白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて254

2023年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。雪が今にも降り出しそうな気配です。でも降ってきませんでした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

二〇二三年二月十六日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・「盗まれた手紙」から「隠された手紙」への接続失敗=迂回としてのベルゴットの本/シーレとともに問う<始めからつまずいていた認識装置>

2023年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ベルゴットの本は放り出されたまま一人歩きしていくだろう。その都度いつも宛先を変えながら、ずっと迂回し続けながら。

 

問題は心理学的ゲームではなく弁証法的ゲームだ。と言いたいところだが、一旦ラカンの限界に触れておく必要がある。テキストはポー「盗まれた手紙」。

 

かといって、「手紙」の所有権が問題なのではない。「この手紙が持つ圧力の耐え難さは、大臣が手紙に対して王妃と同じ態度を取っていること、つまりそのことを話さないことに由来しています。彼が手紙のことを話さないのは、王妃と同じように、彼も手紙のことを話すことができないからです。彼が手紙のことを話すことができないというその一事のために、彼は第二場の流れの中で、王妃と同じ立場に立たされます」とある。まず二箇所。

 

(1)「この手紙が持つ圧力の耐え難さは、大臣が手紙に対して王妃と同じ態度を取っていること、つまりそのことを話さないことに由来しています。彼が手紙のことを話さないのは、王妃と同じように、彼も手紙のことを話すことができないからです。彼が手紙のことを話すことができないというその一事のために、彼は第二場の流れの中で、王妃と同じ立場に立たされます。彼は、手紙がこっそりと奪い去られていくのをどうすることもできません。それは、デュパンの策略に負っているのではなくて、事態の構造に負っているのです。

 

盗まれた手紙は隠された手紙になりました。何故警察はそれを見つけ出せないのでしょう。それは、警察は手紙とは何かを知らないからです」(ラカン「自我・下・16・P.44~45」岩波書店 一九九八年)

 

それ(手紙-文字)は、<ある>と同時に<ない>、というただならぬ事情。しかしなぜそういうことになってしまうのか。ニーチェはいう。

 

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

しかし気づいた人々はいた。今なおいる。だがなぜ、気づいた人々は揃いも揃って虐殺されてしまったのか。という問いは残っている。事情はこうだ。

 

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ。ーーー私たちは私たちの先祖たちの感覚の遺物のうちで、いわば感情の化石のうちで生きているのだ。先祖たちは虚構し空想した、ーーーしかし、こういう虚構され空想されたものが生きつづけて差しつかえないかどうかの決定は、そういうものによって《生きる》ことができるか、それともそういうものによって破滅するかに関する経験によって、与えられたのだ。誤謬でも真理でもよかったのだ、ーーー《もし》これらによって《生》が可能でありさえ《すれば》!次第に或る貫通しがたい《網》がそこに発生したのだ!この網に《巻き込まれて》私たちは生まれてくるのであり、そして科学もまた私たちをその中から解放してくれない」(ニーチェ「生成の無垢・下・八九・P.63~64」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

ラカンへ戻る。

 

(2)「そこには前のように三人の人物と手紙があるわけではない、と皆さんはおっしゃるでしょう。手紙は確かにあります。二人の人物がいます。しかし王はどこにいるのでしょう。そうです、四人目はまさに警察なのです。大臣が自分は安全だと思っていられるのは、警察が彼の安全の一翼を担っているからです。それは、ちょうど王が王妃の安全の一翼を担っていたのと同じです。もちろん、両儀的な保護ですが。つまり保護といっても、夫が妻に対して援助や保護の義務を負うという意味で、王が王妃に対して義務として負っている保護であり、また反面それは、王妃が王の盲目さのおかげで手にしている保護という意味でもあるからです。そういうわけで、ちょっとしたすきに手紙が掠め取られてしまうためには、大したことは必要ありません。少し均衡が崩れるだけで十分です。そしてそれが、大臣に起こります。

 

何箇月ものあいだ屋敷を捜索した警察が手紙を見つけられなかったのだから、自分は安全だと思い込んだのが、大臣の失敗です。それはちょうど、手紙のことに気づかない王が居合わせていたことが王妃にとって何の保護にもならなかったのと同じように、安全性の証明には全くなりません。彼の誤りはどこにあるのでしょう。それは、警察が手紙を見つけられなかったのは、警察に見つける能力がなかったからではなくて、警察は別のものを捜していたからだ、ということを大臣が忘れてしまっていたことです。駝鳥は、砂の中に頭を突っ込んでおれば安全だと思っています。では大臣はどうでしょう。彼は他の駝鳥ーーー他人-首ーーーが砂に頭を突っ込んでいるので自分は安全と思っているこれまた駝鳥です。そしいてこの駝鳥は、後ろから第三の駝鳥に羽をむしられ、この第三の駝鳥は羽を取って自分の羽飾りにします。

 

大臣は、王妃がいた位置にいます。これらの人物間の移行は完璧です。そして、この悪人中の悪人、野心家中の野心家、謀略家中の謀略家、ディレッタント中のディレッタントは、話に割り込んでこの何でもない手紙を手に入れることになってしまったがために、秘密が自分の鼻先から奪われようとしていることが見えなくなっています。

 

大臣の注意をちょっとそらすには警察を思わせるものが少しでもあればそれで十分でした。実際、表通りの出来事が大臣の注意を引いたのは、自分が警察に監視されていることを大臣が知っていたからです。つまり、『私は辻々で三人ずつの警官に見張られているというのに、私の家の前で何かが起こるなんてどういうことだ』と思ったからです。彼は手紙を手にして女性化されてしまっただけでなく、無意識と関係があると皆さんに申し上げたこの手紙が彼に本質的なことを忘れさせたのです。無人島で発見された人の話をご存知ですね。彼はあることを忘れるために無人島に引き籠ったのですが、『何を忘れるために』と尋ねられて、『それを忘れてしまった』と答えました。大臣もまた、警察に監視されているのだから、自分以上にうまくやる者はいないだろうなどと考えてはならない、ということを忘れてしまったのです。

 

次の段階は大変好奇心をそそられます。デュパンはどのように行動したのでしょう。警視総監の二回の訪問の間には長い間隔があったことに注意してください。デュパンは手紙を手に入れて依頼、警視総監にも他の誰にも一言もいいません。結局、この手紙を持っていることーーーそれが彷徨い歩く真理の意味作用なのですーーーこのことが口を閉ざさせるのです。実際彼は誰にその事を話せたでしょう。彼は当惑していたに違いありません。

 

幸いなことに、警視総監というものがいつも犯罪現場へ戻ってくるように、この警視総監もデュパンのところへやってきて尋ねます。デュパンは彼に無料で最高の診療を受けようとする男の話を聞かせます。処方を騙し取られそうになったイギリスの医者の話です。ーーー『こういう場合、先生なら何を処方されますか』。すると医者は答えます。『医者の助言ですな』。デュパンはこうして警視総監に、謝礼は決して安くないことを教えます。このお人好しが直ちに小切手にサインをすると、デュパンは『ここ、私の引き出しの中にある』と言います。

 

それはつまり、これまで最高の人物であり、きわめて明晰であったこのデュパンが、突然みすぼらしい密売人になってしまった、ということでしょうか。私はそこにこの手紙に憑いていた悪い『マナ』とでも呼べそうなものの買取りをすら見てもよいかと思います。そして実際、彼が謝礼を受け取ったことによって、彼は窮地を脱します。彼が手紙を他者に渡したためばかりでなく、誰の目にも彼の動機は明らかですーーー金に手を着けたのですから、もはやただではすんでいません。謝礼という形の報酬の聖なる価値は、先程の医者の小話という前置きがはっきり示しています。

 

別に固執するつまりはありませんが、次のように言うことは許されるでしょう。つまり、患者のあらゆる盗まれた手紙の配達人として時を過ごしている我々もまた、多少とも高額のお金を支払わせていますが、それは、我々が患者に支払わせなければ、自分たちの真理を打ち明けにやってくるすべての患者のドラマである、あのアトレとティエストのドラマに我々の方が陥ってしまうからだということです。このことをよく考えてみてください。患者は我々に彼らの聖なる歴史を語ります。だからといって、我々が聖なるものとか、生贄の次元にいるわけでは決してありません。誰もが知っているように、たんにお金でものが買えるだけでなく、我々の文明において最も正しく計算されている価格というものが、お金を支払うことよりもはるかに危険なこと、つまり誰かに何かを負っているということを和らげる機能を持っているからです。

 

問題はそういうことです。この手紙を持っている者は誰でも、影の中に入ってしまいます。影ができてしまうのは、手紙が誰に宛てられているからでしょうか。まさに当事者以外の人物に宛てられているからです。つまり王です。そして手紙は結局王のところへ届くことになるのでしょうが、それはデュパンが彼の想像上の話として語っているような具合にではありません。つまり王妃にさんざん侮辱されて、大臣が愚かにも事を暴露するというふうにではありません。手紙は本当に王に届くのです。そしてその王は、やはり何も知らない王なのです。しかし王の配役は、この間に変わってしまいました。大胆さにつき動かされて王妃になってしまった大臣、彼が今や王なのです。第三段階で彼は王の位置を占めています。そして彼は手紙を持っています。

 

もちろん、もうあの手紙ではありません。つまりデュパンから警視総監の手へーーーそしてさらに内閣情報室へと、手紙のオデッセイは終わっていませんーーー渡ったあの手紙ではありません。それはデュパンが手紙に与えた新しい形です。それは、ポーが描いて見せてくれた以上に運命の道具であり、通俗的な言い方をすると、抉るようなむごい側面をこの小さな物語に与える挑発的な形です。大臣が手紙を開けたとき、彼は横面を張り飛ばすような次の詩句を目にします。

 

『ーーーかくも忌まわしきたくらみは、アトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしい』

 

そして実際、この手紙をいったん開けてしまうと、大臣は自分自身の行為の帰結に従うしかなくなります。つまりティエストのように自分の子どもを食べるしかないのです」(ラカン「自我・下・16・P.47~51」岩波書店 一九九八年)

 

そこまで述べた上で、しかしラカンはいう。「手紙というものはいつも宛先に届く」と。構造主義的な観点に立っている限り、いつもそうなのだ。「手紙-文字」は「いつも宛先に届く」。ラカンが相手にしているのが精神病理学者の卵たちだから、という理由もなくはない。

 

けれどもそれにも増して、ラカン自身がヘーゲル弁証法に忠実に留まり続けている以上、「手紙-文字」は「いつも宛先に届く」という<神話>に依拠するほかない。「宛先」というのは医師の側を指す。

 

精神医療の現場では被分析者(患者)の側から出てくる言葉を辛抱強く<待つこと>が大切なのだが、ラカンの場合、ややもすればヘーゲルのようにあらかじめ<先取り>してしまうケースが少なくない。もっとも今では、たとえラカン派(日本では、例えば斉藤環など)といえども、精神医療の現場では、間違ってもヘーゲルのように被分析者(患者)の側から出てくる言葉を<先取り>して口にしてしまうような殺人的ミスは稀になった。だからといって、逆の場合、被分析者(患者)の側から医師に向けて医師の側が期待しているだろうと思われる言葉を先取って口にするような事故はまだまだ後を絶たない。

 

<先取り>は常に同調圧力という余計で危険極まりない暴力を瞬時に誘発する。そんな同調圧力としての<先取り>を欲望して止まない被分析者(患者)。そうしなくていいと重ね重ねアドバイスされてもなお強力かつ執拗な同調圧力の側へ飛び込みたくてうずうずしている被分析者(患者)。社会的規模で発生する同調圧力は常に、種も仕掛けもある多数派の誘惑行為でしかない。ところがいつも心細い思いで一杯の怯えきったマイノリティは、不安をかき立てられる余り、それゆえそこへ飛び込んでいく。わざわざ自殺へ加速するわけだ。

 

もっとも、そういうケースのほとんどはここ十五年くらいで、もう自殺してしまってこの世にいない。だが予備軍となると逆に猛烈な勢いで増殖している。実例なら幾らでもある。あちこちごろごろ転がっている。多くは「IT企業とその長者たち」が発信する情報と同一化したくてしたくて堪らない、そうしていないと不安で不安で仕方がないという、心の余裕を失った人々だ。だからなおさら、医師であろうと患者であろうと、両者ともに重要になってくるのは辛抱強く<待つ>という態度である。逆に「自称テレビ-マス-メディア」というのは騒ぐだけ騒ぎ立てるばかりで一向に責任を取ろうとしない。救援-保護のための選択肢はますます減少していくーーー。

 

同調圧力としての<先取り>はなぜそんなにも危険なのか。ホルクハイマー=アドルノたちが「血を求める呼び声」と名指しているもの。

 

「犠牲者たちも、状況に応じて浮浪者、ユダヤ人、プロテスタント、カトリック教徒というふうに、つぎつぎに入れかわることがあるのと同様に、そのうちのどれかが、自分こそ規範としての力を持つと感じるようになれば、今度は、同じやみくもの殺人への欲求へとかられて、殺人者の地位にとってかわることもありうるのだ。天性の反ユダヤ主義というものはありえず、生れつきの反ユダヤ主義者などはもちろん存在しない。ユダヤ人の血を求める呼び声が第二の天性になってしまった大人たちは、ユダヤ人の血を流すことを命じられている若者同様に、なぜにユダヤ人を血祭にあげなければならないか、ほとんどわかっていない。それを弁えている上層部の黒幕たちは、もちろんユダヤ人を憎んでもいないし、彼らの命令に従うものを愛しているわけでもない。しかし経済的にも性的にも満足できない追随者たちははてしなく憎み続ける。彼らは充足を知らないが故に、緊張を解くことを耐えがたく思うのだ。こう見てくれば、じっさいこの組織的な殺人強盗の輩を鼓舞しているのは、一種の動的な理想主義なのである。彼らは掠奪するために出かけて行くくせに、それにごりっぱなイデオロギーを結びつけ、家族や祖国や人類を救うためなどと駄弁を弄する。しかししょせん彼らは欺かれた者にすぎないのでーーーそしてこのことを彼らはすでにうすうす感づいてはいたのだがーーー、彼らの哀れな合理的動機、つまり合理化がそれに奉仕するはずの掠奪〔という目的〕は、結局はまったく抜け落ちてしまい、〔正当化の手段だった〕合理化自体が本来の意志に反して大真面目なものになってゆく。この合理化がはじめから理性によりも親近性を持っていた暗い衝動が彼らをあます所なく占有する」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・P.357~358」岩波文庫 二〇〇七年)

 

一方、報告者<私>の発言は空しい。アルベルチーヌの言葉の側が遥かに高い価値を持つ。

 

「『だから手紙なんかで息を吹きかえらせないでほしい、一挙にケリをつけなくちゃ』。『ええ、そのとおりね』と言ったアルベルチーヌの悲嘆の表情は、夜更けの疲労でやつれた面差しゆえにいっそう際立っていた、『指を一本、また一本と切られるより、ひと思いに首をさし出したほうがいいもの』」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.344」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌは「指」と「首」との置き換え可能性に言及している。いずれにしても<手>への注目と同様に身体への問いが架けられている。また「指」も「首」も「手」も、どれも認識装置だという点で共通している。認識の無効化にもかかわらず。だから問いは二つに分岐する。

 

古い問題としての認識装置(支配=所有)。新しい問題としての<置き換え可能性=切断分割可能性>。しかし、とりあえず古い問題から。「指」も「首」も「手」も、どれも認識装置だという点で、シーレを参照することができる。

 

「エゴン・シーレ特集」から。

 

去勢の問題。認識装置の不可能性。言い換えれば、もはや<勃起した男根はどこにもない>。中心の消滅。脱中心的可変性としての世界の出現。そう言わなければわかるものもわからない。さらに男根中心主義でぎゅうぎゅう詰めだった近代について。何が起こったのか。

 

「ユリア・ヴィーガーとニナ・ホフテルによるアーティストデュオ『亡霊、アーカイブの政治と空白のための書記局』による映像作品《HAUNTINGS IN THE ARCHIVE!(アーカイブの幽霊たち)》(二〇一七年)は、<オーストリア女性芸術協会>のアーカイブ資料を扱った映像作品であるが、それはそのまま戦後オーストリアの文化状況をも反映している。二人が注目するのはアーカイブや歴史が持つ空白や裂け目であり、とくにその空白として現れる、見えない、忘れさられた存在ーーー幽霊たちーーーと、その空白がいかにナチス時代のイデオロギーに結びつき、またそのイデオロギーがそのまま戦後ヨーロッパにおける人種差別と新たな植民地構造と結びついていたのかを明るみに出す」(丸山美佳「ウィーンの亡霊」『ユリイカ・2023・02・P.159~160』青土社 二〇二三年)

 

ゆえにゾンビは反復する。この傾向を止めることは誰にもできない。<起こったことを、なかったことにできるのか?>。この問いは執拗に何度も繰り返し反復される。成就されるのは消去ではなく反復であり、逆に世界中のゾンビ同士が呼び合い呼び集まり絡み合うという事態が発生する。

 

岡本太郎はゾンビの出現必然性についてこう述べる。

 

「残った《もの》よりも消えた世界の方がどの位大きく、無限のひろがりをもって躍動していたか」(岡本太郎「美の呪術・P.17」新潮文庫 二〇〇四年)

 

ニーチェの告発、「『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきた」、という虐殺された者たちの系譜。それは「人間的、余りに人間的」な取り返しのつかない、少なくともようやく取り返すための努力が始められたばかりというに等しい人間惨敗の決定的証拠だ。ぽつぽつ語られ出してはきたものの、どこか新しく響くとしたら、その意味では「挑発的、余りに挑発的」なものとして見えてくるかも知れない。いまさら挑発的に見えるという側がどうかしている。

 

一九七〇年代。東西冷戦時代すでにあった古い言葉、「米中いちゃつき」。ソ連の脅威に対抗するためいつもどこかでこっそり同盟したりしなかったりとせわしない中国とアメリカ。バルトによる「007」シリーズの構造主義的パロディ「物語の構造分析序説」でも読んでいる時間は面白かったのだが。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて253

2023年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で70パーセントの予想。湖東方面は晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.16)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.16)

 

二〇二三年二月十六日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。