白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて346

2023年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“月”」(2023.4.3)

 

日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“日の入”」(2023.4.3)

 

「名称:“日の入”」(2023.4.3)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

二〇二三年四月三日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

ブライアン・イーノのアンビエント(環境音楽)。「動物、極微生物、労働者」といった言葉がふつうに歌われる。エネルギーについても「クリーン」とか「スマート」とかの形容詞に騙されないし騙されたことのない、いつものイーノです。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて345

2023年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は84パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

午前五時二十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.4.3)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.3)

 

二〇二三年四月三日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

横断的な新しいUKジャズがサウスロンドンで育まれているようです。


Blog21・プルーストが言及する反復強迫/「アインシュタイン/フロイト往復書簡」の今日性

2023年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストの同時代性は同時代の作家たちとはてんで似ていないというところにある。むしろ同時代の精神病理学者たちの見解に遥かに近いというところで際立った相違を見せる。

 

「何人もの女に捨てられた男は、それぞれの男の性格やつねに変わらぬ予測可能な反応ゆえに、ほとんどいつも同じような捨てられかたをしてきたわけで、だれにもその人なりの風邪のひきかたがあるように、その人なりの裏切られかたがあるのだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.37」岩波文庫 二〇一七年)

 

反復性に注目しよう。フランス心理主義文学の流れの中に登場してきたというだけでフランス心理主義小説の最高峰として取り扱われる不幸な錯覚に見舞われることになった「失われた時を求めて」。当時は仕方なかったというにせよ、今それを錯覚のまま放置しておくことは決してできない。少なくともフロイトとのおそるべき近似性を無視し去ることはできない。

 

(1)「精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現われる強迫は、たとえこれらの人が症状形成によって落着する神経症的葛藤の徴候を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫と別個のものではない。あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終わる愛人たち、等々。もし、当人の能動的な態度を問題とするならば、また、同一の体験の反復の中に現われる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの『同一物の永劫回帰』をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれの心を打つ」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.161~162』人文書院 一九七〇年)

 

(2)「小児の精神生活の初期の活動や精神分析的治療の体験のさいに現われる反復強迫は、高度に衝動的な、そして快感原則に対立するところではデモーニッシュな性格を示している。小児の遊戯にさいして、われわれは、小児が、かつて強い印象を受けた体験を能動的に行なうことによって、たんに受身の体験のさいよりも、ずっと充分な程度に支配できるという理由で、不快な体験をも反復するということを理解できるように思う。事あたらしく反復するごとに、この目標となる支配が改善されるものと思われるが、快適な体験でも、小児は反復に倦むことを知らず、かたくなに同一の印象に固執するであろう。このような特性は後になってかならず消滅する。洒落も二度目に聞けばほとんど心にひびかないであろうし、芝居も二度目にはもはや最初に残したほどの印象には達しないであろう。のみならず成人は、非常に面白かった本をただちにもう一度読みかえす気にはなかなかなれないものである。常に目あたらしさが享楽の条件であろう。しかし、小児は見聞きした遊びや、お相手をしてもらった遊びを、大人が疲れきって拒絶するまで繰りかえし要求して倦むことがないであろう。またおもしろい話をして聞かせれば、小児は新しい話を聞くかわりに、繰りかえしその話を聞きたがって、頑固におなじままに反復することを求める。そして、話し手が間違えて喋ったり、なにか新味を出そうとして加えた変更さえも、ことごとく訂正するのである。しかもこの場合は、快感原則に矛盾してはいない。反復すること自身、つまり同一性を再発見すること自身が、快感の源になっていることは明白である。他方、分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、《どんな場合にも》、快感原則の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、さらに二次過程の能力をある程度欠いていることを示すのである。この拘束されない一性質のために、昼の残滓に固執しながら、夢に現われる願望空想を形成する能力をもっているのである。おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人の漠とした不安は、眠ったままにしておくほうがよいものを目覚まさせるのをはばかるためであるが、それは畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。

 

しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか?ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーーー本能の特性、おそらくはすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、《本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう》。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.172』人文書院 一九七〇年)

 

フロイトのいう「以前のある状態を回復しようとする」傾向。「死の本能」と呼ばれる。

 

第一次世界大戦後、アインシュタインとフロイトとが対話(ダイアローグ)する機会を持った。

 

(1)「独自の権力、自分の意思を押し通す力を国際連盟は持っていないのです。否、国際連盟がそうした力を持てるのは一つの場合に限られるのです。個々の国々が自分たちの持つ権力を国際連盟に譲り渡すとき、そのときだけなのです」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.34~35』講談社学術文庫 二〇一六年)

 

(2)「『死の欲動』が《外》の対象に向けられると、『破壊欲動』になるのです。生命体は異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていきますが、破壊欲動の一部は生命体へ《内面化》されます」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.43』講談社学術文庫 二〇一六年)

 

ニーチェもまたこういっている。

 

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

 

アインシュタイン/フロイト往復書簡へ戻ろう。

 

(3)「文化の発展の幾つかの特徴は、すぐに見て取れます。例えば、文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発展のために、人間の性的な機能がさまざまな形で損なわれてきているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが急激に人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子どもを産まなくなってきています。こうした文化の発展はある種の動物の家畜化に喩えられるかもしれません」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.52~53』講談社学術文庫 二〇一六年)

 

(4)「国民の多くが学校やマスコミの手で煽(あお)り立てられ、自分の身を犠牲にしていくーーーこのようなことがどうして起こり得るのだろうか?答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜(ひそ)んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が」(アインシュタイン「フロイトへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.15』講談社学術文庫 二〇一六年)

 

フロイトはいう。「文化の発展に取り残された社会階層の人たちが急激に人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子どもを産まなくなってきています」。少子化の加速化は、高速で「文化」を発展させた諸国家で、この時すでに目に見えていた。

 

そして第二次世界大戦はますます大規模な総力戦として、増大した人口を一挙に減少させるための絶滅戦争として機能したと言えることにも着目したい。欧米日だけでなく今や中国でも「ひとりっこ政策」は廃棄され、逆に少子化阻止へ動かなくてはいけなくなってきた。

 

ちなみに日本では二十世紀を振り返りつつ二十一世紀を迎えるにあたり、「アインシュタイン/フロイト往復書簡」が再び翻訳出版された。ただ、アインシュタインもフロイトも見ることができなかった世界の出現にともない、高度テクノロジーの飛躍的拡張によって登場してきた新しい現実がある。二〇一五年、養老孟司は次のような解説を付した。

 

「情報あるいはITの技術はその典型である。これは二人が危惧したけれども、実際には起こってしまった戦争、すなわち第二次世界大戦の落とし子という面もないではない。生物学でいうなら、ワトソンとクリックのDNAの二重らせんモデルが出されたのが一九五三年、そのクリックが戦時中は英国で暗号解読の仕事もしていたらしい。この論文にはinformationという単語が一回だけ出てくる。その後、DNAつまり遺伝『情報』に関する研究は生物学を根底から変えた。

 

それだけではない。パソコンとスマホに代表されるITは日常生活を変えた。そこでは新しい社会システムが創られた、あるいは創られつつある、といっていいであろう。現代のシステムはアルゴリズム、つまり計算や手続きと考えてもらえばいいが、それに従って成立する。それまでは社会システム、たとえば世間はいわば『ひとりでにできる』、あるいは『自然にできてしまった』という面が大きかった。でも現代ではそれは違う。『アルゴリズムに従って創られる』面が大きい。経済や流通、通信はそうなっている。それを合理的とか、効率がいいとか、グローバル化とか表現する。

 

たとえば生まれたときにわれわれは自分の名前をもらう。でも現代日本の社会システムでは、それが個人番号になる。個人番号とは、新しく生まれてきている社会システムのなかでも『あなた』である。それが気に入らない人はずいぶんいるみたいだが、なにがどう気に入らないのか、自分でもよくわかっていないのだろうと思う。私もわかっているわけではない。でも社会システムを右のように考えてみると、ややわかるような気がしてくる。誕生時からの姓名は、古い社会システムとしての世間のなかの自分を示し、個人番号は新しい社会システム内の自分を示す。私はそう理解している。ただしそういうシステムを私が容認するか否かは、別問題である。

 

さらに新しいシステムとここでいうものの一例を挙げよう。飛行機に乗ろうとすれば、あなたはまずテロリストと見なされる。だからうっかり水は持ち込めないし、身体中を検査される。つまりテロリズムは現代社会に既成のものとして組み込まれている、というしかない。われわれは選挙で『テロを社会に組み込もう』という政治家に投票したわけではない。でもそれはすでに組み込まれてしまっているのである。各国首脳が集まって『テロを断固として撲滅する』みたいなことをいう。そこで私が白けるのは、テロが発生するような社会システムを創るのを、無意識的とはいえ、手伝ってきたのはあんたたちだろう、という気がするからである。

 

ーーー世界の首脳が集まって、テロを撲滅しようという。私はまったく信じていない。むしろテロが存在することによって、政治の仮想的な重要性が高まるから、政治家や官僚はテロ対策をいう。一種のマッチポンプといってもいい。政治がアルゴリズム的システム化のほうに無意識的であれ強く引きずられる世界では、抵抗勢力が発生する。それが現代の戦争であり、つまりテロだというのが、私の貧しい結論である」(養老孟司「解説1」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.67~75』講談社学術文庫 二〇一六年)

 

世界史はその通りに進行している。ますます加速しつつ世界同時多発的な壊滅へ向けて疾走している。だがしかし、死の本能(タナトス)の代わりにエロスを持ってくればいいかというと、ことはそこまで単純ではない。エロス的同一化は全体主義的ナショナリズム(ナチスドイツ、ソ連、大日本帝国など)を出現させた過去を持つ。

 

また今のウクライナへ向けられている無数のテレビカメラは派手なスペクタクルばかり取り上げ切り貼りし視聴者に提供している。なぜわざわざ提供するのか。その反面、なぜ、全面戦争にならず逆にウクライナ周辺だけに局所化されているのか、という戦争-経済の問題にはまるで触れようとしないのだろう。

 

ボスニア=ヘルツェゴヴィナ紛争でも全面的戦争には至らず、なぜか紛争だった。バルカン半島大規模空爆は何をもたらしただろうか。世界的に有名な巨大不動産業者と巨大ゼネコンによるバルカン改造と道路交通網の敷設。そして世界的に有名な自動車メーカー(日本車含む)の同時参入。あらかじめ予定されていた「お約束」だったかのように事態は進行した。そしてバルカン空爆後の復興景気が一通り行き渡ると同時に自動車メーカー(日本車含む)は少なからずバルカンから撤退した。民族問題は今なお残されたままだというのに。

 

この種の反復は姿形を置き換えただけに過ぎず、何度も繰り返し世界に襲いかかる。というより、なおのこと<世界として>世界へ襲いかかる。

 

坂本龍一から。素材集のような美しい諸断片。その2です。