白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・タマ闘病録10

2023年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年四月二十三日。投薬二十九日目。

 

早朝。ふいに目覚めてリビングを見るとこたつの下でタマがうずくまっている。大便のようだ。トイレの中へかちこちの硬い大便が5個。そのうち一つは長さ4センチほどの真鍮をねじった棒のようなもの。前にも一度あった。あとの4個もたいへん硬い。

 

片付けようとしたらトイレの脇に敷いてあるペット用トイレシートの隅に、とろとろに溶けたチョコレートのような軟便、というより下痢便が出ている。探してみるとテーブルの下に敷いてある小型ホットカーペットの上にも下痢便が一つ。個体というより液体に近い。さらに少量だが一カ所、嘔吐した跡がある。

 

あまりに両極端。でも、胃腸の調子がよくない時はそういうものかも知れない。

 

落ち着いて周囲を片付ける。午前中にヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を四分の一程度摂取。

 

午後にもう一度ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を四分の一程度摂取。

 

日差しが気持ちいいのか、隣室へ歩いていき、畳んである飼い主の布団の上で日向ぼっこして寝る。

 

さらに夕食後、午後八時くらいにヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を四分の一程度摂取。

 

今日はこれ以上無理に思える。目安となる一日の標準摂取量には及ばない。

 

しばらくすると再び下痢便。硬便から一転して軟便。初めてのことなので明日、病院に相談することにする。

 

二〇二三年四月二十四日。投薬三十日目。

 

早朝、大便は見られない。代わってトイレの中とペット用トイレシートの上に下痢便を出している。とろとろに溶けたチョコレート状。

 

診察時間を見計らって動物病院へ電話。指示を仰ぐ。胃腸の調子がよくない時はそういうものらしく、これまでの整腸剤の投薬を続けてもらっていいとのこと。残っているのは今日を入れて三日分。明日の夜には何日分かわからないが受け取りに行こうとおもう。

 

午前中にヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を三分の一程度摂取。

 

午後。買い物へ出たついでに、追加のペット用トイレシートとシニア向け粉ミルクの缶、哺乳瓶キット、いなばのエナジーちゅ~る4本入(まぐろ)を二つ購入。

 

帰宅してすぐエナジーちゅ~る1本を餌皿に盛ってみる。するとタマはよろよろと起き上がり、餌皿を覗きこんでおもむろに匂いを嗅ぐと、ぺろぺろと食べはじめた。一度に半分ほど。食べ終わるとなんだか周囲を見渡すような動きをみせ、テーブルの下へ潜り込んでしばらく睡眠。

 

カリカリは無理かもしれない。でもちゅ~るならまだ行けそうだ。しばらくして目を覚ますと残っていたちゅ~るを完食。2本目を盛ってやると二度に分けて完食した。少し安心。でもこれだけでは一日の理想的栄養分摂取量にはほど遠い。

 

人間の夕食が終わりしばらくして、午後八時頃、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を四分の一程度摂取。

 

写真は四月二十三日。日差しのいい二階のベッドで。顎の下に付いた食事の色を緩めのお湯で洗い落としてやらないといけない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて385

2023年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は曇り、湿度は25パーセントのようです。湖東方向も曇り。鈴鹿峠も曇りのようです。

 

午前五時頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.24)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.24)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.24)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.4.24)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.24)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.24)

 

二〇二三年四月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21・二つの嘘が見せつけた縫合不可能な<裂け目>

2023年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>は「失敗したり苦しんだりするのを怖れて、それを手に入れるのを日一日と先延ばし」することができる。ジルベルトの場合がそうだった。

 

ジルベルトについて無関心になったと思い込んでいた<私>。にもかかわらずジルベルトがもう<私>の手に入ることは決してないとわかった時、<私>は、そしておそらく多くの人々も、「それまでは陰鬱なまでに平穏無事に思われていた生活がもはや耐えられなくなる」。

 

だが重要なのは、耐えられなくなって始めて<私>の無関心は実は嘘だったと、まるで逆の芝居を演じて見せていたに過ぎないと、後になって気づく、という驚きである。

 

相手がアルベルチーヌの場合、また前提が異なる。前提が異なると出てくる結果は当然異なる。<私>はアルベルチーヌを手に入れた。一つの習慣=価値体系を解体して、別の習慣=価値体系を手に入れた。それは「産みの苦しみ」ともいうべき大変な苦痛を代償としてやっと手にいれたものだ。

 

ところがジルベルトの場合と違ってアルベルチーヌの場合、実際に手に入れたことが、今度は底知れぬ苦痛を招き込むことになった。あれほど欲した別の習慣=価値体系。手に入れたまではよかった。しかし、ずいぶん苦労して手に入れたアルベルチーヌであってもいずれ「どうでもいい存在」に思えてくる。アルベルチーヌのトランス(横断的)性愛嗜好を含めると、たちまち忌まわしいものにすら見えてもくる。

 

そこで<私>はジルベルトの時とは比較にならない無関心を装った。そうすることでアルベルチーヌはもはや「どうでもいい存在となったはずの人」だった。ところが実際、「その人からひき離されてしまうと、われわれはもはや生きてゆくことができない」という瀕死の状態に取り囲まれてしまう。

 

「われわれの心のなかには、自分ではどれほどそれに執着しているのか判然としないものが数多く存在する。ある場合、われわれがそうしたものを必要とせず暮らしているのは、失敗したり苦しんだりするのを怖れて、それを手に入れるのを日一日と先延ばししているからである。ジルベルトをあきらめたと思ったとき、ジルベルトにかんして私に生じたのがそれだった。われわれにはそうしたものから完全に無関心になるずっと前に、すでに無関心になったと想いこむときがあるが、そんなときくだんの娘がたとえば婚約したりすると、われわれは気が狂ったようになり、それまでは陰鬱なまでに平穏無事に思われていた生活がもはや耐えられなくなる。またある場合には、執着しているものを手に入れると、われわれはそれを負担に感じ、喜んで手放したくなる。これはアルベルチーヌにかんして私に生じたことだ。ところがどうでもいい存在となったはずの人が出てゆき、その人からひき離されてしまうと、われわれはもはや生きてゆくことができない」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.102」岩波文庫 二〇一七年)

 

無関心を装うという嘘。ジルベルトの時とは比較にならない嘘。相手がジルベルトの時は苦痛で済まされた。今度は嘘の価値が桁違いに大きく、そもそも異なる価値変容をともなっていたがゆえ、苦痛どころが「もはや生きてゆくことができない」という死の淵へ限りなく接近する。