白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて360

2023年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れました。でも、よくあることですが、日の入りに合わせて長く厚い雲がぬうっと横切っていきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“日の入”」(2023.4.10)

 

「名称:“日の入”」(2023.4.10)

 

「名称:“日の入”」(2023.4.10)

 

「名称:“日の入”」(2023.4.10)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

二〇二三年四月十日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて359

2023年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は74パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前五時十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.4.10)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.10)

 

二〇二三年四月十日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21・<私>が<私>を剽窃(ひょうせつ)する反復強迫<死の本能>

2023年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

反復強迫という底知れぬ力の測りがたさについてプルーストはいう。<私>がかつてジルベルトに宛てた無関心を装う<嘘>の手紙が「しまいには<本物>になってしまう」。その反復運動は意識的というより遥かに無意識的かつ何度も繰り返し、よりいっそう圧力を増して回帰してくる。差異化(増殖)されて回帰してくる。

 

<私>はこの反復を自身の内部で反復させる。だから「人がどうしても免れえぬ剽窃(ひょうせつ)とは、個人にとっては(おのが過ちを認めようとせず、それをますます悪化させてしまう諸国民にとってもそうであるが)、自分自身の剽窃なのである」とプルーストは自分自身の差異化作用、無限の分裂性について述べる。その悪癖面として「おのが過ちを認めようとせず、それをますます悪化させてしまう諸国民にとってもそうである」とコノテーションさせてもいる。

 

「もとより私は、無関心を装う手紙がいかに危険かはジルベルトのときに経験していた。当初は見せかけのつもりの無関心がしまいには本物になってしまうからである。この経験を踏まえれば、かつてジルベルトに書いた手紙と呼ばれるものは、われわれの性格になんらかの特徴がわれわれ自身の目にも明らかになることにほかならないから、その特徴はひとりでにまた顔を出す。しかも一度それを自分自身に明らかにしただけに、なおのこと力強くふたたびあらわれる。そんなわけで当初われわれを導いた自発的な動きは、回想のありとあらゆる示唆によって補強されるのだ。人がどうしても免れえぬ剽窃(ひょうせつ)とは、個人にとっては(おのが過ちを認めようとせず、それをますます悪化させてしまう諸国民にとってもそうであるが)、自分自身の剽窃なのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.55~56」岩波文庫 二〇一七年)

 

さて。朝刊を見るとなんだか騒がしい。選挙結果について。誰が誰が誰がーーー。早くも総括のようなことを言い出している部分まで見える。そういうことが問題なのだろうかとついうっかり首をかしげてしまいそうな気がしないわけでもない。もっとも、統一地方選の前半戦が大事でないわけではまるでない。むしろ逆に重大だ。けれどもそれはどの政治政党がとかどこの誰がとか、そういったレベルで語るよりも、アーレントのいう「無数の遠近法と側面を持つ公共空間」(民主主義)の領域が異様に縮こまってしまったように見えるといった全体主義(カルト)的同調圧力の粛々たる浸透というレベルで語るべきではないかと思われる。

 

アーレントは大衆社会というあり方がいかにやすやすと全体主義化するか、実際にしたか、大変詳細な分析を試みている。ナチスドイツのアウシュヴィッツもソ連の収容所列島も同時代人として目の当たりにしてきた点で、それは出来上がったばかりの民主主義が自害へと傾き消滅していく生々しい光景だったのだろう。

 

前提としてアーレントのいう「公共空間」(無数の遠近法と側面を持つ民主主義)は、あらかじめ与えられたものでは決してなく、選挙制度があるのなら、すべての有権者の不断の努力によって維持していかなければ、たやすく蹂躙されるほかない、たいへん脆い制度である。誰か他の人間がどこかでうまくやってくれるなどと放置しておくのは大間違いだと厳しく断言する。たかだか一世代や二世代ではとても無理、「公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならない」と。

 

(1)「公的領域を存続させ、それに伴って、世界を、人びとが結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには、永続性がぜひとも必要である。世界の中に公的空間を作ることができるとしても、それを一世代で樹立することはできないし、ただ生存だけを目的として、それを計画することもできない。公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならないのである」(アレント「人間の条件・P.82」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

近代の成立とともに「公的称賛」の意味がまったく違ったものへ置き換えられたこと。「すべての人が、みなこのようにそれぞれに異なった立場から見聞きしている」ことを条件として「無数の遠近法と側面」を持つ公的空間が、近代社会成立の過程で「金銭」を「公分母」として持つよう<すり換えられた>経緯がある。同時に近代以前の「公的称賛」の意味が「金銭的成功」を意味する言葉として機能することになった。

 

(2)「公的称賛は、日々ますます多量に消費されるようになっている。それがいかに空虚であるかということは、存在する物のうちで最も空虚なものの一つである金銭的報酬が、むしろ逆に、ますます『客観性』を帯び、ますます現実的となっている点に示されている。この種の『客観性』の唯一の基盤は、あらゆる欲求を満足させる公分母としての金銭である。公的領域のリアリティは、これとまったく異なって、無数の遠近法と側面の中にこそ、共通世界がおのずとその姿を現わすからである。しかも、このような無数の遠近法と側面にたいしては、共通の尺度や公分母をけっして考案することはできない。なぜなら、なるほど共通世界は万人に共通の集会場ではあるが、そこに集まる人びとは、その中で、それぞれ異なった場所を占めているからである。そして二つの物体が同じ場所を占めることができないように、ひとりの人の場所が他の人の場所と一致することはない。他人によって、見られ、聞かれるということが重要であるというのは、すべての人が、みなこのようにそれぞれに異なった立場から見聞きしているからである。これが公的生活の意味である」(アレント「人間の条件・P.85~86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

また「大衆社会に不自然な画一主義が現われるとき」、「共通世界の解体に先立って、共通世界が多数の人びとに示す多くの側面が解体する」。多元的多面性は解体される。選挙でいえば落選者とその支持者はともに無と見なされる。「それは、大衆社会や大衆ヒステリーの場合にも起こりうるのであって、その場合には、すべての人が、突然、まるで一家族のメンバーであるかのように行動し、それぞれ自分の隣人の遠近法を拡張したり、拡大したりする」。

 

この現象は日本でも関東大震災の時、民間人による朝鮮人虐殺や、官憲による労働組合員斬首河川敷放置といった歴史として刻み込まれている。ただ一つしか認めない価値観の共有と魔法のような同調圧力によって「共通世界の終りは、それがただ一つの側面のもとで見られ、たった一つの遠近法において現われるとき、やってくる」。

 

(3)「共通世界の条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとすべての『共通の本性』ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。しかし、対象が同一であるということがもはや認められないとき、あるいは、大衆社会に不自然な画一主義が現われるとき、共通世界はどうなるだろうか。そのような場合には、人びとの共通な本性をもってしても、共通世界の解体は避けられない。この場合、共通世界の解体に先立って、共通世界が多数の人びとに示す多くの側面が解体する。こういうことは、普通、暴政の場合に見られるように、すべての人がもはや自分以外の人と同意できないほど根本的に孤立している場合に起こる。しかし、それは、大衆社会や大衆ヒステリーの場合にも起こりうるのであって、その場合には、すべての人が、突然、まるで一家族のメンバーであるかのように行動し、それぞれ自分の隣人の遠近法を拡張したり、拡大したりする。この二つの事例において、人びとは完全に私的(プライヴェート)になる。つまり、彼らは、すべて、自分の主観的なただ一つの経験の中に閉じ込められる。そして、この経験は、たとえそれが無限倍に拡張されても単数であることに変わりはない。共通世界の終りは、それがただ一つの側面のもとで見られ、たった一つの遠近法において現われるとき、やってくるのである」(アレント「人間の条件・P.86~87」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

プライベートという言葉はそもそも「『欠如している』privativeという観念を含む」。したがって、「人間的な生活に不可欠な物が『奪われている』deprivedということを意味する。すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との『客観的』関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する」。アーレントの文章がしばしば国語の勉強のように「お説教」めいて見えるところではあるのだが。

 

とはいえ重要なのは「お説教」かどうかの検証ではない。極めて今日的な問いだ。流行りのネットゲーム、果てしなく更新再更新されていくネットゲームや、匿名の「自由」を名乗って次から次へと赤の他人を「いじめ自殺」へ追い込む快楽、それらの深みにはまり込んで抜けられなくなる人々が大量出現しているのはなぜなのか。どこがよりいっそう「自由」になったのか。かえって息苦しいではないか。

 

例えば、なるほど宇宙を目指して地球を脱出するのもいいかも知れない。けれども、アーレントの文章は、人間は往々にして宇宙へ脱出したとついつい思い込んでいるに過ぎず、それこそただ単なる宇宙へのもう一つの「引きこもり」=「孤独(ロンリネス)」を演じているのではという問いを含んでいる。なぜそうなるのか。

 

「大衆社会では、孤独は最も極端で、最も反人間的な形式をとっている。なぜ極端であるかといえば、大衆社会は、ただ公的領域ばかりでなく、私的領域をも破壊し、人びとから、世界における自分の場所ばかりでなく、私的な家庭まで奪っているからである」。

 

(3)「もともと『欠如している』privativeという観念を含む『私的』privateという用語が、意味をもつのは、公的領域のこの多数性にかんしてである。完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が『奪われている』deprivedということを意味する。すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との『客観的』関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する。ーーー今日、他人にたいする『客観的』関係や、他人によって保証されるリアリティがこのように奪われているので、孤独(ロンリネス)の大衆現象が現われている。大衆社会では、孤独は最も極端で、最も反人間的な形式をとっている。なぜ極端であるかといえば、大衆社会は、ただ公的領域ばかりでなく、私的領域をも破壊し、人びとから、世界における自分の場所ばかりでなく、私的な家庭まで奪っているからである」(アレント「人間の条件・P.87~88」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

公的空間の画一化・一元化は「私的領域をも破壊」する。ソ連もナチスドイツもそうだった。大日本帝国もまたそうだ。様々な多元的生活スタイルを一元的に没収してすべての民衆を全体主義的統率秩序の中へ叩き込み整理整頓する。

 

「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との『客観的』関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること」。それを今の言葉へ変換すれば「居場所のなさ」という症状として世界中を覆い尽くしているというわけだ。それでいいのかとアーレントは問いかける。

 

しかしアーレントの場合、民主主義的過程を重要視する一方、大衆はいつも欺かれると決めつけて疑わないような、ある種の「優生思想」にも似たネオコンの元祖(教祖)とされ、よく知られているように、なぜか自ら「メシア」めいた思想家として信奉されるに至った経緯がある。ともすれば自分自身もまた恐ろしく保守化する。民主主義は常に「諸刃の刃」だと知らしめたという見方も十分にできる。

 

ところで選挙結果を大きく左右するのは日本ではマス-メディアとネット戦略だろうと思う。この十数年間、とりわけコミットしてきたのは「フリー」のジャーナリストたち。ところが、「ジャーナリスト」にとって「フリー」とは何か。一九八〇年代からずっと持ち越され棚上げされてきた課題がある。本多勝一はいう。

 

(1)「いわゆるフリーというイメージは、やはり後者(寄稿家)にあります。形の上だけで見るなら、こういうフリーの記者はたくさんいます。しかし、彼らはどんな仕事をしているのでしょうか。問題はたんに収入の方法がフリーかどうかにあるのではなく、書くことがフリーかどうかにある。本当に自分のやりたいこと《だけ》に全力を投入し、しかもそれを自由に発表する場があること。これが真にフリーのジャーナリストと言いうる条件であります。大金持ちであれば収入の心配もありませんから、なるほどやりたいことだけに全力を投入できますが、はたして自由に発表する場があるかどうか、しかしたいていの場合は、そんな金持ちではありません。まず食わねばならぬ。食うためには、やりたくもないことを書き、編集者に妥協もし、取材対象にも妥協し、知人を頼ってタカリ歩き、悪くするとなかば恐喝に近いようなゴロツキ記者にもなりかねない。これがスノーのいうドレイ的フリー=ランサーなのです。『ブル新』を蹴とばしてフリーになったはずのジャーナリストが、当の『ブル新』以上に反動的な『ブル雑誌』に書いている例など少しも珍しくありません。これではいったい、新聞社にいる記者と、はたしてどちらがドレイ的なのでしょうか。極論すれば、日本には真にフリーのジャーナリストと言いうる人は(今のところ)ほとんど存在しないと思います。

 

《問題は、フリーか非フリーかといった生活形態にあるのではない》のです。非フリーが権力側の走狗で、フリーが正義の味方だ、といった思考法は、根本的に誤っている。この伝でいくと、最終的には『日本は資本主義国だから、そこに住む全日本人は独占資本の走狗だ』ということになってしまいます。フリーであれ非フリーであれ、どんな視点に立つかにこそ、問題の根幹はある。

 

さきに私は支配《される》側の視点に立つことは大変に危険な道だと申しました。どのように危険かというと、それはまったく文字通りに、なんらかの形で殺される危険につながってゆきます。世の中には、自然の災害も含めて殺される危険はたくさんありますが、歴史のどの部分をとってみても、権力の弾圧による危険ほど恐ろしいものはありません。アウシュヴィッツの例や、近くはインドネシア政府の共産党弾圧など、いちいち数えあげるまでもありませんが、ヒロシマの原爆による大量殺人以上の人びとが、権力側の弾圧によって虐殺されるのです。その《『殺される側』の視点に立つこと》。これがどんなに危険なものかは、日本の過去の『殺される側に』立った偉大な先人の例を見るだけでも明らかでしょう。

 

そのような危険な道だからこそ、私自身では軽々に『支配《される》側にオレは立つ』などと言えなくなってくるのです。命は惜しいし、ラクな生活もしたい。逆に支配する側、権力が喜ぶような種類のジャーナリストになれば、命は安全だし、生活もラクで、天下泰平、まことに笑いのとまらぬ人生が、《しばらくは》できるでしょう」(本多勝一「職業としての新聞記者」『職業としてのジャーナリスト・P.60〜61』朝日文庫 一九八四年)

 

まあ、「おキラク」なジャーナリスト生活を選ぶことはいつでもできる。が、「支配する側、権力が喜ぶような種類のジャーナリストになれば、命は安全だし、生活もラクで、天下泰平、まことに笑いのとまらぬ人生が、《しばらくは》できるでしょう」。その通り。「《しばらくは》」。次に殺されるのは「おキラク」な選択肢を選んだ人たちだと笑っているわけだが、だんだんそうなってきた。

 

「フリー」の「ジャーナリストたち」の中には加速的に「居場所」を喪失しつつある人間が目立ってきた。今では生成AIがもうそこまで攻めてきている。なおのことコメンテーターとやらは近いうちに駆逐されてどこにもいなくなる。戦争はもはや高度グローバルネットワークの分捕り合戦が主軸であって、にもかかわらず、なぜ今なお「おキラク」なコメンテーターでいられるのだろう。

 

さらにマス-メディアによる「検閲」と「契約関係」について。

 

(2)「しかしながら、ルポや雑報ではなくて、論説や意見を書く場合となると、お尋ねの『ナマで出したものがそのまま活字になることが妨げられる』ことも、ときにはあります。しかし、それは別に新聞に幻想を抱いてはいけないんで、すべての新聞は、なんらかの意味で機関紙なのですから、こちらも割り切っております。私と朝日新聞社との関係は契約関係にあるわけで(笑い)、私も朝日を利用し、朝日も私を利用する。お互いに利用しましょう。契約というものは、本来そういうものなんです。これは日本的社会ではあまり喜ばれないことですが、事実はこの通りでしょう。したがって、もし『朝日』の編集方針だとか、経営者がこれはまずいということがあれば、削るのが当然であって、私としては別に削ったからけしからん、といって怒るほど『朝日新聞』に期待してはおりません(笑い)」(本多勝一「海外取材の旅」『職業としてのジャーナリスト・P.101』朝日文庫 一九八四年)

 

本多は「原稿料」について「マイナスの『特』もある」と語るのだが、何を言いたがっているのかというと、「ま、日本もソ連やアメリカ同様、だんだん言論不自由になってきました」、という今となっては動かすことのできそうにない事情。

 

(3)「それでは『並』とはどういうことか。これは編集者が筆者を束縛せずに、一応『書きたいことを何でも』書かせる場合ということができましょう。自由に何でも書かせるのであれば、こちらも大いに利用価値があるわけですから、自分を商品として売るというような意味は少なくなってきます。いわばギブ=アンド=テイクになる。従って原稿料も、まあ常識的なものでかまわず、つまりは『並』ということなのでしょう。

 

ところが、先に言った『特』とは逆の、マイナスの『特』もあるのです。タダでもいいから、書かせてくれれば嬉しいというような雑誌か新聞。それは、異常なまでに勇気のある編集者と経営者の作る雑誌・新聞です。こちらが書きたいのは、《たとえば天皇制の問題だの、中国における日本軍による大量虐殺の事実だの》、要するに現代日本のタブーをひっくりかえすようなことであります。こういうものを、敢然と刊行する雑誌に対してだったら、まさに『特』として、原稿料など一銭もいただかなくても書かせていただくことになるのですが。

 

ま、日本もソ連やアメリカ同様、だんだん言論不自由になってきました」(本多勝一「原稿料の『並』と『特』」『職業としてのジャーナリスト・P.106〜107』朝日文庫 一九八四年)

 

しかし今やこの話は、「日本もソ連やアメリカ」も、だけとは限らなくなってきている。息苦しすぎてかなわない、と言わねばならない。

 

話題を変えよう。といっても、なぜかはわからないが、今回の統一地方選でも特に在阪マス-メディアが大いに絡んでいる点で、ずいぶん重なって見えてくる部分がないではない。流行語のように流通する話題の人物をゲストに呼んで何かしゃべらせれば、それはそれは大量の視聴率を取れる。予想されていたとはいえ、大躍進といっていい快挙を見せた政治政党について、良く言うとか悪く言うとかの価値基準とはまったく別のところで、あまりといえば余りにも似ている傾向がいずれ反復強迫のように出現してくるだろうと予言されてはいた。

 

三浦雅士が指摘した「マルクス主義」への熱狂とドストエフスキー作品の登場人物の熱狂との極端なカーニヴァル性。日本を変えると言いたいのはわかる。変わらないといけない部分は多々あるとも思う。だが、何を、どうやって?三浦雅士はいう。「急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスとドストエフスキーは、まさにひとつの対にほかならなかった。ドストエフスキーがその小説において、マルクスの限界を刻印しようとして躍起になった理由である。青春の終焉とは、マルクスとドストエフスキーが対になっているこのような構図そのものの終焉である」。

 

(1)「マルクス主義は宗教にすぎないとは、むろん、カール・ポパーのような論理実証主義者をはじめ、多くの思想家が述べていることである。それはキリスト教の最終形態にすぎない、と。だが、ベルジャーエフがいささか特異なのは、その背後に、ドストエフスキーの文学世界を潜ませているからだ。そしてまた、これもまた幻想にすぎないともいえようが、ロシアの風土をも潜ませているからだ。ロシア共産主義は本来的なマルクス主義なのではない、それは『ロシア民衆とプロレタリアートとの同一視、ロシア的メシア主義との同一視』によって成立した、さらにおぞましい宗教にほかならないのである。ベルジャーエフの、ときに神秘主義的にさえ見える思想を、ここで論じようというのではない。このような徹底したマルクス主義批判が、ドストエフスキーという先達の後を追うことによってはじめて達成されたという事実に注意を促したいのである。そして、ドストエフスキーもまたマルクスと同じように、いやそれ以上に、急進的かつ根源的であったという事実に注意を促したいのだ。指摘するまでもなく、たとえば『悪霊』は、ロシア共産主義のすべて、スターリニズムのすべてを前もって描き切っている。『カラマーゾフの兄弟』は、思想的な局面においてそれをさらに押し進めている。ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーからイワン・カラマーゾフへといたる人物像は、二十世紀を席巻したロシア共産主義の戯画以外の何ものでもない。おぞましい収容所列島の戯画以外の何ものでもない。戯画がはじめにあってその対象が後に実現するという転倒した事態には驚くほかないが、しかしよくよく考えてみれば少しも驚くべきことではない。ドストエフスキーは、急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスその人を自分自身のなかに飼っていたといっていいからである。ベルジャーエフは、『ドストエフスキーの世界観』のなかで、『ドストエフスキーの時代には、社会主義は主としてフランスにいちじるしかった。ドストエフスキーは、ドイツに発達した社会民主主義をまだ知らず、マルクス主義も知らなかった。だから彼の考察の多くは古くなっている』と述べている。あるいはそうかもしれない。だが、たとえば森和郎は『マルクスと悪霊』のなかで、ドストエフスキーはペトラシェフスキー事件で連座したニコライ・スペシネフを介してマルクスおよびマルクス主義に関しては熟知していたはずだと論じている。たとえば『悪霊』におけるインターナショナルへの度重なる言及を見ても、ドストエフスキーがマルクスを知っていなかったとはまず思えないが、事実関係はしかしここではさして重要ではない。知っているいないにかかわらず、ドストエフスキーは『ラディカルということは、ものごとを根本からつかむということである。だが人間にとっての根本は、人間そのものである』と書きつけたこの三歳年上のユダヤ人と、まさに根源的に似通っているというべきだからである。ドストエフスキーが『悪霊』のほぼ最後にルカ伝の『悪鬼に憑かれた豚』の挿話を引いているのは、表題の出所を暗示していることもあって有名だが、この小説にはほかにも聖書からの引用がある。ヨハネ黙示録の第三章第十四節から十七節にかけてである。『悪鬼に憑かれた豚』の話が引用されたと同じ『スチェパン氏の最後の放浪』の章に並べられているだけではない。『悪霊』の核心ともいうべき『スタヴローギンの告白』においても引かれているのである。二度にわたる引用はドストエフスキーの深いこだわりを示している。ラォデキヤに在る教会の使(つかひ)に書きおくれ。

 

『アァメンたる者、忠実なる真(まこと)なる証人、神の造り給ふものの本源たる者かく言ふ、われ汝の行為(おこなひ)を知る、なんぢは冷(ひやや)かにもあらず熱(あつ)きにもあらず、我は寧(むし)ろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬるき)が故に、我なんぢを我が口より吐出(はきいだ)さん。(後略)』(日本聖書協会訳)この一節を聖書売りの女ソフィアが読んでくれたのに対して、スチェパンは『わたしは今までこの偉大な章を、少しも知らずにいましたよ!まったくですね、なま温いよりはむしろ冷たいほうがいい。単に生温かいよりは、むしろ冷たいほうがいいです!』(米川正夫訳)というのである。また、スタヴローギンは、自分の依頼に応えて暗唱してくれたチーホン僧正に、諳誦を断ち切るように『たくさんです』というのである。スタヴローギンの身にこの一節は染み透っていたのだ。染み透りすぎるほどに染み透り、もはや言語が身体と化していた。『たくさんです』という切断はその事実以外を示していない。そしてその父の世代のスチェパンは、この一節に気づいていなかったことに気づいて驚くのである。これこそが新しくはじまっている奇怪な事態の根本であることに気づいて驚くのだ。この言葉は、思想はただ急進的かつ根源的であることにおいて思想たりうるという事実を物語っている。極端でなければ思想ではない。そしてまた、文学ではない。スチェパンもスタヴローギンも明確にそう受け取っている。過激であること、急進的、根源的であることの重要性を認識することにおいて、ドストエフスキーはマルクスに等しい。『ロシア人は一ったんカトリックに移る以上、必ずジェズイットになる』とは小林秀雄が好んで引くムイシュキンの台詞だが、過激なのはロシア人ではない。ドストエフスキー自身である。それは『ドイツの根本は、これを根本から改革するのでなければ改革できない。ドイツ人の解放は人間の解放である』と語るマルクスが、ドイツ人についてではなく自分自身について語っているように響くのと、まさに同じである。この論理、いや、この情熱こそ、大学の解体は国家の解体でなければならないと断言する新左翼の思想の淵源であった。バフチンはドストエフスキーの小説の特徴をポリフォニーにあるとした。夥しい声が立ち上がり、交錯し合う小説である、と。だが、いうまでもない。それが可能なのはただ、過激な登場人物たち、急進的かつ根源的な登場人物たちが、口角泡を飛ばして語り合うそのことによってのみなのである。熱いものは端的に熱く、冷たいものは端的に冷たい。その両極が摑み合うように激論するそのことにおいてのみなのだ。急進と根源は、ポリフォニー小説の要件にほかならなかった。カーニヴァルの要件にほかならなかった。微温的なカーニヴァルはカーニヴァルではない。ドストエフスキーの小説に、青年ヘーゲル派のなかでもとりわけ激情家で自信家で毒舌家で有名だったマルクスが登場するのは、したがってまさに必然であった。マルクスはドストエフスキーの分身、もっとも重要な分身にほかならない。ドストエフスキーは、資本主義社会を分析するその鋭い刃を、自分自身に、また自分自身の党派に向けたマルクスである。その傲慢、その悪意、その策謀を、自分自身に向けたマルクスである。急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスとドストエフスキーは、まさにひとつの対にほかならなかった。ドストエフスキーがその小説において、マルクスの限界を刻印しようとして躍起になった理由である。青春の終焉とは、マルクスとドストエフスキーが対になっているこのような構図そのものの終焉である」(三浦雅士「青春の終焉・P.465~470」講談社学術文庫 二〇一二年)

 

(2)「かつてマルクスはプロレタリアートを『失うものは何もない』階級として思い描いた。

 

『ヘーゲル法哲学批判』を読めば、プロレタリアートなどそれまで存在したこともなかったこと、ただ『失うものは何もない』という根源的な立場を確保するために必要とされた幻想にすぎなかったことがよく分かる。それは、人間を解放するためにこれから形成されなければならない階層だったのである。プロレタリアートは、マルクスをはじめとする青年ヘーゲル派の欲望にほかならなかった。『失うものは何もない』自分自身と重ね合わせることのできる、いってみれば、青春の甘美な夢にほかならなかった。

 

むろん、青春も、青年も、十八世紀が発明した観念にすぎない。対するに、『失うものは何もない』という根源的な意識は、青春とも、青年とも無関係に、はるかに古くから存在していたに違いないのである。失うものは何もない、生命以外にーーー絶望と希望が交錯し、また劇的に反転するこの地点は、死の意識とともに古いといわなければならない。すなわち人間とともに古いといわなければならない。

 

犬や猫は、たぶん、『失うものは何もない』などと思いはしないだろう。この意識は共同体の発生とともに古く、おそらくは共同体の基底を形成したに違いない。なぜならそれは共同体を脅かすほとんど唯一の地点だからであり、逆にいえば、共同体を変革しうる唯一の地点だからである。自殺の地点といってもいい。

 

知られているように、古来、子供が大人になるための通過儀礼においては、必ず擬似的な死が、そして再生が体験される。『失うものは何もない』という地点を通過する体験こそが、通過儀礼の要なのである。共同体の通過儀礼ともいうべき祭りもまた、『失うものは何もない』という地点を必ず通過する。

 

当然というほかないが、死と再生のあいだ、彼岸と此岸のあいだには、必ず『失うものは何もない』という地帯が横たわっている。さまざまな儀礼や儀式によって、人はそれを共同体の核心に組みこんだのだ。それこそが共同体の秘密にほかならなかった。

 

青春も、青年も、資本主義の勃興、市民社会の勃興とともに生じた集団概念であるとすれば、それはかつて通過儀礼として共同体の内部に組みこまれていた『失うものは何もない』というひとつの状態を、共同体の内部ではもはや支えきれなくなったという事実を示している。それはかつて共同体の通過儀礼のなかに含まれていたひとつの瞬間が、ひとつの持続として引き延ばされ、目に見える集団として共同体の外部にはじきだされたことを物語っている。すなわち、青春も青年も、はじめから『失うものは何もない』というこの根源的な地点の雰囲気を濃厚に帯びていた、いや、その代替物として登場してきたのだ。それは『失うものは何もない』という状態の象徴にほかならなかったのである。

 

したがって、『失うものは何もない』という形容を、たとえばプロレタリアートにこそふさわしいものであるなどと考えてはならないだろう。むしろ『失うものは何もない』という根源的な地点への憧憬が、また渇望が、プロレタリアートという概念を生んだのであって、その逆ではないからである。

 

『失うものは何もない』状態は、一般的にいって、決して望ましいものではない。青年は労働者と連帯しようとするが、労働者が『失うものは何もない』状態から、わずかにであれ『失うものが何かある』状態へ移行したとき、その連帯の必然は失われる。これが二十世紀の労働運動の歴史だったと述べてもいいほどだ。

 

青年は革命を好み、議会を嫌う。『失うものは何もない』状態は、労働者にとっては直接的な生活の困難にほかならなかったが、青年にとってはむしろ、思想の放恣なまでの自由、政治活動の過激なまでの自由を促す基本的条件だったのである。『失うものは何もない』状態は、労働者にとってではない、青年にとってこそ重要だったのだ。

 

『失うものは何もない』というこの意識は、死と隣接し、始原と隣接している。共同体は通過儀礼のなかにそれを組みこんだと述べたが、知られているように、階層として、階級として共同体のなかに組みこんだ場合もあった。さまざまな共同体、さらには国家において、『失うものは何もない』階層、階級が、あたかも共同体の秘密の核心として、それそのものを支えるべく形成されていたという事例は少なくない。その多くは宗教と深くかかわっていたのであって、ここにもまた根源的であることが急進的であることを誘発する土壌を見いだすことができる。

 

たとえば、宗教における原理主義がそうだ。洋の東西を問わず、『失うものは何もない』地点、そこにおいて世界が反転する地点は、むしろ宗教においてこそ威力を発揮したと見るべきだろう。日本においてはさしずめ親鸞の悪人正機説などがその典型だが、とりわけ西洋近代においてそうである。アメリカ合衆国は、さまざまな時点において、『失うものは何もない』ものたちの宗教的結束にほかならなかった。

 

青春も、青年も、資本主義の勃興、市民社会の勃興とともに生じた集団概念であると述べたが、『失うものは何もない』という意識は、青春や青年の特徴であるだけではなかった。この死と隣接し、始原と隣接している意識は、むしろ献身的な宗教家、また、情熱的な企業家の意識としてもあったに違いないのである。

 

マルクスは『命懸けの飛躍』という比喩を好んだがーーー一度はドイツにおけるプロレタリアートの形成の比喩として、また一度は、貨幣から商品への転換の比喩としてーーーそれこそ投機的精神にほかならない。『失うものは何もない』ものだけが『命懸けの飛躍』を敢行しうるのである。商業資本のみならず、産業資本においてさえ、失うものが膨大であればあるほど、企業家は逆に、『失うものは何もない』という意識に衝き動かされていたように思われる。青年の意識は、勃興期の資本主義の精神に背反してはいなかった。むしろ逆であった。

 

資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理によってのみ支えられたわけではない。いや、プロテスタンティズムの倫理の核心には『失うものは何もない』というこの根源的な意識が潜んでいたといったほうがいい」(三浦雅士「青春の終焉・P.484~488」講談社学術文庫 二〇一二年)

 

(3)「大江健三郎の『万延元年のフットボール』は、急進と根源という主題を真正面から扱って、その意味を深く掘り下げることに成功した小説だった、と述べた。そしてその姿勢を象徴するのが、語り手の蜜三郎の弟で、実質的な主人公といっていい鷹四の、『本当のことを云おうか』という台詞であるとも述べた。それはほとんどルカーチにとってのプロレタリアートに対応する、と。

 

いうまでもない。『本当のことを云おうか』という一語は、『失うものは何もない』という一語と等価なのだ。『もはや失うものは何もない。本当のことを云おうか。云えば、世界は根こそぎくつがえるだろう』。一語はそういう含みを持つ。

 

吉本隆明の詩に『ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらう』という一行がある。根源的かつ急進的な一行というほかない。詩集『転移のための十篇』の『廃人の歌』。前後の文脈を紹介する。

 

たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるからぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだ

 

吉本隆明がマルクスから受け取ったものが、何よりもまず根源的かつ急進的な精神であったことが歴然としている。この『ごうまんな廃人』は、さながら、現代文明のなかに『傲岸不遜な面構え』で踏みこんでゆくソクラテスである。『ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらう』という一行は、『すべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たにはじめなくてはならない』とも対応している。それこそ鷹四の精神の位相、自分一個の存在が全世界と対峙する位相である。

 

しかし、『万延元年のフットボール』において、ほとんど主旋律のように繰り返される言葉『本当のことを云おうか』の出典は、吉本隆明の詩ではない。谷川俊太郎の詩『鳥羽』からの引用である。詩集『旅』所収、『鳥羽1』。

 

何ひとつ書く事はない

私の肉体は陽にさらされている

私の妻は美しい

私の子供たちは健康だ

 

本当の事を云おうか

詩人のふりはしているが

私は詩人ではない

 

私は造られそしてここに放置されている

岩の間にほら太陽があんなに落ちて

海はかえって昏い

 

この白昼の静寂のほかに

君に告げたい事はない

たとえ君がその国で血を流していようと

ああこの不変の眩しさ!

 

谷川俊太郎もまた青春の詩人だが、叙情においてではない。根源的かつ急進的なその思想においてである。

 

詩人は、いまここにこのようにしてある生の自明性に深く傷ついている。深く傷つくことが人間であることなのだと直観している。これは抒情ではない。抒情の拒絶であり、拒絶する思想である。抒情ということでは、むしろ吉本隆明の詩のほうがはるかに抒情的である。思想ではなく、思想を生きようとするその姿勢が、悲愴なほどの情感にのせて歌われているからだ」(三浦雅士「青春の終焉・P.494~497」講談社学術文庫 二〇一二年)

 

(4)「おそらく、一九六〇年代の資本主義の変容に対応するその表現の素早さにおいて、手塚治虫の影響下に出発した一群の少女漫画家たちの右に出るものはいなかっただろう。やがて、一九八〇年代から九〇年代にかけて、その少女漫画にひたりきるようにして育った一群の小説家たちが登場しはじめる。物語も描き方も少女漫画の雰囲気を濃厚に漂わせた小説家たち、吉本ばなな、小川洋子から、篠原一にいたる小説家たちである。世紀転換期の文学を賑わしたのはこれらの作家たちだった。あたかもその予兆のように、一九七〇年代なかばから八〇年代にかけて、村上龍と村上春樹が登場していた。この二人の作家においても成長の神話はすでに破棄されていた。描かれているのは成長の物語ではなく、冒険の物語、遍歴の物語にほかならなかった。それがたやすく受け入れられた背景には、少女漫画の隆盛があったといっていい。とりわけ村上春樹においてそれは著しかった。村上春樹と吉本ばななの雰囲気は驚くほど似ている。村上春樹の影響が吉本ばななに及んだのではない。会話といい場面展開といい、村上春樹のなかにすでに少女漫画の特徴は明瞭だったのである。『ノルウェイの森』はさしずめその典型といっていい」(三浦雅士「青春の終焉・P.524」講談社学術文庫 二〇一二年)

 

道のりはまだまだ長いと思うのである。