無関心だと告げた言葉は「嘘のつもり」だったし実際に嘘だった。
しかし「時がたつと、嘘のつもりで言っていたことがどれも少しずつ真実になる」。
かつてジルベルトに対して告げた嘘の言葉は現実と化した。結果的にジルベルトは<私>から離れていった。
今の<私>はアルベルチーヌに対して嘘をついている。無関心だと。徹底的にそういうことにしておけばアルベルチーヌとの別離をもっと毅然と押し進めることができるだろう。<私>は「もしアルベルチーヌがこのまま数ヶ月をやりすごしてくれれば、ぼくの嘘は真実になるだろう」という欲望に衝き動かされている。
この欲望は<私>に次の生活、アルベルチーヌがいないことで訪れる、まったく新しい生活をもたらすに違いないという希望への意志だ。アルベルチーヌを忘却し去ること。すると<私>の生活はどう変わるか。
「もちろんこちらはまだそんな生活を堪能できる状態ではないが、そんな生活のさまざまな魅力がすこしずつ自分に開示される可能性はあり、それにひきかえアルベルチーヌの想い出はしだいに薄れてゆく」。
プルーストは忘却の力についてこうも述べる。アルベルチーヌは遂に記号化するというのだ。
「忘却のもたらす効果のひとつは、ほかでもない、アルベルチーヌに備わる多くの不愉快な面や、いっしょにすごした多くの退屈な時間もまた私の記憶によみがえることがなくなってゆき、それゆえアルベルチーヌが同居していたときに私が望んだように、そうした不快な記憶が相手にいなくなってほしいと願う動機ではなくなることであり、ほかの女性たちに感じた愛情によってすっかり美化され簡略化されたアルベルチーヌのイメージを私にもたらしてくれたことである」
「時がたつと、嘘のつもりで言っていたことがどれも少しずつ真実になる。このことを私はジルベルトのときにいやというほど経験した。すすり泣きがやまないときに私が装っていた無関心は、ついに現実のものとなり、そのときは偽りであったが後に真実となった言い回しで私がジルベルトに告げたように、人生はすこしずつふたりを離ればなれにしたのである。それを想い出して、私はこう思った、『もしアルベルチーヌがこのまま数ヶ月をやりすごしてくれれば、ぼくの嘘は真実になるだろう。おまけにいちばん辛いときはすぎ去ったのだから、アルベルチーヌがせめてこのひと月をやりすごしてくれるのを望むべきではないか?かりにアルベルチーヌが戻ってきたら、正真正銘の生活を断念することになるだろう。もちろんこちらはまだそんな生活を堪能できる状態ではないが、そんな生活のさまざまな魅力がすこしずつ自分に開示される可能性はあり、それにひきかえアルベルチーヌの想い出はしだいに薄れてゆくだろう』。忘却はいまだその仕事をはじめていなかったとは言わない。ただし忘却のもたらす効果のひとつは、ほかでもない、アルベルチーヌに備わる多くの不愉快な面や、いっしょにすごした多くの退屈な時間もまた私の記憶によみがえることがなくなってゆき、それゆえアルベルチーヌが同居していたときに私が望んだように、そうした不快な記憶が相手にいなくなってほしいと願う動機ではなくなることであり、ほかの女性たちに感じた愛情によってすっかり美化され簡略化されたアルベルチーヌのイメージを私にもたらしてくれたことである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.107~108」岩波文庫 二〇一七年)
ところが忘却はそう簡単に行かない。アルベルチーヌの記号化はアルベルチーヌが<私>に見せる変容である。変容すれば変容するとともにまたこんなことが起こってくる。
「このような特殊な形をとった忘却は、私を別離に慣れさせるのに精をだす一方、アルベルチーヌを以前よりも優しく美しいすがたに描きだすことで、私にその帰還を一段と願わせたのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.108~109」岩波文庫 二〇一七年)
一見すればただ単に同じことの反復に見えるわけだが、同一性の反復では決してない。反復する「死の本能」についての報告だ。それはいつも差異化の運動、時間とともに変わっていくということである。何度も繰り返し長い弧を描くように変化しつつ経過していく。
アルベルチーヌだけでなくいずれ<私>も死ぬわけだが、その<私>とはまた別に報告者<私>がいる。報告者<私>は反復する「死の本能」と同時並行する「喪の作業」とのどちらをも、これまでと変わらず何食わぬ顔でひたすら報告しつづける。とすれば報告者<私>とは一体なんなのか。
そんな話はもっと先のことだ。「喪の作業」だけを取り出そうとしてみたところで、では「喪の作業」以外の何が残されているのかといえば、それは大いに疑問でもある。「喪の作業」の中ではまるで無関係に見える無数の多様な出来事がせめぎ合っているわけだし、無数の多様な出来事のせめぎ合いのことを一言で言い換えるとすれば「喪の作業」という言葉に置き換えることもできるということを、プルーストは作品を通して可視化しているといえる。