<私>はアルベルチーヌの出奔という「不幸な事件」に押しつぶされそうになっている。だがこの事態を転倒させ、逆に<私>の側から「不幸な事件」を押しつぶす「特効薬」がある。
「不幸な事件(あらゆる事件の四つに三つは不幸なものである)を癒すための特効薬、それは決断することに見出される」。
なぜなら「決断すれば、われわれの思考をいきなり覆すことによって、過去の事件から到来してその事件の振動を永続させている思考の流れを止め、未来という外部から到来する正反対の思考である逆流がその流れを押しつぶすという効果があるからだ」。
「じつのところ私が幸せになったのは、そう思いこんでいたように自分の優柔不断の責任をサン=ルーへ転嫁したからではない。ただしその想いこみも、完全に間違っていたとはいえない。不幸な事件(あらゆる事件の四つに三つは不幸なものである)を癒すための特効薬、それは決断することに見出されるからである。というのも決断すれば、われわれの思考をいきなり覆すことによって、過去の事件から到来してその事件の振動を永続させている思考の流れを止め、未来という外部から到来する正反対の思考である逆流がその流れを押しつぶすという効果があるからだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.73~74」岩波文庫 二〇一七年)
一つの決断はそれまでの複雑に絡み合った諸過程を一度に覆い隠す。<私>が「幸」だと感じていた時期も「不幸」だと感じていた時期も両者ともに絡み合って事態が進行していた時期も、それら多元的で複雑に錯綜したすべての過程を丸ごと「おおい隠す」。その機能は貨幣に似ている。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)
日本では一昨日すでに統一地方選後半戦に入ったと言われている。けれども考えてみてほしい。勝った負けたと一喜一憂していられるような単純素朴な時期はあっという間もなく通り過ぎたということを。
今回の選挙の本当の争点はなんだったか。間違いなく「投票率の低さ」である。
にもかかわらず、低投票率が指し示す未来は、これまで誰一人経験したことのない、まったく新しい全体主義に違いないという認識が浸透していないのはなぜだろう。
この危険な傾向を大いに煽り大いに加担しているのがマス-メディアなのは言うまでもない。マス-メディアとしては、全体主義であろうとなかろうと積極的に加担し有権者を誘導する限り、全体主義になってなお、加担し誘導してやったのだから自分たちは許されるに違いないと信じきっているのかもしれない。しかしそれは余りにも甘過ぎる夢物語を夢見ているに過ぎないと言われねばならない。
全体主義国家首脳部というものは、ソ連、イスラエル、中国、北朝鮮のように、成立するや否や、自分たちの一元的支配を成立させるに当たり、その辿ってきた道と方法そして裏事情について、よく知っているマス-メディア関係者、知りすぎている政治家、目ざわりな他の政治家、知りすぎている財界人、目ざわりな他の財界人、知りすぎている高級官僚、目ざわりな他の高級官僚、知りすぎている学術研究者たち、目ざわりな他の学術研究者たち、それらをまとめて一挙に粛清してみせる。これまでそうしてきたしこれからはもっとひどい状況へ加速していくだろう。
なぜそういえるのか。全体主義国家首脳部は成立と同時に、成立の瞬間すでに、<貨幣のように>立ち働くほかないからである。貨幣形態の成立は、成立するや否や、成立するに立ち至った全過程を「おおい隠す」。生きている人間の場合、その成立過程の内部事情を余りにもよく知りすぎている人間を「おおい隠す」。というのは、人間はいつも「おしゃべり」だからだ。ゆえに粛清する。
粛清する側は粛清したことを隠蔽するため、粛清に手を貸してくれた側をさらに粛清する。その際、粛清する側にいて粛清を免れた側も、今度はより上位の粛清する側によって、知りすぎた人々として粛清される。以下、粛清の粛清の粛清のーーー、と終わりのない粛清の系列が出現する。
一九九〇年代後半生まれは別として、東西冷戦時代を知る世代はまだまだ多い。世界中にごまんといる。当時、どんなことが横行していたか。
北朝鮮による日本人拉致、ソ連による北朝鮮国民拉致、米国諜報機関に捕まった反米勢力の消息不明。イスラエルとパレスチナとの中東紛争ではどちらも、戦死者とはまた別に、行方不明者が続出している。それは目に見える戦場での出来事ではなく、戦場とはまた別の場所で、ある日突然ふいに姿が消え、それきりまったく見かけなくなるという共通点で一致している。
ところで今の日本の場合、おそらく過半数の有権者は、ただ自分たちと自分たちの子や孫たちの未来の生活向上・生活維持・生活防衛のため、特定の候補者に投票しているだけ、と思い込んでいるふしがある。ところが実際を言えばそうではない。それに先立ち、まずは前提として、民主主義に投票しているというとても大切でなおかつ非常に重要な事情について余りにも無自覚ではと思うのである。この前提のない民主主義など世界中どこにもない。選挙で勝ったとか負けたとか言って笑ったり泣いたりできるのはなぜか。十分でない、不完全だとはいえ、曲がりなりにも民主主義が機能している限りにおいてである。与野党問わず。
もっとも、多かれ少なかれ今述べたような意味のことを意思表示している人々はいる。日本のような東アジアの辺境、G7の滑稽な落ちこぼれ。そんな劣悪な環境のなかでも多少なりとはいる。いるどころか、むしろ昨今、どんどん見かけるようになってきた。その点ではある程度、心強い気がしないでもないが、相対的には心細い限りである。ところがさらに追い討ちをかけている諸要因の加速的増大傾向は何を意味しているのだろう。
このような小さな言葉はいつも、マス-メディアを始めとする大きな言葉の暴力によって見る見るかき消されてしまいがちだ。たった今述べた「粛清の論理」のように、かき消している側の人々も近い将来、明日か明後日かわからないにせよ、いずれ必ずかき消される立場へ引きずり込まれる。何度も繰り返し演じられてきた歴史だろうと言えばそれだけのことだが。にもかかわらず、どういうわけか、とてもではないが学んでいるようには見えない。逆に<見ない>こと、<学ばない>こと、で一致団結しているように見える。
そして「粛清の論理」はただ単に「粛清の論理」を押し進めるだけだろうか。「粛清の論理」が一度はじまるや、同時に、多様な論理や異なる倫理に狙いをつけた粛清、「論理の粛清」をも加速させるのではなかっただろうか。それが何やら「道徳」のように見えないでもない「仮面」を付けて急浮上してくる。
坂本龍一のある種の、おそらく「スウィート・リベンジ」辺りからの、影響を感じさせるポップなデュオ。その1です。