白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて237

2023年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。所用で市役所周辺へ出ました。

 

「名称:“梅”」(2023.2.8)

 

「名称:“荻”」(2023.2.8)

 

「名称:“バラ”」(2023.2.8)

 

「名称:“虹”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖疏水”」(2023.2.8)

 

「名称:“西近江路”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

午後四時四十分頃。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

午後五時五十分を回りました。

 

「名称:“日の入”」(2023.2.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.8)

 

 

「名称:“日の入”」(2023.2.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.8)

 

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

二〇二三年二月八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・プルーストが接続する「従僕の息子」と「ボナパルティスムへの愛着」/ダイナミズムとして<手>

2023年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

欲望としての言葉。プルーストはいう。記号論的コノテーションへの意志。だがこの意志はずいぶん戯けている。

 

「シャルリュス氏がモレルに、きみの出自はけっしてだれにも漏らさない、と誓った舌の根も乾かぬうちに、ヴェルデュラン夫人に『あれは従僕の息子ですよ』と言わずにはいられなかったのも、類似の欲求のせいである。ひとたびそのことばが発せられると、それは内緒だと念を押されながら人から人へと伝わり、伝える者も伝えられる相手も秘密を守ると約束しながらそれが守られないのも、これまた類似の欲求のせいである。このようなことばは、イタチまわしのゲームと同じで、めぐりめぐってついにはヴェルデュラン夫人に戻ってきて、それを知るに至った当人と夫人とを仲違いさせることになる。夫人はそれを承知していたが、口にしたくてうずうずするそのことばを抑えこむことはできなかった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.285」岩波文庫 二〇一七年)

 

モレルの億劫はどこから来たのかが蒸し返されているようだ。「あれは従僕の息子ですよ」。プルーストは少し前にこう書いている。

 

「従僕の息子というものは、自分自身がどんなに卑劣漢でも、ごろつきへの嫌悪感を公言するもので、それはボナパルティスムへの愛着を公言するのとなんら変わらない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.277~278」岩波文庫 二〇一七年)

 

プルーストは「従僕の息子」と「ボナパルティスムへの愛着」とを接続させる。当時のルンペン・プロレタリアートとそれに大いなる期待を賭けて勝利したナポレオン三世とを同時に揶揄しているわけだが。

 

ルイ・ボナパルトの政治的手腕は始めから今の日本の行政にはなはだ似ていた。お金をばらまく。当選する。大統領にまでなった。その直後、フランスの全国民は騙されていたことに気づいた。だが遅かった。この茶番。

 

(1)「分割地農民たちのあいだにたんなる局地的な結びつきしかなく、利害の同一性が、彼らのあいだにどんな共同関係も、全国的結合も、政治組織も生みださないかぎりで、彼らは階級をつくっていない。だから、彼らは議会をつうじてであれ、国民公会をつうじてであれ、自分の階級的利益を自分の名まえで主張する能力がない。彼らは、自分で自分を代表することができず、だれかに代表してもらわなければならない。彼らの代表は、同時に彼らの主人として、彼らのうえに立つ権威として、彼らを他の諸階級にたいして保護し、上から彼らに雨と日光をふりそそがせる無制限な統治権力として、現われなければならない。だから分割地農民の政治的影響力は、最後には、執行権力が社会を自分に従属させることのうちに現われる」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.148」国民文庫 一九七一年)

 

(2)「ボナパルトは、執行権力の自立化した力として、自分の使命は『ブルジョア的秩序』の安全をはかることにあると感じる。しかし、このブルジョア的秩序の力は中産階級にある。そこで、彼は、中産階級の代表をもって自任し、この趣旨の法令をだす。けれども、彼がひとかどの人物となっていられるのは、ひとえに彼がこの中産階級の政治的な力を打ち砕いたからであり、また日に日に新たに打ち砕いているからである。そこで、彼は、中産階級の政治的および文筆的な力の敵をもって自任する。しかし、彼は、中産階級の物質的な力を保護することによって、彼らの政治的な力を新たにつくりだす。そこで、原因は生かしておかなければならないが、結果が現われてきたなら、その結果をなくさなければならない。しかし、そういうふうにやってゆくと、どうしても原因と結果をちょっとばかりとりちがえることはまぬかれられない。というのは、この両者は、たがいに作用しあうあいだに、その区別の標識を失ってしまうからである。そこで、境界線をぼかす新しい法令がだされる。それと同時に、ボナパルトは、ブルジョアジーに対抗して農民および一般人民を代表し、ブルジョア社会の内部で下層の人民階級を幸福にしようと望む者をもって自任する。そこで、『真正社会主義者』からその統治術を先まわりして失敬した新しい法令がだされる。しかし、ボナパルトは、なによりも、十二月十日会の首領、ルンペン・プロレタリアートの代表者をもって自任している。彼自身も、彼のとりまき連中も、彼の政府も、彼の軍隊も、このルンペン・プロレタリアートに属しており、そしてルンペン・プロレタリアートにとってなによりも肝心なことは、自分自身に慈善を施し、国庫からカリフォルニアの当たりくじを引きだすことである。そこで彼は、自分が十二月十日会の首領であることを、法令により、法令ぬきで、また法令にそむいて、実証する。この男のこういう矛盾にみちた任務によって、彼の政府のさまざまな矛盾が、いまはこの階級、次には別の階級を、いまは味方につけようとし、次にははずかしめようとして、けっきょく誰もかれも一様に敵にまわしてしまう、あのはっきりしない暗中模索が、説明される」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.156~158」国民文庫 一九七一年)

 

けれども、そういうことができるのはなぜなのか。代表するものと代表されるものとがいずれも置き換え可能な限りにおいてである。次のように。

 

「議会の党がその二大分派に分解したばかりか、さらにその二つの分派のそれぞれの内部が分解したばかりか、議会内の秩序党は議会《外》の秩序党と仲たがいした。ブルジョアジーの代弁者や文士、彼らの演壇や新聞、要するにブルジョアジーのイデオローグとブルジョアジーそのもの、代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.122」国民文庫 一九七一年)

 

ニーチェの言葉ではこうなる。

 

「《囚人たち》。ーーーある朝、囚人たちは作業庭のなかへ入っていった。そのとき牢番はいなかった。彼らのうちの或る連中は彼らなりにすぐに仕事にとりかかったが、ほかの連中は働かずに突っ立って、反抗的にあたりを見まわしていた。そこへ一人の男が現われて、大声でこう言った、『好きなだけ働けばいい、でなかったら何もしないがいい。どちらにしても同じことだ。お前たちの秘密の陰謀が露顕したのだ。牢番は最近お前たちの話を盗み聞きした。そして近日中にお前たちを恐ろしい審判にかけようとしている。お前たちの知ってのとおり、彼は峻烈だし、執念深い心の持ち主だ。だが、よく聴け、お前たちはいままでおれを誤解していた。おれは見かけ以上の者なのだ。おれは牢番の息子で、おれの言うことは彼に何でも通るのだ。おれはお前たちを救うことができるし、また救ってやるつもりだ。だが、よく聴くがいい、お前たちのなかでおれが牢番の息子であることを《信ずる》者たちだけだぞ。そうでない者たちは、自分の不信仰の実を刈りいれるがいいのだ』。しかも父親を思いどおり動かすことができるのだ。私はおまえたちを救うことができるし、救いたいとも考えている。ただし、むろんのこと、救ってやるのは、おまえたちのうちで私が看守の息子であることを<信じる>者だけだ。信じようとしない者たちは、その不信心の報いを受ければよい』。『だが』としばらくの沈黙のあとをうけてひとりの年配の囚人が言った、『われわれがお前さんのことを信じようと信じまいと、それがお前さんにどれだけ大切だというのだい?お前さんが本当に息子で、お前の言うとおりのことができるのなら、おれたちみんなのために取りなしをしてくれ。それこそお前さんのほんとうの思いやりというものだ。だが、信ずるとか信じないとかのお談義はよししてくれ!』『そして』とひとりの若い男が口をはさんで叫んだ、『おれもあいつを信じないよ。あいつは何か妙な空想をしているだけなんだ。おれは賭けてもいい、一週間たったっておれたちは今日とまったく同じにここにいるのさ、そして牢番は《何も》知っては《いない》のだ』。『いままでは何か知っていたにしても、いまはもう何も知ってはいない』と、いま庭へ出てきたばかりの最後の囚人が言った、『牢番はたったいま急に死んだのだ』。ーーー『おーい』と幾人かの者がごっちゃに叫んだ、『おーい!息子さん、息子さん、遺産のほうはどうなんだね?われわれは、どうやらいまは《お前さん》の囚人なんだね?』ーーー『おれがお前たちに言ったとおりだ』と、呼びかけられた男は穏やかに答えた。『おれはおれを信ずるすべての者たちを解放するだろう、おれの父がまだ生きているのと同じ確実さで』。ーーー囚人たちは笑わなかった、しかし肩をすくめてから、立ちどまる彼を残して、立ち去った」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・八四・P.337~338」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

「エゴン・シーレ特集」から。

 

剥き出しのナルシストは間違ってもわいわいがやがや騒ぎ立てたりせず作業に打ち込む。だから高性能動画放送局による<猿芝居>とはほど遠く見えるのは仕方がない。とはいえシーレのようにいつも死と溶け合いつつある宙吊りのナルシストが絵画する、ドローイングする、<手>を使用する際、きまって出現するものがある。それはシーレの<手>の動きとともに、不可避的にはみ出し、溢れ出てこざるをえない余剰である。

 

シーレを通して見え、見る側へ衝撃を与えて石化させつつ思考へと促さずにはおかない余剰。この余剰は<手>のダイナミズムとともに、その限りで、やおら立ち現われて見る側を、「もう見てしまった」がゆえに「見なかったことにできない」劫苦へ投げ入れる。中心のない不定形な<漂流>へ放置する。同時に絵画もまた<漂流>していて曖昧だということに気づく。身体、それもシーレの<手>による作品の中の<手があったりなかったりする人物の力>と<手があったりなかったりする人物への力>。さらに<性別決定不可能性への意志>。最初の鼎談にこうある。

 

(1)「シーレのドローイングが放つ強さや表現力はずば抜けているーーー人物を空間として把握しながら、同時にそれを二次元の構図に素早く転換している」(小林明子「プリズムとしてのエゴン・シーレ」『ユリイカ・2023・02・P.62』青土社 二〇二三年)

 

(2)「しばしば男性性と女性性の境界をも曖昧にするのですが、シーレはそうした表象を支える構成力も抜きん出ていました。人物像や裸体像にしても、上から覗き込んだり下から見上げたり、あるいは後方から見たりと、通常の視点からずらすことで、身体表象にダイナミズムやねじれを生み出しているのです。そうしたシーレの身体表象は、表現主義的な内面の吐露や表出ということで語られることが多いですが、いわば脱臼させて予定調和に落とし込まないような構成力も魅力的なのではないでしょうか」(河本真里「プリズムとしてのエゴン・シーレ」『ユリイカ・2023・02・P.62』青土社 二〇二三年)

 

だからといって<手>のダイナミズムへの注目はシーレ批評においてだけではまるでない。蓮実重彦はいう。

 

「ジョン・ウェインは、そのとき自分にふさわしい身振りが何であるかを不意に思い出す。拳銃を握る凶暴な片手のイーサンから、腕で何かをかかえ込む両手のイーサンへの変化が生きられるのである」(蓮実重彦「ジョン・フォード論・第四章・P.244」文藝春秋 二〇二二年)

 

続けて。

 

「ここまでのジョン・ウェインは、『片手の』イーサンとして、もっぱら凶暴な孤独さに徹している。だが、洞窟の前で逃げ切れずに倒れた姪を前にして、彼はいきなり『両腕の』イーサンへの変貌を嘘のように実現してみせる」(蓮実重彦「ジョン・フォード論・第四章・P.244」文藝春秋 二〇二二年)

 

第五章は「投げる」身振りへ移動する。だから前提として<手>の動きを見逃すわけにはいかない。次章へ行きたくても行けない。もう一度観ておきたいDVDがある。ところがとてもではないが今の騒々しい「自称テレビ-マス-メディア」に阻害されて障害を受けざるをえない。冪乗的に増殖する電気料金。基本料金が支払えないためスマートフォン一つ持つことができない場所に身を置いているわけだが。それとも何か「自称テレビ-マス-メディア」が代わりに支払ってくれるとでも言いたいのだろうか。

 

最初の鼎談で河本真里が提出したシーレ作品に見る性別決定不可能性。その観点から近藤銀河を引きたい。

 

「シーレの絵について水沢勉は『シーレの作品で、しばしば女性と男性が最初の構想から入れ替わってしまうことが少なくないことはとても暗示的であるといわなくてはならない』とシーレの絵が持つジェンダーの流動性を指摘する。この指摘を前提にすれば、シーレの初期のヌード作品に見られる曖昧な性器の描写は、また違った意味を持ち始める。前述した《Drawing a Nude Model Before a Mirror》の中で鏡に写っていたのは女性だけでなくシーレ自身でもあり、そこでは鏡の中の自己が女性として描かれていたのかもしれない。画中の透明化された鏡は、女性の前にあるだけでなく、画家とモデルの間にもあり、その鏡はシーレのもう一つの自己を写し出す。このことを考える上で重要な作品がもう一つある。一九一五年のドローイング《Double Self Portlait》は、二人のシーレが身を寄せ合う作品だ。画面の中央、こちら側を睨むシーレの頭の上に、もう一人のシーレが頬を乗せ微かに微笑んでいる。二人の視線は一致しないが、身を寄せあった姿には親密なものが感じられる。まるでシーレの描く親密な女性同士のようなこのドローイングは、シーレのそうした作品が、自身を描いたものであることを示唆するようだ。そのように考えるなら、シーレが制御しようとした女性ヌードの身体とは自身のジェンダーの流動性でもあったとも捉えられる。そこではシーレの強い視線の意識は、自らの自身への欲望と、それを抑えようとする緊張の中にあるものとして現れる」(近藤銀河「震えるエゴン・シーレ」『ユリイカ・2023・02・P.117』青土社 二〇二三年)

 

さてしかし、「虎の尾」のようなものを踏み付けた今の日本の首相自身。「虎の尾」に見えているものは実をいうと「虎の尾」に似ていても「虎の尾」では全然ない。むしろ逆に、これまでごく当り前の空気のように漂い続けてきたばかりか今なお漂い続けている一つの宿題。踏み付けられたのは自分たち自身の尻尾のようなものであって、「クラインの壺」より遥か以前、「メビウスの環」というに等しい。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて236

2023年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で94パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前六時二十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.8)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.8)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.2.8)

 

二〇二三年二月八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。