改めて文章を引こう。
「ところが警察の一件はあれで片がついたと思っていた私にとって遺憾なことに、フランソワーズが私に報告しに来た話によれば、訪ねてきた私服刑事から、若い娘たちを家へ連れこむ癖が私にないかと訊ねられた門番が、てっきりアルベルチーヌのことだと想いこみ、その癖があると答えたので、以来わが家は監視されているもようだという。こうなると、悲しいときの慰めにだれか少女を呼び寄せることはできなくなる、そんなことをすれば目の前で刑事に踏みこまれ、少女には犯罪者だと思われて恥をかくおそれがある。と同時に私は、人間というものは自分で思っている以上になんらかの夢のために生きている存在なのだと悟った。というのも二度と少女をあやすことができないと知って、私は人生からすべての価値を永久に奪われた気がしたからであるが、それだけではなく、ふつう損得と死への恐怖が世の中を動かしていると思われているにもかかわらず、人がいともたやすく財産に拒絶反応をおこしたり死の危険を冒したりするのがよく理解できたからである。というのも、かりに警察の男があらわれて、たとえ見ず知らずの少女からであろうと自分が破廉恥漢だと思われていると知るくらいなら、自殺するほうがましだと私はきっと考えたにちがいないからだ。このふたつの苦痛のどちらが辛いかは、比べるまでもない。ところが実人生において人は、金を与えたり殺してやると脅したりもする相手に愛人や単なる友人がいる場合に、その相手がたとえ自分の身は尊重せずとも愛人や友人の尊敬だけは失いたくないと思うかもしれぬとは、けっして考えない」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.76~77」岩波文庫 二〇一七年)
話はいつどこでどんなふうに脱線していくか、とてもわかったものではない。プルーストが言いたいのはそういうことだ。一つの話には一つのテーマがあって、そのテーマに従って次の話が続いていくに違いないという考え方こそが、ことによると、あるいは非常にしばしば、偏見にもとづく<神話>以外の何ものでもない。絶対的な因果関係というものは逆にまったく見あたらない。「習慣」がもたらす偏見から最も遠いところに位置しなければ、目の前に見えているものでさえてんで見えないという事態に陥る。プルーストはいう。
「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
さて、フランソワーズが<私>に述べた経緯はこうだ。
(1)「訪ねてきた私服刑事から、若い娘たちを家へ連れこむ癖が私にないかと訊ねられた門番が、てっきりアルベルチーヌのことだと想いこみ、その癖があると答えたので、以来わが家は監視されているもようだという」。
監視のテーマはこれまでずっと、<私>によるアルベルチーヌの監視という極端に狭い枠組みの内部に限定されていた。それが「訪ねてきた私服刑事」という言葉の出現によってにわかに濃厚な社会性とただならぬ身の危険を帯びて前面に出てくる。
(2)「悲しいときの慰めにだれか少女を呼び寄せることはできなくなる、そんなことをすれば目の前で刑事に踏みこまれ、少女には犯罪者だと思われて恥をかくおそれがある」。
この点はすでに述べたように必ずしも「少女」でなくても構わない。ただ<私>の場合に限り、アルベルチーヌの家の門のそばで見かけたあどけない表情の「少女」でなくてはならなかった。ほんの一時的にではあれ<私>にとってこの「少女」がアルベルチーヌの代理を演じることができるという極めて象徴的な事情。それはほかでもないフェティシズムの無限の系列のひとこまでしかない。
もし仮に「悲しいときの慰めに」食事や仕事や音楽や絵画や映画やコーヒーやハイキングや読書やーーーといったフェチの対象がぜんぶ消え失せたとしたらどうだろう。すべての人間は深すぎる絶望のうちに死ぬ。死の本能は常にすみやかな死を命じつつある力である。けれども人間は自身の内部から湧き起こる不安に満ちた死への意志の実現に対して、わざわざ大回りに回避し先送りしようと試みる。あらかじめ与えられた地球上の自然環境がすみやかな死を阻止し、わざわざ大回りに回避し先送りしようと試みるよう強いる。そこで人間は、死につつ生きる/生きつつ死ぬ、という平坦でも急峻でもない、ただひたすら過酷なばかりの緩慢な死を押し進めていくしか手のない生(性)を営む作業へ向け換えられることになった。
だから死の本能は、生(性)の側をもっと粘り強く延長させていくための方法として選択された食事や仕事や音楽や絵画や映画やコーヒーやハイキングや読書やーーーといったフェチの対象がもし奪われたとしたら、おそろしく空虚な裂け目がぱっくり口を開けるや否や、すぐさま自分で自分自身を死へ振り向けることに何らの躊躇も要しない解体への意志にほかならないと言える。
一方ここでプルーストが「悲しいとき」と書くとき、想定されている状況はいったいどんな光景なのだろう。といっても特別なものは何一つなく、むしろ逆にどこにでもあるような極めてありふれた光景だ。この、どこにでもごろごろ転がっていて、不意に、そして何度も繰り返し無数の人間をあの手この手で傷つけずにはおかない日常生活。それがあまりにも痛ましく「悲しい」。そもそも根底にある死の本能は意識されない。ところが例えばアルベルチーヌとの永遠の断絶という事態へ立ち至ったと知った瞬間、それは途方もなく痛ましく「悲しい」現実として意識にのぼってくる。意識化されるといっても、明確な意識とはほど遠い感性のレベル、小刻みに震え出しつつ身体で受け止める以外に言いようのない悲しみとして感じられる精神のめまいというほかない。
しかしこの一節はもう一つの、たいへん重要な事情を物語っている。<私>はいつどのようにして「犯罪者だと思われて恥をかくおそれがある」のか。<私>が少女を部屋の中へ招き入れている時、「刑事に踏みこまれ」たその瞬間、何かが変わる。<私>はいきなり「犯罪者」へ変換される。<私>が「犯罪者」になるためには、<私>だけではだめなのだ。<私>と少女と「刑事」との共犯関係が成立して始めて、なおかつ一挙に、<私>は「犯罪者」になる資格を手に入れると同時に「犯罪者」と見なされる。
毎日のようにいつもどこかで同時多発的に出現している極めてありふれた構造だが、犯罪的なのは<私>でも少女でも「刑事」でもない。
(1)<私>は少女の中に一時的なアルベルチーヌを見るが、近づけば近づくほどアルベルチーヌとの<ずれ>を、<違い>を、アルベルチーヌと少女との間に出現する埋めようにも埋め尽くせない決定的な<裂け目>をも見てしまう。この<裂け目>というぽっかりと口をひらいた暗黒の深淵におそれおののくあまり、たちまち少女を外へ放り出して帰宅させるしかなくなる。<私>は他の二人(少女と刑事)とは比較にならない最も深刻な現実に見舞われるのだ。
(2)少女は自らの魅力=誘惑性が一体なんなのか、ほとんど気づいていないという点で「無垢」な存在に見える。この少女はアルベルチーヌに対する<私>の喪失感とともに始めて<私>の視野の中へ入ってきた一つの見出された「無垢」だ。この種の人間は結構どこにでもいる。見出すのに煩雑な手続きは一切いらない。さらにこの無垢性は年齢性別人種国籍問わず、どこの誰にでもとは決していえないが、案外身近なところにも見出すことができると言っていい。「失われた時を求めて」を見るとドストエフスキー作品を論じている箇所が何の脈略もなしにいきなり出てくるわけだが、無垢なのは必ずしも少女だとは限らない。というより、少女など一人も出てこない。出てくるのは逆に「白痴」のムイシュキン侯爵のような人物、あまりにも馬鹿正直なため周囲から隠に陽にからかわれ蔑まれている浮世離れした人物だ。思春期にさしかかってはいてもなお周囲にうまく溶け込むことができず戸惑いを隠しきれないような「少年少女」もこうした無垢のカテゴリーに入る。にもかかわらずプルースト研究家の中には、プルーストは実は「ロリコン」だったとかいう大馬鹿が少なからずいるのには呆れ返る。それなら世の女性はみんな「ファザコン」なのか、世の男性はみんな「マザコン」なのか。まるで違うだろう。「パパ-ママ-ボク」というもはや黴だらけになって百年近くになるしみったれて反故化したぼろぼろの家族観にしがみついている限り、いつまで経っても見えてこない事情が、一つの説明もなしに前提されているため、余計に見えないという哀れな読解事故を引き起こす好例といえるかも知れない。
(3)刑事。公式制度として介入してくる限りで始めて、刑事はその機能を運用することができる。運用しないこともできる。この場面ではもし運用することになったらどういうことになるかと想定した上で考えられるエピソードについて<私>は困惑を隠せないに違いないという方向で話が進められている。逆に刑事が刑事に与えられた権限を運用しない場合、犯罪は出現してこない。運用する限りで三者による共犯関係が否応なく適応され、<私>は、<私>のみが、「犯罪者」へ変換される。だからこの場面は、三点目に、そういう法的制度的構造について描かれているといえる。
ところで、しかしもし万が一、<私>と少女と「刑事」との共犯関係がいつになっても成立しない場合、どんな事態が生じることになるだろう。アルベルチーヌとの生活がそうなったように、ほどなく、近いうちに、いつも物憂げで怠惰で劣悪な退屈による支配が訪れ、耐えられなくなると再び両者は引き裂かれ、自分たち自身で自分たち自身を引き裂き合う。引き裂き傷つけあう。だがお互いに引き裂き傷つけあう作業に夢中になれるうちはまだしあわせなのだ。それにすら取りかかろうとしなくなった時、お互いの姿に本当の自分の姿が映り込んでいることに始めて気がつく。
だが作品はこのとき方向を変える。<私>の思考は奇怪にも「自分が破廉恥漢だと思われていると知るくらいなら、自殺するほうがましだ」という、どこか若々しい想念を膨らませる。青春といういささか狂気を含み持つ観念をわずかに<暴露>する。とはいうものの<私>は、「実人生において人は、金を与えたり殺してやると脅したりもする相手に愛人や単なる友人がいる場合に、その相手がたとえ自分の身は尊重せずとも愛人や友人の尊敬だけは失いたくないと思うかもしれぬとは、けっして考えない」と、ひどく凡庸な、あってもなくても構わないようなことを思い浮かべながら再び脱線を重ねる。無効化する一貫性。一貫性という<神話>。プルーストがいうのはそれだ。どこまでも無数に分裂していく不可解な思考の運動という形を取りつつ。
坂本龍一から。素材集のように美しい諸断片の一つ。その4です。