白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて368

2023年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。一日中曇っていました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

二〇二三年四月十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

ポストパンデミックとUSインディーズの変容。その1です。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて367

2023年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は91パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

午前五時十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.4.14)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.14)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.4.14)

 

二〇二三年四月十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21・<私>が見た<裂け目>を埋めに来るフェティシズムとしての<夢>

2023年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

次の文章にこうある。

 

「ところが警察の一件はあれで片がついたと思っていた私にとって遺憾なことに、フランソワーズが私に報告しに来た話によれば、訪ねてきた私服刑事から、若い娘たちを家へ連れこむ癖が私にないかと訊ねられた門番が、てっきりアルベルチーヌのことだと想いこみ、その癖があると答えたので、以来わが家は監視されているもようだという。こうなると、悲しいときの慰めにだれか少女を呼び寄せることはできなくなる、そんなことをすれば目の前で刑事に踏みこまれ、少女には犯罪者だと思われて恥をかくおそれがある。と同時に私は、人間というものは自分で思っている以上になんらかの夢のために生きている存在なのだと悟った。というのも二度と少女をあやすことができないと知って、私は人生からすべての価値を永久に奪われた気がしたからであるが、それだけではなく、ふつう損得と死への恐怖が世の中を動かしていると思われているにもかかわらず、人がいともたやすく財産に拒絶反応をおこしたり死の危険を冒したりするのがよく理解できたからである。というのも、かりに警察の男があらわれて、たとえ見ず知らずの少女からであろうと自分が破廉恥漢だと思われていると知るくらいなら、自殺するほうがましだと私はきっと考えたにちがいないからだ。このふたつの苦痛のどちらが辛いかは、比べるまでもない。ところが実人生において人は、金を与えたり殺してやると脅したりもする相手に愛人や単なる友人がいる場合に、その相手がたとえ自分の身は尊重せずとも愛人や友人の尊敬だけは失いたくないと思うかもしれぬとは、けっして考えない」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.76~77」岩波文庫 二〇一七年)

 

目を引くのは、「警察」、「私服刑事」、「若い娘たちを家へ連れこむ癖」、「監視」、「犯罪者」、「すべての価値を永久に奪われた」、「財産」、「拒絶反応」、「死の危険」、「見ず知らずの少女」、「破廉恥漢」、「自殺」、「殺してやる」といった、これまでの展開ではほとんど出てこなかった垢抜けず世間じみた、ともすれば不穏で無粋な言葉ばかりだ。三文エンターテイメントにこそふさわしい。理由がある。少しばかり後戻りしなければならない。こんなエピソードが見える。

 

「アルベルチーヌの家の前で、私はひとりの貧しい少女を見かけた。大きな目でじっと私を見つめるその少女の気立てがよさそうなので、私はまるで忠実な目をした犬でも相手にしているみたいに、家へ来ないかと誘ってみた。少女は嬉しそうな顔をした。私はその少女を家へ連れてきて、しばらく膝にのせてあやしたが、やがて少女の存在は、アルベルチーヌの不在を痛感させる耐えがたいものになった。それで私は少女に五百フラン紙幣を握らせて、帰ってほしいと頼んだ。しかし、このあとしばらくすると、だれかほかの少女をそばに置いていたい、無垢な娘の存在にすがってけっしてひとりきりにならずにいようという考えがただひとつの夢となり、その夢のおかげで私は、アルベルチーヌはしばらく帰ってこないかもしれぬという考えに耐えることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.49」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌの不在は「ひとりの貧しい少女」の存在で置き換えることができる。代理させることができる。そしてまた一時的な代理の存在は逆説的にアルベルチーヌの不在を痛感させてしまう。けれども事態はそれほど単純でない。そうではないのだ。

 

むしろこう言ったほうがいい。

 

アルベルチーヌの不在は、それまでどこにでも何人もいたに違いないにもかかわらず、<私>の視野にはまったく入ってこなかった「ひとりの貧しい少女」の存在を見出し呼び寄せた。

 

次に「ひとりの貧しい少女」の存在は、最初のバルベック滞在時に出現したアルベルチーヌとの出会いがそうであったように、近づけば近づくほど輪郭を鮮明化させるため、かえってアルベルチーヌはここには<いない>、この存在はアルベルチーヌとは<異なる>というアルベルチーヌとの<違い>を、アルベルチーヌの<不在として>、断言し轟かせ、根底から揺さぶりをかける不気味で得体の知れない恐怖を煽る未知の存在へ転化した。

 

そこで<私>を面喰らわせるのは、不気味で得体の知れない恐怖を煽る未知の存在へ転化した「ひとりの貧しい少女」を、ほかでもない<私>が「膝にのせてあやし」ているという非常事態である。いきなり立ち上げられ<私>を包み込み呑み込もうとつかみにかかる事態に怖れおののいた<私>の頭脳は空転する。<私>は少女を外へ放り出すしかない。

 

ところがこの放り出しは、アルベルチーヌと「ひとりの貧しい少女」との間で見え隠れする<ずれ>を、<裂け目>を、<差異>を、引き裂かれたままの穴を、何か別の存在でただちに埋め込み縫合しぴたりと塞がない限り、容赦なく<私>を底知れぬ狂気の深淵へ叩き込むであろう。そういうとき人間は、おそらく圧倒的多数の人間は、いつも知らず知らずのうちに用いている大変馴染み深い方法へ取りすがるものだ。「夢」へ置き換えるのである。

 

 

「ただひとつの夢」=「だれかほかの少女をそばに置いていたい、無垢な娘の存在にすがってけっしてひとりきりにならずにいようという考え」。

 

もっとも、<私>の場合に限って、という条件付きではある。その意味でいえば<私>でない他人の場合、「少女」でなくてはならない必然性はまるでなく、逆に「少女」でなくても一向に構わない。音楽でも絵画でも映画でもコーヒーでもおしゃべりでもハイキングでもバイキングでもサイクリングでもジョギングでも釣りでも読書でも研究でも、なんだっていい。夢のキャパシティは底なしだ。夢に出てくるあらゆる表象はどれもみなフェティシズムの対象である限りで、すべてのフェチの無限の系列をどこまでも延々引き延ばしていくことができる。それがぽっかり口を開けた不気味この上ない<裂け目>をどんどん埋めようと次々到来する。

 

ゆえに「夢のおかげで私は、アルベルチーヌはしばらく帰ってこないかもしれぬという考えに耐えることができた」。この事情。夢というある種の切断、転倒した睡眠ともいうべきある種の時間、その前と後とで異なる二つの価値体系を接続してしまう謎だらけの機能。「夢思うゆえに我あり」。そうでなくては誰一人「耐える」ことはできない。アルベルチーヌによる<私>からの切断というのは、そんな事態でもあった。

 

緊急事態が通り過ぎた時、それはいったん解決したと思われた。そのはずだった。ところが「警察の一件はあれで片がついたと思っていた私にとって遺憾な」事態が引き続いて立ち現われたという支離滅裂な運びでなくてはならないのである。

 

そういうことを<私>は言いたい、とプルーストは報告させる。

 

坂本龍一から。東西冷戦終結後、世界がなぜかますます混迷度を深めていた頃、カーステン・ニコライとの共作を始めました。その3です。