)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.13)

 

二〇二三年二月十三日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。