続く箇所。ともすればどんな古書店の店頭にでも見かける、百円均一ラックの中へ長いあいだ野ざらしにされて埃をかぶった凡庸この上ない心理学の講義録と錯覚しそうになる。だがプルーストは心理学とも心理小説とも全然関係がない。プルーストが問題にしているのはあくまで言葉の作用だからである。その動きが、たまたま人間の心理学と似ている箇所があるからといって、ただちに心理学や心理小説の系譜に位置付けるのはいかにも早計と言わねばならない。
アルベルチーヌから<私>に与えられた衝撃は、その余波をゆるめることなく、逆にどんどん押し進めていく。その動きは次々出現する言葉の無限の系列という形を取る。ここではすみやかな忘却でもゆるやかな忘却でもなく、そもそもプルーストは忘却の速度を問題にしていない。もっぱら忘却の逆説について語る。
「しかし夜、なんとか眠りこむことができたとき、アルベルチーヌの想い出は、睡眠をもたらしてはくれるが効力が消えると覚醒させる薬のようなものだった。私は眠りながら始終アルベルチーヌのことを考えていた。アルベルチーヌが私に与えてくれたのは、アルベルチーヌ特有の眠りで、そもそも睡眠中には覚醒時のようにほかのことを考える自由などなかった。アルベルチーヌの想い出と睡眠とは、眠るために混ぜて同時に服用させられる二つの物質だったのである。もっとも目が覚めているとき、私の苦痛は減少するどころか日ごとにますます増大した。忘却がその仕事を果たさないからではなく、その忘却自体がそばにいない人のイメージの理想化を助長し、それによって私の当初の苦痛は、類似するほかの苦痛と同化されてますます強化されたからである。とはいえこのイメージにはまだしも耐えることができた。しかしふと空になったアルベルチーヌのベッドが置かれたままの部屋や、アルベルチーヌのピアノや自動車のことを考えると、私は全身の力が抜け、両目が閉じ、頭が左肩に垂れかかり、いまにも気を失う人のようになった。あちこちから聞こえるドアの音にもほとんど同様の苦痛を感じたのは、ドアを開けたのがアルベルチーヌではなかったからだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.80」岩波文庫 二〇一七年)
アルベルチーヌの存在を忘却すること。だが「忘却自体がそばにいない人のイメージの理想化を助長し、それによって私の当初の苦痛は、類似するほかの苦痛と同化されてますます強化された」。ある苦痛はただ単に似ているというだけで、いともたやすく「類似するほかの苦痛と同化され」、増殖し、精神の内部でとぐろを巻く大蛇のように厄介な蠕動を始める。往々にして起こりがちなエピソードだ。けれどもすぐにそうと気づく人間は数えるほどしかいないという奇怪な事情。
さらにアルベルチーヌと合体してしまっている数々の記憶の一つ一つが今の<私>をいちいち責め立てる。「空になったアルベルチーヌのベッドが置かれたままの部屋や、アルベルチーヌのピアノや自動車のことを考えると、私は全身の力が抜け、両目が閉じ、頭が左肩に垂れかかり、いまにも気を失う人のようになった」。
もはや<私>は否応なく、やり直しのできない過去、なかったことにできない過去と共鳴・共振し合うほかない。消してしまおうとすればするほどかえって「そこだけ」がよりいっそう明確な輪郭を帯びて急浮上してくるおぞましい過去の記憶の無限の系列との共鳴・共振、そして何度も繰り返されるその反復。
一方、それらすべての過去から「そこだけ」を「切り離し」、よける暇一つ与えず一挙に「現在」の<私>と接続させてしまう、面喰らわせる不意打ちがいつも待ち構えているということ。
「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)
忘却は一日やそこらではとても無理。アルベルチーヌが<私>にアルベルチーヌの失踪・喪失へ直面させ、くぐり抜けるよう与えた「喪の作業」という避けて通れない痛ましい過程。そして「喪の作業」はいつも、ある言葉から別の言葉へ、あるいは一つの音楽からもう一つの音楽へ、の注意ぶかく絶え間ない冒険なしには一つも進まないというさらに厳しい現実の引き受け。言葉にできれば、あるいはあらかじめ妥当性の高い言葉が用意されていればまだしも、<私>とアルベルチーヌとの関係はそれだけで無数のトランス(横断的)錯乱ともいうべき支離滅裂さばかりがひしめき合ったまま横たわっている言語化不可能な、いわくいいがたい<裂け目>の散乱地帯をなしている。砂漠の次には密林が、密林の次には果てしなく広がる海が、夜の闇へ没していて向こう岸などどこにも見あたりそうにない。しかもそこには方向というものがない。どんな基準もまったくない。
そのばらばらぶり。ある状態が普遍的にいつまでも続くということはまるでなく、不意にいきなり切り離され、予想もしなかった別の状態へ接続される。<離接>ということ。すくってもすくってもすくいきれない無数の諸断片へと永遠回帰してしまうアルベルチーヌの存在と不在。どんな社会的装置にもどんなイデオロギーにもどんな暴力にも決して回収されない外部としてしか考えようのない不滅の謎。
ところがそんな試練にもかかわらず、<私>の遍歴は結構とぼけており、ややもすれば必然的繋がりを失い、しょっちゅう失い、むしろ必然的繋がりのなさゆえにかえって読者を必然性の発見とその挫折へ誘惑するよう指示されてでもいるかのように様々な言葉が飛び交い接続されてはまた切断される。ありもしない解答を求めて大量の言葉を呼び寄せ呼び集め、無数のエピソードが延々続く、どこか不毛で滑稽な努力へ<私>はますます没入する。そしてそれが<私>に課せられた課題、<私>が報告すること、でもある。
プルーストが取り組んだ作業。それはある文体(価値体系の枠組み)が崩壊し、別の文体(価値体系の枠組み)が出現してくるその同時代、一九〇〇年代初頭前後に起こった大規模な社会的変容について、言語へ翻訳してみせる作業だったのだろうと思う。