報告者<私>はいう。「アルベルチーヌは、いくつもの人格を備えていた」。いまさら、と思うに違いない。プルーストはニーチェをよく読み、その内容によく通じよく知っていた。四箇所。
(1)「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「《良心の中味》。ーーーわれわれの良心の中味は、幼少時代のわれわれに、われわれのかつて尊敬しあるいは恐れた人びとが理由なく規則的に《要求》したものの一切である。したがってこの良心からあの義務の感情(「これを私はなさねばならない、これをやめねばならない」という)がひき起されたのであるが、しかしこの感情は、《なぜ》私はなさねばならぬのか?を問わない。ーーーしたがって、或ることが『ーーーだから』とか『なぜーーー』という理由づけや理由の詮索とともになされる場合にはすべて、人間は良心《なしに》行動するわけである。しかしだからこそまだ良心に反してではない。ーーーさまざまな権威に対する信仰が良心の源泉である。したがって良心は人間の胸中の神の声ではなく、人間の内部にいる何人かの人間の声である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・五二・P.315~316」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「《自分自身を見失う》。ーーーようやく自分自身を発見したならば、時々自分を《見失い》ーーーそれからまたあらためて発見することを心得ねばならない、ただし、彼が思索家であることを前提とした上で。つまり思索家にとっては、しょっちゅう《ひとつの》人格に結わえつけられていることは害になるからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・三〇六・P.487」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(4)「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫 一九七三年)
また<私>はアルベルチーヌにこうもいう。「好きなところでシックな婦人を気取るなり」。しかしそれはプルーストが出入りしていた「社交界」に対する単なる嫌味に過ぎない。問題は身振り(言葉・振る舞い)から到来する。アルベルチーヌはいう。「『そんなものいらないわよ!あんな老いぼれたふたりに一文でも使うぐらいなら、一度でも自由にさせてもらうほうがいいわ、そうしたら割ってもらえーーー』。そう言ったとたん、アルベルチーヌは顔を真っ赤にして困惑した表情になり、私にはさっぱり意味のわからなかったその出てきたばかりのことばを口のなかへ押し戻そうとするかのように、片手を口に押しあてた」。そこですかさず<私>は滑り込む。「『なんだって?アルベルチーヌ』」。
「私は、アルベルチーヌがかくも謙虚に、ヴェルデュラン家の仲間内で相手にされていないと想いこんでいることに心を動かされ、やさしくこう言った、『ねえ、きみ、ぼくだって考えてるんだ、何百フランでも喜んであげるから、好きなところでシックな婦人を気取るなり、ヴェルデュラン夫妻を立派な晩餐に招待するなりしたらいい』。ところが遺憾なことにアルベルチーヌは、いくつもの人格を備えていた。そのとき、このうえなく不可思議で、なんの飾りけもない、きわめて残忍なアルベルチーヌがあらわれ、いかにも不愉快という顔で返事したが、じつをいえば私にはそのことばが(最後まで言わなかったので最初のことばさえ)よく聞きとれなかった。私がそのことばを復元できたのは、すこし経って、ようやくアルベルチーヌの言いたかったことを悟ったときにすぎない。過去に言われたことも、理解したときにはじめて聞こえてくるものだ。『そんなものいらないわよ!あんな老いぼれたふたりに一文でも使うぐらいなら、一度でも自由にさせてもらうほうがいいわ、そうしたら割ってもらえーーー』。そう言ったとたん、アルベルチーヌは顔を真っ赤にして困惑した表情になり、私にはさっぱり意味のわからなかったその出てきたばかりのことばを口のなかへ押し戻そうとするかのように、片手を口に押しあてた。『なんだって?アルベルチーヌ』。『なんでもないの、半分うとうとしてたの』。『とんでもない、ちゃんと目を覚ましてるじゃないか』。『ヴェルデュランさんたちとの晩餐のことを考えてたの、あなたが親切に言ってくださったので』。『そうじゃない、きみがなんて言ったのか訊いてるんだよ』。アルベルチーヌは私に、ああ言ったのこう言ったのと答えはしたが、そのどれひとつとしてぴったり一致しなかった。さきの発言は途切れて、判然としなかったから、その発言と合致しないと言うつもりはないが、そのように途切れたこと自体や、そのあと急に顔を赤らめたことと合致しないのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.335~336」岩波文庫 二〇一七年)
アルベルチーヌの身振り。(1)「割る」という言葉。(2)「顔を真っ赤にして困惑した表情になり、私にはさっぱり意味のわからなかったその出てきたばかりのことばを口のなかへ押し戻そうとするかのように、片手を口に押しあてた」という振る舞い。
「私は執拗に問いつめた。『もういい加減に、なんとかさっきのことばを終わりまで言ってごらん、確か《割る》とか言ってたけどーーー』。『ああ!やめて、お願い!』『どうしてだい?』『おそろしく下品だから、あたし、その意味さえわからないんだけど、いつか通りでとってもいやらしい人たちが言ってたのを聞いていたことばが、わけもなく口から出てきたのかしら。あたしにも、ほかのだれにも関係ないことで、寝言を言っただけよ』。アルベルチーヌからはこれ以上なにも聞きだせそうになかった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.337」岩波文庫 二〇一七年)
黙り込むアルベルチーヌ。<私>の記憶が起動する。「割る」はこれまで罵倒の言葉として何度も使用されてきた。それならわかる。だが「なぜいきなり口をつぐみ、あれほど真っ赤になり、口を手でふさぎ、言ったことをあれやこれやと言い換えたうえ、こちらがはっきり『割る』という語を聞きつけたのを知ったとたん、嘘の解釈をしたのだろう?」。
「いずれにせよ今はこれ以上問い詰めても無駄だろう。とはいえ私の記憶には、あの『割る』という語がとり憑いていた。しばしばアルベルチーヌはだれかについて『木を割る』とか『砂糖を割る』とか『こっぴどく割ってやったわ!』とか言って、これを『こっぴどく罵倒してやった!』という意味で使っていた。しかしアルベルチーヌはこれを私の前でごく当たり前に口にしていたのだから、言いたかったのがこれなら、なぜいきなり口をつぐみ、あれほど真っ赤になり、口を手でふさぎ、言ったことをあれやこれやと言い換えたうえ、こちらがはっきり『割る』という語を聞きつけたのを知ったとたん、嘘の解釈をしたのだろう?」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.337~338」岩波文庫 二〇一七年)
(1)と(2)との間の距離に余りにも開きがあり、その余白を埋めに来るはずの理由が一つも見あたらない。それが不審だ、と。
問題は<身振り>、またしても<身体>なのだ。理由は徐々に明るみにだされていく。
さて、「シーレ特集」から。
バルトへ言及したところだ。<制度としてのエロティシズム>という問題。その前にシーレに付いてまわってもはや引き剥がしようのないだけでなく、あえて引き剥がす必要のない形容詞「永遠の子供」というフレーズについて、ニーチェとフロイトから。
(1)「《永遠の子供》。ーーーわれわれは、お伽噺や遊戯は小児時代に属するものと思っている、われら近視眼の者たちは!われわれは、まるで(いつか)どこかの年齢でお伽噺や遊戯なしに生きることを願っているみたいなのだ!もちろんわれわれは、事物の(子供とは)別な呼び方、感じ方をしてはいる。だがまさにこのことこそがかえって、それが同じものであることの証拠である、ーーーなぜなら、子供もまた、遊戯を自分の仕事、お伽噺を自分の真理と感じているからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二七〇・P.192」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院 一九六九年)
子どもにとって現実社会というものは、なにか用意周到に組み立てられた舞台上のパロディめいて感じられる。だから「王様は裸だ」ということができる。
「新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得することーーーこれは重荷に堪える敬虔(けいけん)な精神にとっては、身の毛のよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行なうことである。
精神はかつて、『汝なすべし』を、自分の奉ずる最も神聖なものとして愛していた。いまかれはこの最も神聖なもののなかにも、迷妄(めいもう)と恣意(しい)を見いださざるをえない。そして自分が愛していたものからの自由を強奪しなければならない。この強奪のために獅子を必要とするのだ。
しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、『然り』という聖なる発語が必要である。そのとき精神は《おのれの》意欲を意欲する。世界を離れて、《おのれの》世界を獲得する」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫 一九七三年)
そして、<制度としてのエロティシズム>とはどういうことか。ステレオタイプ(紋切型)なエロティシズムは種も仕掛けもある、そして今なお問題含みの、ただ単に捏造された<神話>でしかない。制度化されたエロティシズムというただ単なる<猿芝居>にはもはや何一つ悦楽するものがない。近現代の作り話に過ぎない、というわけだ。逆にそうではない<エロティック>なもの、テクストの快楽とは何か。(1)「それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない」。(2)「すべての物語(すべての真相暴露)が(不在の、隠れた、あるいは、三位一体をなす)『父』を登場させることにあるとすれば、それは(起源と結末を裸にする、知る、認識する)オイディプース的な快楽なのであるーーーこのことは説話形式と家族構造と裸体の禁忌の密接なつながりを説明するだろう」。
「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である。
それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない。順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスをみたいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)《希望》に包含される。逆説的にいえば(それが大量消費されるからそういうのだが)、それはテクストの快楽よりずっと知的な快楽である。もしすべての物語(すべての真相暴露)が(不在の、隠れた、あるいは、三位一体をなす)『父』を登場させることにあるとすれば、それは(起源と結末を裸にする、知る、認識する)オイディプース的な快楽なのであるーーーこのことは説話形式と家族構造と裸体の禁忌の密接なつながりを説明するだろう。われわれの文明においては、この三つは、息子たちに覆いを掛けられたノアの神話の中にすべて集約されているのである。
しかし最も古典的な物語(ゾラやバルザックやディッケンズやトルストイの小説)には、いわば薄められた合成語分離法とでもいうべきものがある。われわれは全体を同じ緊張度で読みはしない。テクストの《完全性》をあまり大事にしない、無造作なリズムで読む。知りたい一心で、なるべく早く物語の白熱する部分(それは常に物語の関節であり、謎や運命の暴露を進行させる部分だ)に到ろうとして、(《退屈》そうに思われる)ある箇所を斜め読みしたり、抜かしたりする。描写や説明や考察や会話はとばしても罰は受けない(誰も見ていないから)。その時、われわれは、舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客に似ている。《急がせるといっても、順序に従って》、だ。つまり、一方では、儀式の挿話(エピソード)を尊重し、他方では、それを早めるのである(ミサを《はしょる》司祭のように)。快楽の源泉であり、技法である合成語分離法は、ここで、散文的な二つの縁を向い合わせる。秘密を知るのに有用であるものと有用でないものを対立させる。それは単なる機能性の原理から生じた断層である。それは直接言語活動の構造からは生れない。言語活動の消費の時にだけ生れるのである。作者はそれを予見できない。すなわち、《読まれないであろうこと》を書こうとすることはできない。しかし、偉大な物語のもたらす快楽は、読むことと読まないことの織りなすリズムそのものだ。プルーストやバルザックや『戦争と平和』を逐語的に読んだ者がいるだろうか(プルーストの幸せ、それは、誰も、読むたびに、決して同じ箇所はとばさないだろうということだ)」(バルト「テクストの快楽・P.18~21」みすず書房 一九七七年)
第一の問題提起。大文字の「父」。それは大文字の<他者>=<言語>のことだ。かなり悲しいことなのだが、専制君主としての<シニフィアン>の導入(言語獲得過程の不可避的導入)によって、人間は生まれるや否や去勢された。ラカンはいう。
「もし、エディプス・コンプレックスがシニフィアンの導入でないと言うのなら、エディプス・コンプレックスということについて何らかの考え方を示していただきたいと思います」(ラカン「精神病・下・14・P.14」岩波書店 一九八七年)
第二の問題提起。ただ単なる<神話>でしかない<家族のあり方>。オイディプス神話への政治的封じ込め。多様性に対する陰湿かつ暴力的排除。この点についてはドゥルーズ=ガタリから。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社 一九八六年)
そこから出てきた「自閉症」というケース。
「分裂症者が苦しむのは、自我が分裂することでも、オイディプスが爆破されることでもない。そうではなくて、逆にまさしく自分が棄て去ってきたものに連れもどされるということなのである。強度がゼロである器官なき身体にまで堕落すれば、これが自閉症である」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・P.155」河出書房新社 一九八六年)
ただ注意したい。「自閉症」は一時避難という意味に限れば大変有効な方法である。人間にはそもそも「生の戦略」というものが備わっている。とりわけ世界的規模の戦争中(第一次・第二次・ベトナム戦争、等々)、あるいは「カルト、DV・いじめ・社会的排除、等々」を通して、よく取り上げられ研究されてもきた。数知れぬほど大量の殺戮現場での臨床研究がもたらした資料と蓄積とからなる精神医療の実績がある。
人間の限界と可能性。これ以上耐えがたいという環境下に置かれた場合、人間は、とっさにそれまでとはまた異なる思考回路へ開かれ、差異化された別の価値体系へ場所移動することで死を免れることができるよう、あらかじめ出来ていることがしばしばある。<生への意志>が起動する。ただそれは「統合失調症」だったり「自閉症」だったりと、「症状」という形態で出現するケースが大変多い。どこか<ずれ>て見える。負のイメージに取り憑かれている。ところがそれこそ自己破滅してしまわないための「生の戦略」の一つだ。<ずれ>ていいのである。余裕を作ること。余裕を生きるための場所を見つけること。「待つ」という態度が取れることの大切さ。ところが逆に今の世界はどんどん<死ぬこと>、それも<もっと大量の死>ばかり加速させているのはなぜだろう。唖然とさせる狡猾な空気にまとわりつかれ、覆いかぶさられないよう注意深くありたいものだ。