その人自身とは何か。アルベルチーヌそれ自体とはなんなのか。まったくの空理空論でないことは確かだ。カントの「物自体」概念にあるように、甘い想像上のセンチメンタルな幻想ではまるでなく、逆に「〔一般の〕観念論の正反対のものである」。
「一般に観念論の主張するところはこうである、ーーー思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直感において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者のそとにあるいかなる対象も実際に対応するものではない、と言うのである。これに反して、私はこう主張する、ーーー物は、我々のそとにある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体がなんであるかということについては、我々は何も知らない、我々はただ物自体の現われであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれば、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象がなんであるかを知るだけである。それだから私とても、我々のそとに物体のあることを承認する。人は、これをしもよく観念論と名づけ得るだろうか。いや、これはまさに〔一般の〕観念論の正反対のものである」(カント「プロレゴメナ・P.80~81」岩波文庫 一九七七年)
アルベルチーヌは<私>が注ぎ込むリビドーによって膨張し過ぎ、フェティシズムの無限の系列としてあらゆる事物へ絶えず転移していくため、「全生涯を左右する人がこの世のものをひとつ残らず覆し、その人の占める場所がわれわれにとっていかに広大であるかを一段と明らかにするにしたがい、それに反比例して、その人自身のイメージは縮小してほとんど見えなくなる」。「その人自身」をほとんど覆い隠してしまう。するとこんな事態が起こってくる。
「われわれの全生涯を危険にさらしかねないこのような危機の時期には、その全生涯を左右する人がこの世のものをひとつ残らず覆し、その人の占める場所がわれわれにとっていかに広大であるかを一段と明らかにするにしたがい、それに反比例して、その人自身のイメージは縮小してほとんど見えなくなる。われわれがあらゆるものにその人の現存の影を見出すのは、われわれが感じている心の昂りのせいだから、その原因たる当人自身はもうどこにも見出せないのだ。私はそんな日々のあいだアルベルチーヌを想い描くことはできず、もはやアルベルチーヌを愛していないと信じかねないほどであった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.118」岩波文庫 二〇一七年)
少し前にこうある。「愛がそれほどの苦痛をもたらす段階にまで達すると、女の顔と愛する男の目とのあいだに割りこんでくるさまざまな印象の塊が、苦痛をひきおこす卵のようにすでに異様に膨れあがって、泉を覆う雪のごとく女の顔をつつみ隠してしまう」。
それはまた「苦痛と愛情の織りなすサナギの内側で、愛される女のどれほど醜い変身も愛する男の目には見えなくなり、時間とともに女の顔は老いて変貌している。そんなわけで愛する男が最初に見た顔が、その男が愛して苦しむようになってから見ている顔とひどくかけ離れているとすれば、その顔は、逆の意味で、無関心な人の目が見ることのできる顔ともひどくかけ離れている」ということもできる。
「愛がそれほどの苦痛をもたらす段階にまで達すると、女の顔と愛する男の目とのあいだに割りこんでくるさまざまな印象の塊が、苦痛をひきおこす卵のようにすでに異様に膨れあがって、泉を覆う雪のごとく女の顔をつつみ隠してしまうせいで、愛する男のまなざしが到達する前線、つまり愛する男が快楽と苦痛に出会う地点は、他人が女の顔を見る地点とはひどくかけ離れているからである。われわれが空のなかで光の凝縮したところに太陽を見ている箇所は、本物の太陽とはひどくかけ離れているのに相当する。しかもそのあいだに、苦痛と愛情の織りなすサナギの内側で、愛される女のどれほど醜い変身も愛する男の目には見えなくなり、時間とともに女の顔は老いて変貌している。そんなわけで愛する男が最初に見た顔が、その男が愛して苦しむようになってから見ている顔とひどくかけ離れているとすれば、その顔は、逆の意味で、無関心な人の目が見ることのできる顔ともひどくかけ離れている」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.61~62」岩波文庫 二〇一七年)
アルベルチーヌ自身の顔の変化とアルベルチーヌを愛する<私>の目が見るアルベルチーヌの顔の幻想的変化とアルベルチーヌに「無関心な人の目が見ることのできる顔」とはまったく異なる別々の断片へ分割されているのである。
その意味でアルベルチーヌは<時の女神>であり、なおかつ<未知の女>を生きることをやめようとしない。